第一部 あたしサキュバス

第2話 綺麗事ばっかりだ NaNaNa

 10月28日金曜日19時11分。


 シャート男山22階。

 角部屋の2208室。

 3LDK(築20年)。


 樟葉では一・二を争う高層マンション。

 学生の二人暮らしにはちょっと贅沢な部屋に僕たちは住んでいる。


 そんな家のリビングで僕と義妹は四人がけのテーブルを囲んでいた。

 もうすっかり日常になった夕食の光景だ。


「んー! お兄ちゃんシチュー最高! 鶏肉ほろほろ、ほっぺたもほろほろだ!」


「美味しそうに食べてくれて僕もうれしいよ」


「人が作ってくれたご飯ってやっぱりおいしいね」


「僕も、咲ちゃんの手料理を食べれて幸せだよ。明日のご飯当番よろしくね?」


「まかされよ!」


 にんまりご機嫌スマイルの義妹。

 黒くシックなセーラー服姿にその笑顔はギャップが激しい。

 笑顔三割増しだ。


 今日も僕の義妹は素直かわいい。


 けれど、隙が多いところがお兄ちゃんはちょっと心配だな。


 てれくさそうに頭を掻く咲ちゃん。

 そのほっぺたには白いご飯粒が輝いている。


 どうやって付けたのか謎のそれに僕はそっと指を伸ばす。


「ほら、ほっぺたがぽろぽろだよ?」


「ひゃぁっ! ちょっとお兄ちゃん!」


 ぼっと顔を赤くした咲ちゃんが、椅子ごと後ろに飛ぶように下がった。


 驚き過ぎじゃないかな。

 ちょっとお兄ちゃんもショックなんだけれど。


「びっくりしたなぁ。ご飯が喉に詰まるかと思った」


「ごめんね。そんなに嫌だった?」


「……そんなことはないけど」


「次からは気をつけるよ。はむ(咀嚼音)」


「にゃぁーっ! ちょちょちょ、お兄ちゃん!」


 取ったご飯粒を食べた僕に、今度は打って変わって咲ちゃんが掴みかかる。

 顔はいよいよ真っ赤。ぐるぐると目を回して涙が飛び散るあわてぶり。


 クールで艶やかな黒髪がぴょんと跳ねて猫みたいだった。

 ほんと何をやっても可愛いな僕の義妹は。


 数ヶ月前からは考えられない賑やかな一家団欒にほっと心が和む。

 義妹とはじめた新生活は順調そのもの。僕たちはもうすっかりと誰の前に出しても恥ずかしくない立派な兄妹で家族だった。


「ごちそうさま!」


「おそまつさまでした」


 食事を終えた咲ちゃんが僕に手を合せる。

 空になったお皿を手にして立ち上がるとそのまま台所へ。食器は各自で洗うのが、遠原兄妹の二人暮らしのルールだ。といっても食洗機があるので軽く流すだけ。


 手早くお皿を洗った咲ちゃんは、牛乳入りのコップを手に戻ってくる。鼻歌を奏でながら僕の横を通り過ぎると、彼女は窓に向かって置かれている二人がけのソファにどっしりと腰掛けた。


 樟葉の街を映し出す掃き出し窓の前には50型液晶テレビ。


 すぐにその中でYouTubeアプリが立ち上がる。

 家族共用アカウントの登録チャンネルから、アイドルVTuberを選択すると、咲ちゃんはくぴくぴと牛乳を飲んだ。


 夕食後の動画視聴はここ最近の咲ちゃんの日課だ。


「お兄ちゃん、昨日のシュバちゃんの地獄企画だけど、ここで見ていい?」


「いいよ。最近よくその子見てるね」


「うん。ボーイッシュな子だからキャラの勉強になるんだよね」


「どういう勉強?」


「男友達のノリで親しくなってね、不意打ち気味にメスを出すムーブが今はつよつよなんだ。『お兄ちゃん、咲も女の子なんスよ……』って!」


「よくわかんないや。じゃぁ、先にお風呂入っちゃうね」


「はーい」


 ソファーの背もたれからひょいと手を出して咲ちゃんが振る。

 ちょうどそのタイミングで僕もシチューを食べきった。


 台所で皿を洗い食洗機にセットして、壁の給湯器の電源を入れる。

 それから、食器棚に寄ってタッパーを拝借。コンビニで買った例のブツを持てば、お風呂の準備は完了だ。


 ――あれ?


「咲ちゃん、今日買ったゴムってどこに置いたの?」


「んー? テーブルにない?」


「……ないけど?」


 テーブルの上にコンビニの袋は見当たらない。

 ピンクの箱もやっぱりない。


 ゴムはどこに消えたのかと僕は首を傾げた。

 そんな僕の横で咲ちゃんがソファーから立ち上がる。


 ふりふりと制服のスカートを揺らす咲ちゃん。そう言えば、いつもは帰宅するとすぐに着替えるのに、今日はなぜかずっと制服のままだ。


 もしかして。


「よく探したのかな、お兄ちゃん?」


 言うが早いか、彼女はスカートの裾を摘まむ。


 ゆっくりと黒い布が吊り上がり義妹の太ももが露わになる。


 汚れない澄んだ肌。

 震えるむちむちとした肉。

 鶏手羽なんかよりよっぽどほろほろだ。


 エッチでキュートなそのビジュアルに、義妹相手につい変な声が出る。

 けど、これが捜し物となんの関係が――。


「妹に聞かないと日用品の場所も分からないなんて、ダメダメお兄ちゃんだね」


 ちろりとスカートから顔を出す水色をした布地。

 腰と太ももの境目に細い帯が伸びている。腰の上でちょうちょ結びになっているそれに絡まって――ピンク色の個包装パッケージが輝いていた。


 コンドーム、義妹の紐パンへ行く。


「ほら、ここにあるよ。お兄ちゃん」


「……って、コラ、咲ちゃん」


「えへへ。お兄ちゃんのために温めておいたよ。私の温もり、いっぱい感じてね」


「なにいってんのさ」


 これ以上、エッチなことになる前に、僕は咲ちゃんからそれを奪う。

 さりげなく取ったつもりだったけれど、ちょっとひっかかって「あん!」と咲ちゃんを鳴かせててしまった。まだまだ修行が足りないみたいだ。


 寂しそうに「冗談なのに」と咲ちゃんが呟いたど、ここはあえて無視。

 こういうからかいは流石にどうかと思う。


 法的に問題ないからってやっていいかと言われれば別だよ。


 義理の兄を誘惑しないで。

 僕だって年頃の男の子なんだ。

 心と体は結構ちぐはぐ。今はなんとかギリギリ、咲ちゃんのお兄ちゃんをやれているけれど、何かの拍子で理性のタガが外れてしまうかもしれない。


 だから――。


「お兄ちゃん、怒らないでよ。ねっ、ねっ、ねっ?」


 なんて真剣に思ったそばから、後ろからぎゅっと咲ちゃんに抱きつかれた。


「ほら。私のために頑張ってくれるんだから協力してあげたいなって。これはそう――麗しの兄妹愛なの」


「ぜんぜんうるわしくない。いやらしいのまちがい」


「もちろん、お兄ちゃんさえ覚悟があれば、禁断の関係もありだよ?」


「なしだよ」


「いつも言ってるじゃない。私たち義理の兄妹なんだから」


 ふわっと香る女の子の良い匂い。

 きゅっと僕の首を抱く柔らかい腕。

 せつなそうに絡めつく脚がとってもエッチ。

 耳を撫でる吐息はまさしく『生妹ASMR』。


 ガチ恋待ったなし!


 ダメだ。

 これ以上、妹の声を聞くと脳が溶けてしまう。

 ちょっと強引に身を捩ると、僕は義妹を身体から振り払った。


「それじゃ、お風呂を先に貰うね!」


「あ! ちょっとお兄ちゃん!」


 何か言いたげな義妹に背中を向けて、僕はいそいそとリビングを後にした。

 不満そうに地団駄を踏む音が聞こえてくる。これはお風呂を出てからも一悶着ありそうだと、肩がなんだか重たくなった。


 まったくもう。

 何が不意打ちでメスを見せるのがブームだよ。


「そんなことしなくても、咲ちゃんは立派に女の子だって」


◇ ◇ ◇ ◇


 さて。

 咲ちゃんへの『食事』の提供には、僕たち二人で決めたルールが幾つかあった。


 一つ、受け渡しには『コンドーム』を使うこと。

 一つ、『食事』の調達前にはしっかりと身体を清めること。

 一つ、『食事』を作る光景を見せないこと。

 一つ、『食事』をする所を見せないこと。


 以上が、僕と咲ちゃんが正式に交わした『食事』のルールだ。

 そこに加えて、僕は二つのルールを自分に科していた。


 一つ、『食事』以外に無駄撃ちはしないこと。

 一つ、大切な義妹をネタに『食事』を作らないこと。


 それは僕なりの義妹へのおもいやりだった。

 歪みきっていてこれっぽっちも共感できない上に、自己満足もいい所なルールだとは思うけれど。正直、ただの気持ち悪い奴だよ。


 とほほ。


「……ふぅ」


 お風呂場。

 身体を洗い終わった僕は、今日も日課の『食事』作りを終えた。

 さっとゴムを身体から外して漏れないように口を縛る。軽くシャワーで表面を洗い流せば、それを持って脱衣所に出た。


 洗濯機の上に置かれたタッパーにそれを収める。

 あとは、もう一度身体を洗って湯船で温まったらおしまいだ。


 これが僕の日課。

 いつもやってる咲ちゃんの『食事』の製造だ。


 ため息と共に視線を降ろすと洗濯機の横に置かれた脱衣籠が目に入る。

 僕の胸が嫌な鼓動を立てたのは他でもない。その脱衣籠がきっかけで、僕と咲ちゃんのこの歪な関係がはじまったからだ。


「もう、かれこれ一ヶ月になるんだよな……」


 独り言もついつい口を吐いた。


 事件が起こったのは9月9日のことだった。

 咲ちゃんと暮らし始めて半月ほどが過ぎた頃。夏休みを通して親交を深め、共同生活のルールもだいたい固まり、少し僕たちは同棲生活に油断をしはじめていた。


 その日の僕は、週末なのに珍しくバイトがなく、寄り道もせずに学校から家に帰った。ただ、僕の帰宅にはいつも駆け足でやってくる義妹が、どうしてその日はやって来ない。出かけているのかなと、僕はそこで勝手に判断した。


 まだまだ暑い九月の初旬。

 軽く汗を流そうと僕はすぐ脱衣所に入った。


 しかし、そこで僕を待ち構えていたのは――洗濯籠の中にこんもりと盛られた義妹の衣服と、むせ返るような年頃の女の子の甘い香りだった。


 洗濯物は日替わりで洗う約束をしていた。

 それが、お年頃の僕たちに必要な配慮だと本能的に思ったのだ。


 その予感は間違いなんかではけっしてなかった。


「……なにしてるの、謙太くん?」


 自分の部屋で寝ていた咲ちゃんが、脱衣所の異様な気配を察して起きるのに時間はかからなかった。脱衣所の扉を引いてこちらを見下ろすと、義妹は信じられないものでも見るような表情と視線を僕に浴びせかけてきた。


 黒く艶やかな義妹のショートヘアーが悲しく揺れていた。


 僕の不器用な恋がその時終わった。

 目の前の無限に愛おしい義妹ともう僕は暮らせない。

 暮らす資格がない。


 そう思うと、悲しみで身が張り裂けそうだった。あるいは、もっと暗い衝動にまかせて、妹に掴みかかろうかとさえ考えた。


 けれどもそんな僕の衝撃は、思いもよらない形に塗り替えられる――。


「……いや、どうしてこんな」


「咲ちゃん?」


 不意に咲ちゃんが涙を流した。


 僕を信じてくれていたからこそ泣いてくれたのだと思った。

 こんな情けない僕を彼女は心の底から兄として頼ってくれていたんだと。


「違うの。謙太くん。これは、違うの……」


「咲ちゃん?」


 違和感はあった。

 彼女の足下にたまる涙だまり。

 それが瞳から流れた滴でできたにしては――やけに大きかった。


 脱衣所の扉に背中を預けて義妹がそのまま床に尻餅をつく。

 涙だまりを白い足でかき混ぜ、鮮やかな赤いショートパンツの端を少し濡らすと、彼女はまるで僕に顔を隠すようにその場に俯く。


 けれども、その顔からあふれ出る悲しみの流れは止まらない。

 ますます勢いを増して脱衣所の床を水没させていく。


 おかしい。


 こんなに人は泣けるものだろうか。


 違う、これは――。


「咲ちゃん、それって?」


 肩で息をする義妹。

 その上気した吐息が悲しみではなく、真逆の感情によるものだと知ったのは、僕の呼び声で彼女が顔を上げた時だった。


 乙女の顔は恐怖と悲しみではなく――紅潮と歓喜に満ちていた。


 溢れる涙と涎が少女の顔を淫靡に染める。

 義妹の潤んだ恍惚の眼差しは、気づけば僕をいやらしく睨みつけている。


「違うの謙太くん。私、こんなエッチな娘じゃないの……」


 そう言って、咲ちゃんは自分の右手の甲を静かに噛んだ。

 自分の内側から沸き起こってくる、堪えがたい衝動をなんとか抑え込もうと、彼女はその柔らかい肌に歯を突き立てた。


 涙だまりに鮮血が滲む。


 その夜、僕は義妹が――サキュバスだと知った。

 その日から、僕は義妹のために『食事』を提供している。


 彼女の秘密を曝いてしまった罪滅ぼしのため。

 そして、彼女を深く傷つけてしまったことを、男として、義兄として、けじめをつけるために。


「大丈夫だよ、咲ちゃん。僕が君のことを守るから。僕がお兄ちゃんとして、君が苦しまなくていいようにするから」


 苦し紛れに言ったそのセリフが、慰めなのか、言い訳なのか、覚悟なのかは未だに分からない。


 とにかくその日から、僕は咲ちゃんの「お兄ちゃん」になったのだ。


 永遠に。


「おにーちゃーん! お風呂ながいよー! どれだけ頑張ってるのー!」


「……しんみりしてたのに、そういうちゃちゃ入れないでよ、咲ちゃん」


「大変なら、お手伝いしてあげよっかー?」


「けっこうです!」


「いつだったかみたいに、私のパンツ使う?」


「つーかーいーませーん!」


 ドンドンと脱衣所の扉を遠慮なく叩く音に我に返る。

 ガチャガチャとせわしなく咲ちゃんがドアノブを回すが、残念ながら脱衣所の扉は施錠済み。義妹サキュバスがお兄ちゃんを強襲できないよう対策は万全だった。

 エロエロお兄ちゃんが覗けないようにという説もある。


 まぁ、ちょっとシリアスな感じになったけど、今はもうすっかり元通り。

 逆に距離を少し縮めて、僕たちは「お兄ちゃん」と「咲ちゃん」と呼び合い信頼し合う関係になっているのだった。


 お互いの恥ずかしい所をしることで深まる絆ってあるよね。


 そういうことなんだと思う。

 そういうことにしておいて。(白目)


 ちょっと大人びたライトノベルの主人公にはなれない。

 どこまでも残念な僕と義妹なのであった。


 とほほ。

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