ごにんめ
ドアが閉まった。
中年男と若い女は床の上でしばし呆然としていた。
彼らには、さっきのスーツの男が何か──見えない何か──に腕を引っ張られて、列車の外の闇に呑み込まれたようにしか見えなかった。
「……あの、あの人って」
女が震える声で言う。
「知らんね」男はさっと立ち上がって、尻や膝を払った。「考えても無駄だよ」
「そんな、冷たい」
「助けてやったのになぁ」男は女の言葉を遮る。「俺が腕時計を外してやらなかったら、あんたどうなってた?」
「────」
「まぁいいや。君、立てるかい?」
手を出したが、女は動かずに言った。
「一人で立てます。恩着せがましい言い方しないでください」
アテが外れた男はチッ、と舌打ちをした。
「まぁいいや、これで4人全員終わったんだから終わりだろ」
「またスギカワに停まるかもしれませんよ」女は仕返しのように言う。
「順番から言うと、あんたの母親の方が先だろ?」
「わからないじゃないですか。部下を死なせてるあなたの方が──」
「勝手に死んだんだよあの馬鹿は! あんただって母親と何があったかわかったもんじゃないな」
「何ですって──」
ぽぉん。
例の音が、列車の中に鳴り響いた。
二人は黙った。
都心の駅の名前を期待しつつ、同時にオノミやスギカワの名を告げられるのを恐れた。
だが、聞こえてきたアナウンスは──
「お待たせいたししました、間ももももももななななくくく、
まままままももももなななななななななななななななななな
ななくくくくくくく、まもももももなななななななな」
……嫌だ、何!? と女は頭を抱えてうずくまる。
車内の電灯がバチバチと明滅しはじめた。
男は左右に目を泳がせる。
「どうなってんだよクソッ! どうなってんだ!」
くくくくくくくなななくくくまもももななななくくくく
もなまももなくななななななくくくくくくまもなななななななな
声が四文字を延々と繰り返し行き来する。
そのうちに電車の速度が落ちてきた。
女は丸まって泣きながら耳をふさいでいる。
男は窓の外を見た。
虚無の闇が厚く列車を覆っていた。
列車は自転車の速さになり、徒歩の速さになり、やがて虫の這う速度になってから、完全に停止した。
アナウンスは途切れ、静寂が訪れた。
ぷしゅう、と彼らの斜め前のドアが開いた。
外はまた、ひたすらの闇だった。
「ひどい」
男の声が響いた。
女はぴたりと泣き止み、凍りついた瞳で外を見た。
ふたり共に知った声だった。
さっきの男の声だった。
見えない何かに引きずり出された男。
ふたりが、助ける素振りすらなく見捨てた。
あの男の声だった。
「ひどいですよ」
闇の中、目の位置ほどの高さに、蠢くものがあった。
黒く厚い膜から、それはぬっ、と現れた。
中指、人さし指、親指──
列車の中に三本の指が突き出された。
指は金色の物品をつまんでいた。
指が離れて、床に落ちた。
女の、腕時計だったものだった。
小石のように小さく、固く丸く潰されていた。
「ふたりとも、ほんとうに──」
指が、そのまま車内へと入ってくる。
指から左手。
左手から手首。
手首から腕。
彼の服は、泥沼に漬かったように汚く濡れていた。
腕から肘が、二の腕が出る。
肩が現れる。
首と顎が見えた。
皮膚が、土色に変わっていた。
そしてそのまま、顔が────
男と女の絶叫が響いた。
ぱつん、と列車の電気がすべて消えた。
闇の中に、しゅう、とドアの閉まる音だけが響いた。
「ご乗車、ありがとうございました」
アナウンスの声が聞こえて、あとはなにもなくなった。
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