よにんめ

 この婆さんは。


 考える間もなく、ぐい、と引っ張られた。

 気づけば電車は速度を落としている。見えないホームに停まろうとしている。

 右手を握る老婆の力は老人のそれではない。関節が外れそうだっだ。


 足を踏ん張り左手を伸ばした。中年の男のシャツ。そこにネクタイがあれば捕まえられるはずの場所──だがネクタイはとっくに外されていた。


 後ろでぷしゅう、とドアの開く響きと振動があった。真っ暗な闇が広がっているのを感じた。さっき青年が呑み込まれた。どこまでも深い黒い闇が。


 私は向きを変えた。女の胸元、バッグの取っ手に指がかかった。

 女が叫んでバッグを離した。

 私は代わりに彼女の手首に巻いてある金色の腕時計に指をかけた。

 右腕はおそろしい力で外に引かれていく。

 腕時計かかった指を離したら、一気に持っていかれる。叫ぶ余裕もない。歯を食いしばり金属のベルトを手の中に巻き込む。

「痛い痛いいたい!」

 女が顔を歪ませる。

 その彼女を、中年の男が後ろから抱きすくめた。

 女を電車の中に止めようとしているのだ。

 誰も助けなかったくせに、若い女となると助けるのか!

「ふたりで! 二人で引っ張ってくれ!」

 歯の隙間からどうにか言う。

 男は片腕で女を抱きながら、もう一方の手の指を腕時計に這わせた。

 外そうとしている!

「助けてくれよ!」

 男の太い指がベルトを探って、力任せに金具を引き上げる。

「頼む、助けて……」

 かちり、と軽い音がした。

 私の指先が軽くなり、腕時計だけが手の中に残る感覚があった。

「あ」と言うより早く、私の体は列車の外へと引きずり出された。

 闇に入った体の部分の感覚が、溶けてなくなるのがわかった。

 最後に見たのは、床に尻餅をついている中年男と、若い女の姿だった。

 私を引っ張るこの老婆のことを、何か思い出した気がした。

 しかし私の意識は、頭まで暗闇に呑まれた瞬間に途切れた。





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