さんにんめ
彼はそう言ってドアの真ん前に行こうとした。私は彼の前に立ちはだかる。
「近くでなくても……」
車体の下、線路のきしみの間隔が伸びていく。停車が近い。
「いいんです。僕、ずっと謝りたいと思ってて」
「けど、本当に友達かどうか」
「奴が死んだのがテラダって町なんです。間違いないです」
彼は私の肩を押しのけた。優しい押し方だった。
「謝るって言ってるんだ」中年男はネクタイを雑にズボンのポケットにしまう。「すぐそばで言わせてやればいいよ」
「……そうですよ、そう」席で縮こまっていた若い女もはじめて、身を起こした。
「話してみて、まずかったら、戻ればいいんですよ」
そうは言うものの、彼女の言葉の端々には思いやりがなかった。試しにやってみてほしい、という気持ちが隠せていなかった。
私は老婆に目をやった。そういえば今までこの人の意見も、いや声すらも聞いていない。この異様な事態に戸惑っている様子もない。
よくよく見れば着ているものは裾や袖がほつれている。ボケているのかもしれない。
「どうです」と、私は探るように小声で聞いてみた。
老婆は口を開いた。二本きり残って黒くなった前歯があって、嫌な気分になった。
口を開いたはいいものの彼女は何も発さず、曖昧に首を横に振った。わかりません、という意味だと私は考えた。
「……じゃあ、声が友達じゃなかったり、危険だと思った時は言ってください。助けますから」
「ありがとうございます」
青年が温かい目で私に礼を言った時ちょうど、列車が軽い音を立てて停まった。
青年は、ドアの前に仁王立ちになった。
表情は窺えない。しかし背中には腹を括った人間の気迫があった。
しゅう、とドアが開く。
外には何もなく、誰もいない。
彼の背中に緊張が走った。
「かずひろォ」
細い声が、闇の奥から聞こえた。
青年の全身から緊張が消え、力が抜けた。
「……ヒデキか? ヒデキだよな!」
「うん……」
青年の背が丸まった。顔を伏せて、泣いているらしかった。
「ゴメンな」鼻をすする。「本当にゴメン……」
「いいよ……」
「ゴメンな……あんな事故になるなんて……」
肩と頭が震える。青年は泣きじゃくっていた。
「謝るなよ…………あぁ、もう、時間……」
「待ってくれよ! ユイちゃんとかお父さんとかお母さんに、なんか言いたいことないのか? 俺、絶対伝えるから!」
「もう、行かないと……」
声が、一歩下がるように遠ざかった。
「待てって!」
青年は闇の中に右手を突っ込んだ。
ぐい、と体が引かれた。
えっ、と短く呟いたあと、彼の喉の奥から狂ったような叫びが吐き出された。
「違う! 違う! ちがう!」
ドアのそばのポールを掴む。だが右上半身はもう黒い世界に呑み込まれている。ドアの内と外で断ち切られたように輪郭すら見えない。
「ヒデキじゃない! いっぱいいる! いっぱいいる!」
電車の床にスニーカーがこすれて鳴った。
青年は首をねじって助けて、助けて! と叫んで私を、他の乗客を懇願の瞳でかわるがわる見た。
私は恐ろしくて、ぴくりとも動けなかった。
「助けて! お願いです! ねぇっ」
ポールを掴んだ腕がまっすぐに伸びる。指もどんどん伸びて、金属の棒から離れていく。
「誰か! 誰か助け」
糸がちぎれたように、指が離れた。
涙に濡れた青年の顔は瞬時にして、闇の奥に消えた。
閉まる音は聞こえなかったような気がした。
気が遠くなったのに合わせて電車が動いたのでふらりときた。座席の背もたれに両手をつく。
しばらくそのままの体勢で、動くことができなかった。
誰かが小さく話し合っているのが聞こえる。が、内容は頭に入ってこない。
青年の声が耳の中に響き、最期の顔が脳の中に焼き付いたままだった。
どれくらいそうしていたのか。
いきなり背中をばん、と叩かれて、私は我に返った。
その方を向くと、中年男が立っていた。すぐ後ろには若い女がついている。
女は身を守るようにバッグを抱え、男は何故かニヤついていた。
男はこう言った。
「まあこれで、外に出ちゃいけないってわかったわけだ」
彼の言葉の意味がしばらく理解できなかった。
理解できた時、腹の底から熱い怒りが湧き上がってきた。
「どうしてです」一声目は、自分でも驚くほど冷静だった。「どうして、彼を助けようとしなかったんです」
「何言ってんだ」男は私の肩を掴んで顔を寄せてきた。また酒とタバコの匂いが鼻についた。
「あんただって何もしなかったろ。怖くて体が動かなかった、とか言うなよ? 結果的には同じだ」
言い返そうとしたが、言葉が選べなくて喉が詰まった。
「起きたことはしょうがない。もうくよくよするのはやめて、今は次をやりすごすことを考えた方が」
「──あんたには、心がないんですか」
どうにか、それだけ言うことができた。
「そういう口論は無事に帰ってからでいいだろ。ねぇ?」
またニヤついて、振り返る。若い女は蚊の鳴くような「……えぇ」と返した。
私が呆然自失となっている間に男は、この女を自分の手の上に乗せてしまったらしかった。もしかしたらあの老婆も、すでに丸め込まれているかもしれない。
「──皆で引っ張れば、あの人を助けることはできたはずでしょう!」
抑えがきかなくなり、大声を出していた。
「悼む言葉くらい言ったらどうですか! 助けなかったことだけじゃなく! 話しかけると言った時に止めなかったことも! 少しは自責の念を」
「だからぁー、今はそんなの意味がないって言ってるだろ? それより聞こえなかったのか? あんたの駅がもうすぐなんだから、ボタン、自分で押してくれよ?」
無性に腹が立った。男の言うことすべてを否定したかった。
「意味がないとか言うなよ! なんでそんな冷たいことが言えるんだ! 人がいなくなったのに! ボタンはあんたが押せよ! 人にばっかり押し付けないで!
それに次が俺だって決まったわけじゃないだろ! こんな無茶苦茶なことばっかり起きてるんだ、次はまたあんたの、別の駅かもしれないぞ!
そこの若い女の別の駅かもしれないし、この婆さんの駅だってまだ残ってるんだ! わかったような口をきくんじゃないよ!」
叫びきってから私は、息を切らせつつ目の前の男女の顔を見た。
ふたりとも、奇妙な表情だった。
最初は私の剣幕に押されたのかと思った。しかしそれにしても、困惑の割合が大きすぎる。理解しがたいものを眺めている目だった。
「あの」
口をもぐもぐさせていた若い女が、小さな声で私に尋ねた。
「婆さん、って、誰ですか?」
婆さんだよ──この、
言いながら隣に目をやろうとした。
右の手首を握られた。
老婆がいた。
歯が二本きりの黒い口を、にゅっ、と広げた。
皺に囲まれた、黒目しかない目が、小さくすぼまった。
笑ったのだった。
生きた人間の笑顔ではなかった。
しかし──私の記憶の中にこんな老婆はいない。
全く、知らない婆さんだった。
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