ふたりめ

 私は振り仰いで、立った3人を見た。

 中年男と青年は顔をしかめていて、老婆は何故か私の顔をじっと見つめていた。私にこの状況の答えを聞きたいのかもしれない。


「は? 何、どういうこと?」中年男はまるでこれが誰かの責任──自分以外の──であるかのような口ぶりだ。

「わかりません。でもたぶん、僕らも同じことになる気がします」

 青年は言った。腕を固く組んでいたが、冷静な口調だった。

「同じことって何だ」

「身内で死んだ人がいると、その町や駅……と称する場所に停まって、死んだ人に──」

「おい冗談じゃないぞ」中年男はイラついた手つきでネクタイをゆるめる。

「なんでそんな目に遭わなきゃいけないんだ。えぇっ?」

「それは僕にもわかりませんけど」

「俺は早く帰って寝たいんだ。チッ……なんだってんだよ」

「でも向こうも何か、言いたいことが」

「俺には死人に言われることなんか一つもないんだ。それともあんたは心当たりあるのか?」

「いえ、僕は──」青年が少し青ざめて、言葉に詰まる。

「何だ、あるのか。じゃああんたゆかりの駅に着いたら、あんたどうするんだ。ん? えぇ?」


 男は大声で言いながら、青年の肩を平手で押した。座っている私の鼻に、かすかな酒の匂いが入ってくる。そう言えばこの中年、顔が少し赤い。酔っている。

 立ち上がった。二人の間に割って入る。

「言い合いはやめましょうよ、まずどうやったら各自の家に帰れるか、それを──」

「あんた俺に指図するのか! えぇ?」

 男は私に掴みかかる。酒とタバコが混ざった口臭がする。よしましょう、と今度は青年が私と男の間に入った。

 まずこの場を収めないことには──考えたその時だった。




 ぽぉん。




 その音は、私たちの揉め事を一発で止めた。



「お待たせ致しました。間もなく、スギカワ」



 中年の男が、私たちの腕を払った。それから、

「……あんたら、スギカワは?」

 私は首を横に振る。青年も私に倣う。

 座席で小さくなっている女も、かすかな動きで否定した。

 後ろを振り向くと老婆は真顔で私を見ていた。肯定はしていないようだ。

 中年の男はネクタイをずるりと外してしまった。聞こえよがしのため息をついた。

「俺の前の職場だよ」

 眉を寄せ、迷惑そうに渋面を作った。

「まったく……チッ……」


 

 スピードが落ちる。床の下で車輪の回転が遅くなる。電車はたどり着きつつある。

「開いても真っ暗だったら、またあんたが『閉』のボタン、押してくれ。さっきやったあの調子で、な?」

 男はごく当たり前のように青年に言った。

 そんな理屈があるか、と私が咎めようとすると、「いいですよ」と青年が答えた。その声色に怒りはなく、どこか悲しい響きがあった。


 列車は静かに、どこかへと滑り込んだ。

 青年はドア脇、ボタンをすぐ押せる場所にまで移動した。


 ドアが開く。

 やはり外には駅舎も街灯もない。闇があるだけだった。

 彼は私たちの方を見やり、押しますよ、と頷いた。

 その時だった。



「部長……」



 潰れた男の声が聞こえてきた。

 青年は肩をびくりとさせ無意識に一歩下がる。その彼に、

「押せ! 何してるんだ!」

 中年男が焦った調子で言った。

「早く押せよ! 閉めろ! 何してんだほら!」

 おおよそ人に頼む口調ではない。しかし青年は素直に腕を伸ばし、ボタンを押した。


 ドアが閉じ切った途端だった。



 ばん。

 ばんばんばんばんっ。



 割れんばかりに窓が叩かれた。

 それと共に、


「人でなしィッ。人殺し。お前のせいだぞッ。許さないぞッ」

 たどたどしくも憎しみのこもった罵倒が、ドアの外から聞こえた。


 電車が動き出す。

 それに従って、窓を叩く者は後方へと流れていく。


「ちくしょう! クソ野郎! 恨んでるからなカワダ! 絶対に──」

 電車は加速し、声は遠のいていった。



 私も青年も、おそらくは若い女も老婆も、一斉に中年男の方を見た。

 しかし彼は「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。

「仕事のトラブルでね──逆恨みだよ逆恨み」

 強がっている風ではなかった。本当にそう思っているらしかった。

 呆れている私のそばで、青年が呟くように言った。

「あなた、そんな言い方──」

「向こうが勝手に死んだんだ。こっちだっていい迷惑だよ」

 座席の上で女が驚愕して息を吸うのが聞こえた。

 青年は二の句を継ごうとしたが止めて、もういいです、と言った。

 彼は長い座席の端に座って、足を広げて頭を抱えた。



 車両に、しばらくの沈黙が降りた。

 定期的な振動の中、私は考えを巡らせていた。


 まず、自分のこと。

 恨まれるようなことは? していない。

 私に怨みを残して死んだ人間はいるか? いない。

 両親は健在。祖父母とは縁遠い。親類、知人、近隣との付き合いも良好だ。まったく平凡で善良な人生だ。


 そんな私が「この電車」に乗り合わせているのはどうも落ち着かない。が、誰かに呼ばれたり罵られたりする恐れはないように思える。


 大丈夫だ。

 心の中で頷くと、硬直していた頭がほぐれてきた。

 どう帰る? 

 まずはこの5人で車両を点検してみよう。

 別れずに全員で動かねばならない。

 最初に前方の、運転席の中を覗いてみて──




 ぽぉん。




 私の思考は、例の音で寸断された。

「お待たせ致しました。間もなく、テラダ二丁目」



「ああ、やっぱり──。僕です」

 青年は立ち上がった。表情に、決心の色が濃く宿っていた。

 彼は所在なげに吊り革を掴んでいる中年の男に向かって、こう言った。

「あなたと同じことはしませんよ、僕は」

「なに?」

「僕は、謝るつもりです。死んだ友達に」





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