彼岸列車
ドント in カクヨム
ひとりめ
「すいません、あの」
その声で目が覚めた。
若い女が、私の顔を覗き込んでいる。
背と尻に硬いクッションの感触、心地よい定期的な振動。あぁそうだ、俺は終電に乗ったんだと思い出す。ガラガラの車内に座り、そのまま眠ってしまったらしい。
仕事終わりの深夜とは言え空いてるな、と座ったまでは覚えているのだが──。
寝起きのぼんやりする頭を上げると、乗客が4人立っていた。
若い女はワンピース姿で、小さなバッグを持っている。品のいい金の腕時計をつけていた。
紺色のスーツの中年男、手ぶらの私服の青年と、同じく手ぶらの老婆──この4人が、身を寄せ合うようにしている。
全員の顔にぼんやりと、不安げな表情があった。
「何か……?」
そう尋ねると、女は変なんです、と言った。
「まず、ここがどこなのかわからなくて」
……どこ?
私は伸びをし、反対側の車窓に目をやった。
真っ暗だった。
うんざりするほど見慣れた地方の郊外の家並、道の明かり、それがひとつも確認できない。広がる田畑も見えない。
二両編成の電車だが、乗り過ごしたにしてもおかしい。
まるで墨の中でも走っているみたいだった。
スマホを出す。電波が入らない。
「……運転士さんには聞きましたか?」
立ち上がりかけた私に向かって、青年が首を横に振った。
「ダメなんです」と彼は言う。「運転席も同じで」
青年の視線を追って、進行方向に目をやる。
私たちがいるのは先頭車両だ。運転室があり、運転士がいるはずだった。
車両の先頭の小部屋も、真っ黒だった。
なにかが充満しているような黒さだった。
「誰もいないんですか?」声が出ていた。「じゃあこの電車、どうやって動いてるんですか」
「知らないよそんなことは」と中年男が苛立つ。「苦情を言おうにも電波が──」
ぽぉん。
聞き慣れたお知らせ音が鳴り響いた。
続いて男の声がした。毎日のように聞いている、電車のアナウンスの録音声だ。
「お待たせ致しました。間もなく、オノミ」
オノミ?
そんな駅がこの路線にあったろうか。
「えっ」
若い女が叫んで、両手で口を押さえた。顔が青ざめる。
ただならぬ様子に思わず、どうしたんですと聞いた。
彼女は震えながら、小声で答えた。
「……母の、実家の町の駅で……」
「この辺ですか」
「し、島根です」
私は混乱した。
「ここ、都心ですよ」
「それは知ってます。でも」
ゆるゆると電車が速度を落としていく。
窓の外に駅の気配はない。
若い女は誰に言うでもなく、口を押えたまま呟く。
「なんで? なんでオノミに」
列車は、暗闇の中途で止まった。
ぷしゅう、と我々の斜め前のドアが開く。
ドアの外にも、ただひたすらに闇が広がっている。
「かなちゃん」
闇の奥から不意に、中年の女の声がした。
若い女は私の隣に飛び込むように座った。弾かれたような動きだった。
服の膝のあたりを握りしめている。手の甲は真っ白で、青い血管が浮き出ていた。目が大きく見開かれている。呼吸が浅く、体全体がこわばっていた。
彼女は硬直して、黒い空間を見つめている。
異常な事態が起きていることは、聞かずともわかった。
「かなちゃァん。ねぇ。どうしたのォ」
女の声が再び響いた。甘ったれたような調子だった。
「かなちゃァん、おかあさんだよお。ねぇ、かなちゃァん?」
女は影すら見せない。気配すらない。それなのに声には存在感があり、いやらしく甘えた調子も強くなっていく。
「ボタン。ボタン、おしてください」
若い女はきれぎれに私に囁いた。
「お願いです。ボタン。ボタンおしてください」
──この電車は、押しボタンで扉が開閉するようになっている。
駅に停まった際は自動で開く。しかし乗降客がいない時は冷暖房の節約も兼ねて、ドア脇のボタンを押すことで開け閉めができるようになっている。
そのボタンを押してくれ、と彼女は言っているのだ。私に。
私は躊躇した。ボタンを押すには必然、ドアのそばまで行かなければならない。
だが外には、得体の知れない声の主がいる。
手を掴まれでもしたら──
私は目の前にいる3人に目を転じた。
老婆は聞こえなかったのか、振り返って外を見たままの姿勢で動かない。
男2人──ビジネスマンと学生か──が、ちらとこちらを見ていた。
悩んでいるのを見透かしたように、中年の男が私に言った。
「あんたが言われたんだ。あんたやりなよ。本当は本人がやるべきだけど」
「いやです」若い女は涙目で首を横に振る。「できないです」
「ほら、できないってさ」
しかし、と言う私を中年男は押さえつける。
「可哀想でしょ。あんた、若い子の頼みが聞けないの?」
有無を言わさぬ口ぶりだった。こういう物言いに慣れているようだった。
「押すのなら、あなたでも」
「え? 俺に丸投げする気?」
「いやそうじゃなく」
「――ああ、もう!」
青年がかぶりを振ってから、前に進み出た。
ボタンまで数歩の距離を、怯えを振り切るように力強く歩く。
その勢いのまま、縦に並んだボタンの「閉」を押した。
ぷしゅう、と音がしてドアが動く。
それに合わせて青年は素早く引っ込んだ。
「かなちゃァん! ねぇ? なんでおかあさんのこと」
ドアが閉まりきる直前、とろとろとした甘え声が一段と大きくなった。
「うるさいッ!」
「かな」と呼ばれた彼女は上半身を揺らせて叫んだ。
「知らない! あんたのことなんか知らない!」
ドアが閉じた。電車が息を吐いて、ゆっくりと動き出す。
中年女の声は聞こえなくなったものの、堰の切れた彼女の叫びは止まらなかった。
遠ざかっていくのであろう母親に向かって、罵言を吐き続ける。
「なんなの! あんたのせいでどんだけ……クッソ! ふざけんなよババアッ……!」
「あの、大丈夫ですか」と私は声をかけた。
彼女は私の目を直視して、「何が!?」と怒鳴った。
私が驚くと、憑き物が落ちたように彼女の体の力が抜けた。
「あ……ごめんなさい。私……すいません」
今度はぺこぺこと頭を下げる。
いいんですよ、と言いながら私は、「母親」だけでなく彼女にも、歪んだものを感じた。
ごとん、ごとんと列車は、黒い世界の中を走っていく。
「母は6年前に死んでます。オノミで……」
身を縮めながら彼女は言った。
「私が看取りました。でもあの声は、絶対に母です」
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