愚かな自分を笑う

 涙は、何も言わなかった。

 驚いているのか、それとも思考が停止しているのか。ただ僕の向かい側に座っている。


「驚くのも無理ないけど。僕は涙が好きなんだ。女の子が好きなんだ。涙に先輩がいるのはわかってる。だから別に涙に答えてほしいわけじゃなくて。僕なりのけじめなんだ」


 涙は何も答えてはくれない。そもそも答えてほしくないと言っておきながら、答えてほしいと思うのは矛盾してるか。


「失望したかな。いやしたよね」


 やっぱりこうなるんだ。拒絶、僕に似つかわしい最後だ。このままい無くなろう、それが涙のためだ。


「ごめんねずっと偽ってて。ごめんね、涙の隣に居て。もう、涙の側には近寄らないから。ごめんね、さようなら。紅茶美味しかったよ」


 立ち上がって、ドアノブに手をかけた時だった。


「待って委員長!」


 涙の声は聞こえる。でも、僕に止まる理由はない。扉を開けて、部屋から廊下に一歩踏み出した。


「委員長、謝るのは私の方なの!」


 涙の発した言葉は、僕の足を止めるには十分な意味を持った言葉だった。


「私、全部知ってるの」


 後ろに振り向かず、話を聞き続ける、涙は一体何を知っているんだろう。全部って何だろう。最後それを知ってからいなくなってもいいかと思い始めていた。


「委員長とお父さんの間にあったことも、片思いのことも全部知ってるの!」

「え……」


 僕は咄嗟に振り向いた。本当に全部、涙は知ってるっていうのか。片思いのことも、私が僕になったこともすべて?

 いや、有り得ない、そんなこと有り得ないんだ。僕は涙にそのことを伝えていない。母さんは涙のことを知らない、愚弟もだ。涙が全部知ることはできないはずなんだ。ありえないことなんだ!


「全部聞いたの、教えてもらったの。片思いは自分で気が付いたけど」

「うそだ、ウソだ、嘘だ!」


 涙が全てを知っていたら、僕は何のために。今まで僕がしてきたことの意味は。


「嘘じゃないの、志保しほが全部教えてくれたの」

「しほ?」


 なんでその名前が出てくる。どうして今更志保の名前が出てくるんだ。それこそ有り得ないんだ。


「ありえない。志保が涙に全部を告げることなんてできない!」

「できたんだよ、志保は死ぬ前に私に全部教えてくれたの」

「無理だ、志保は死んだ。あの日あの場所で、あの瞬間に。死んだ!」


 そう、死んだんだ。志保は、私は。襲われて死んだ。そして僕が生まれたんだ。間違いない、今ここに僕がいることが何よりの証明だ。


「確かに志保は死んだ。でもそれは、志保がお父さんに襲われた次の日なの」

「そんな記憶僕には無い、僕は志保からすべての記憶を受け継いだんだ!」

「委員長……じゃあ次の日の記憶もちゃんとあるよね?」

「当り前だよ。次の日は……」


 そう次の日は。

 次の日は。

 次の日?

 僕は次の日何をしていた?

 僕は、いつ生まれた?

 どれほど昔の記憶からさかのぼっても、思い出せない。あの、襲われた次の日の記憶が、思い出せない。僕が生まれたはずの記憶がどこにもない。襲われてから、次の日までの記憶が僕には無い?


「思い出せないでしょ。志保がお父さんに襲われた日。確かに志保は壊れた。でも、一日だけ猶予ゆうよがあったの。その一日で私は全てを教えてもらった。志保が死ぬことも。志保が死んだ後に、新しい志保が生まれることも全部」


 志保は、私は。すべてを知っていた?

 僕が生まれることも全部、知っていた?


「そして私は志保と約束したの。新しい志保のことを守るって。全部知りながら。私、委員長とずっと過ごしてきた。志保のこと志保って呼べなくて、ずっと委員長って呼んでた。ずっとずっと、委員長が苦しんでるの知りながら、私、噓ついて生きてきた」


 僕は、ずっと。ずっと、涙のことを守っているつもりだった。私が僕になった後に、涙が家族を失ってからずっと。ずっと、守ってきたはずだったのに。

 本当は僕が守られていた。

 僕が涙を守って来たのは幻で、真実は僕が涙に守られてきたっていうのか?


「いつも、委員長が私に向けてくれる優しい瞳が。先輩が私を見てる瞳と同じことを知った時。私、委員長の気持ちに気づいた。ずっと、委員長が私のこと好きだったんだって気が付いた。でも私聞けなかった。春からずっと、委員長のこと騙してた。委員長のこと傷つけたくなくて黙ってたの‼」


 春からずっと、涙は僕の気持ちを知ってたっていうのか。僕の片思いを知りながら、ずっと僕の側に行ったていうのか?

 僕が悲しむと思ってずっと?


「は、はは」


 僕の片思いは、僕のしてきたことは、僕が生きてきた意味は。


「あはは」


 何もかも無意味だったのか?

 何かが崩れる音がする。外から聞こえる、物理的な音じゃない。僕の内側から響く、音のない崩壊音。空耳の様でありながら、僕の耳に響き渡る音。

 心が壊れ、崩れ落ちる音。


「あはは。涙を守っていたつもりが、僕が守られていた。僕のしてきたことは全て。自分勝手な自惚れだったのか。馬鹿馬鹿しい程に、身勝手な自己満足のエゴだったのか。僕が生きてきた意味は、無かったのか。くっくっくっ、あははっ」


 笑い声が遮られた。それも物理的に塞ぐ形で。

 僕の唇に、生暖かい何かが触れていた。

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