第7話 頼りなきヘラクレス
ロビーに入ると、冷気が一気にリーサを包んだ。
未だかつて味わったことのない至福の瞬間を体験する。
悪路を進み、汗だくでこのホテルに来るお客に合わせてくれているのか。
冷房の設定は【五つ星】だ。
広々として開放感のあるロビーには、いくつものテーブルと椅子がセットになって配置されている。どうやらここで食事やお茶も楽しめるようだ。
館内も外観と合わせた構造になっている。
ロビーの天井はとても高く、おそらくその天井の上にはあのヘラクレスが遠くを見て立っているであろう位置だった。
ゆっくり辺りを見渡しているのだが、どういうことか人っ子一人いない。ホテルの従業員すら見えない。
ジャングル奥深い未開の地。
中世ヨーロッパの建造物。
ほぼ全裸の英雄ヘラクレス。
効きすぎた冷房。
静かなるロビー。
「ホラーかよ」
リーサはそう呟くと、フロントにある呼び鈴を鳴らした。
チンチーンと、どこにでもある銀色の呼び鈴だ。
しばらく待つが、返事はない。リーサはもう一度呼び鈴を鳴らした。先ほどより気持ち強く。
すると奥から男性の声が聞こえた。
「はーい」
急ぐ様子もなく、面倒くさそうにゆっくりと歩いて出て来た。
クチャクチャ。
クチャクチャ。
なんとこの男。ガムを噛んでいるではないか。しかもそれを全く隠す素振りがない。
「あの……」
「いらっしゃいませ」
「……」
「……」(クチャクチャ)
なんだこの沈黙は。私が何か言わなければならないのか。私のターンで合っているのか。リーサは困惑した。
「ベルボーイの
『ベルボーイかいっ!』
と心の中で激しくつっこんだ。おかしいではないか。ベルボーイだとすれば入口で待ち構え、お客の荷物を受け取り、部屋まで運ぶことが仕事ではないか。
なのに何故、奥から呼ばれて出て来た。
しかもガムを噛んで。
「ここに、泊りにきたんだけど」
「うっす」
『うっす??』
こいつと私は知り合いなのか。
色々なものがズレていく。
西表島に合わないヘラクレス。
ヘラクレスに合わないベルボーイ。
ベルボーイに合わないガム。
大自然のガラパゴスからどんどんズレて、離れて行く。
突如、イザナギは何を思うのか確かめたくなったリーサは、イザナギを探した。
イザナギはソファに座って足を組んでくつろいでいるではないか。肝心な時に側にいないイザナギであった。
するとフロント左の廊下から、女性の声と足音が聞こえた。
「すみませんお客様! 大変お待たせいたしました」
とても真面目そうで、しっかりとした女性が腰を低くしてやってきた。
「宿泊のお客様でございますね」
「はい」
「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」
「
「イザナギです!」
後方から聞こえるイザナギの声は、当然リーサにしか届いていない。
「名主畑様でございますね! お待ちしておりました。直ぐに手続き致しますので少々お待ち下さい」
とても丁寧で、綺麗な人だ。リーサはそう思って少し安心した。名札を見ると【金子】と書かれてあった。
その横に立っている矢吹という男は、相変わらずガムをクチャクチャ音を立てて噛んでいる。いったいこいつは何者なのだ。
「名主畑様お待たせ致しました。本日は当ホテルをご利用下さり誠にありがとうございます!
「よろしくお願いします」
「驚かれたんじゃないですか? 色々と」
「え、えぇ。そうね。途中何度も引き返そうかと思ったわ」
「初めて来られるお客様は、皆さまその様におっしゃいます」
「あの道が正しい道なの?」
「そう、ですね」
苦笑いを浮かべている金子。
「じゃあ従業員もあそこを?」
「はい。でももう慣れました」
あの険しい道に慣れるとはいったいどういうことなのか、同じ人間として理解出来なかった。
「す、凄いですね」
「それではお部屋にご案内致します。矢吹君」
「はーい」
出た矢吹。気のない返事のこのふざけたベルボーイに、私の荷物を預けて問題ないのであろうか。リーサは不安でいっぱいだ。
「矢吹君! お客様の前ではしっかりして。あとガムも捨てなさい」
いつものことなのであろう。矢吹の表情は特段変化はなく、直ぐにガムを捨てた。
良かった。さすが金子さん。あなたがいてくれて本当に良かった。
「すみません名主畑様」
「ううん。大丈夫」
「じゃあ矢吹君お願い。お部屋は702号室よ」
金子は702号室のカギを矢吹に渡す。
「では名主畑様。ごゆっくりとヘラクレスでお過ごしください。何かありましたら金子まで」
「ありがとう。またね」
金子に手を振るリーサ。金子は笑顔で振り返してくれた。
どうやらこの人とは仲良くなれそうだとリーサは思った。
矢吹に先導されて、エレベーターの中へ入る。いつの間にか隣にはイザナギがいた。
「部屋はどんなのかなぁ? 楽しみだねリーサ」
リーサは心の中で静かにしてくれと思ったタイミングで、エレベーターのドアは閉まった。
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