名前を呼んで
御剣ひかる
わたしの名前を、昔のように
「コウタ、ねぇコウタ! ボールがきのえだにのっちゃった!」
広い庭のはしっこで、ふわふわのワンピースに身を包んだ小さな女の子が泣きそうな声で桜の木を指さしている。
コウタと呼ばれたのも、少女とそう変わらないほどの男の子だ。
半袖シャツに半ズボン、いかにもわんぱくそうな男の子、耕太は「またぁ?」と呆れ声で桜の木を見上げる。
丁度見ごろを迎えた桜は薄紅色の花をこれでもかというほど枝にたたえて、時々そよぐ風に花弁を撒き散らしている。
思わず見とれた耕太を少女が袖を引いてせかす。
「ねぇ、ボールとってよ」
耕太はひとつため息をついて、わかったと靴を脱ぐ。わんぱく少年は、あっという間に幹を一メートルほどよじ登った。
しかしここからが大変である。枝の途中にひっかかっているボールに手を伸ばすが、小さな男の子の腕は短くてなかなか届かない。
もうちょっと、あとちょっと、と身を乗り出すうちに耕太は落っこちそうになった。慌てて枝をつかむ。だがあまり強くはない桜の枝は耕太の体重に耐えられずメキメキと音を立てて枝が折れてしまった。
耕太と少女の悲鳴が重なり、続いて耕太が地面にドスンと落ちる音が庭に響いた。
少女が欲したボールは我関せずとばかりにころころと転がって行くが、二人とも茫然としたまま、動けなかった。
「い、いったぁ……」
耕太は目じりに涙をため、しかしここで声をあげて泣いてはいけないと我慢した。
だが少女は真っ青になって、耕太の名前を連呼して大声で泣き始めた。
「一体何事――、まぁ!」
少女の泣き声に、屋敷と呼ぶにふさわしい家の玄関が開き数人の女性が出てくる。
彼女達が目にしたのは、無残に折られた桜の枝のそばにしりもちをついている男の子と、彼を見て大声で泣いているお嬢様であった。
「耕太! あなた何をしたの!」
家政婦の一人、耕太の母親が真っ青な顔で駆け寄る。
「えっと、ボールを……」
耕太が状況を説明しようとしたが、別の家政婦が割って入った。
「桜の枝を折ってお嬢様を泣かせるなんて! これだから子供同伴は駄目だと言っているのよ!」
年かさの家政婦が怒り狂い、耕太の母親はひたすら頭を下げた。
「ちがうの! コウタはわたしのボール、とってくれたの!」
泣きじゃくりながらもお嬢様が耕太は悪くないと訴える。だが家政婦長は耕太を悪者と定めてしまった。
「いたずらをしてさらにお嬢様に気を使わせるなんて。このことは旦那様にご報告いたします! あなたは今後、この家に出入り禁止にしていただきますから! 住む世界が違うというのにずうずうしいったら」
目を吊り上げて激昂する家政婦長の顔を、耕太は悔しそうに見上げることしかできなかった。
時は流れ、耕太はそこそこの大学を卒業し、一流と呼ばれる企業に就職することができた。
幼いころに一緒に遊んだ少女とは関わりを持たないように心がけていた。「住む世界が違う」という家政婦長の言葉は耕太の胸に思いがけず大きな傷を与えていた。
だが少女は屈託なく話しかけてくる。無視するのも何だか違う気がして耕太も言葉を返していたが、彼女を名前ではなく「お嬢様」と呼んだ。
耕太としては精一杯の皮肉であったが、お嬢様はそれが自分に向けられた好意的な愛称だと受け取ったのだろうか、いつもにこにこと笑っていた。
見るごとに、彼女は少女から女性へと成長を遂げ清楚で美しくなっていく。つい最近ばったりと会社の前で会った時は、不覚にも胸が高鳴ったほどだ。
「おまえ、あの社長令嬢の幼馴染なのか?」
どこからかそんな噂を聞きつけて、同僚が尋ねてくる。
「幼馴染っていうか、昔母親が綾小路さんの家で家政婦をしていて、その時に少し遊んだだけだよ」
「それだけか?」
同僚は勘ぐっているようで、首をかしげる。
「それだけだよ。何せ住む世界が違うからな」
耕太は昔の苦い思い出に苦笑しながら答えた。
そう、住む世界が違うんだ。
自分に言い聞かせながらも、耕太はなにか言い知れぬ不快感を覚えていた。
ある日、突然に、唐突に、耕太の家に「お嬢様」がやってきた。
「なんで……、こんなところにお嬢様がいらっしゃるなんて場違いですよ」
耕太の家もけっして貧乏というわけではないが「社長令嬢から見ればウサギ小屋だろう」と皮肉たっぷりに言ってやった。
「また耕太さんはそんな言い方をして」
お嬢様は困ったように、はかなげな笑みを浮かべて少しうつむいた。
幼いころはコウタと呼び捨てにしていたのだが、さすがに大人になってからは「さん」付けになっている。そのよそよそしさが今の彼女との距離を物語っているようで、耕太は面白くない。
(いや、元々それが本来の距離感なんだけど。……おれは何を苛立ってるんだ)
耕太は気を取り直して、お嬢様に急な訪問の要件を尋ねた。
「お見合いを……、することになって、それで、わたし……」
「お見合い?」
裏返った声が大きくなる。耕太は口を押さえた。周りにひと気がないか、思わずきょろきょろと確認してしまう。
「……ちょっと、出ようか」
家の前で立ち話は目立ちすぎる。こんなところをご近所さんに見られたらまた何をウワサされるか判らない。耕太はお嬢様を伴って歩きだした。
近所の公園のベンチに腰をおろして、彼女の話を聞くことにする。
「父が、そろそろ結婚の相手を見つけなさいと、お見合いの話を持ってくるようになって。断っていたのだけれど、一度会うくらいしなさいと強く言われてしまって。わたし、まだそんなことは考えられないし……」
ずっとうつむき加減だった彼女は、顔を少しだけあげて上目遣いで耕太を見る。
耕太は息が詰まるのを感じた。
この、胸にこみあげてくる得も言われぬ気持ち悪さはなんだ。
怒り? 悲しみ? 判らない。だがとにかく、胸が苦しい。
「いいんじゃないか? 何せ社長令嬢だし、お似合いの相手を見つけてもらえば。……ってかなんでおれの所に来てんだ? 相談相手なら一杯いるだろう」
そっけなく言ってみたが、息苦しさは却ってひどくなった。
「どうして、って、わたしは……、あなたのこと……」
今は遠い存在の幼馴染は、きっと顔をあげた。目がうるんでいる。どうして判らないのと言わんばかりに寄せられた眉根が、耕太のうぬぼれた予想を肯定しているようだ。
もしかして、彼女は自分に好意を寄せてくれているのか。
そう思ってしまうと、さらに耕太の胸は高鳴った。こんな思いは初めてだ。
しかし、自分に何ができようか。幼いころに植えつけられた劣等感が耕太の希望を覆い隠した。
「おれは、いつまでもお嬢様の幼馴染じゃないんだ。住む世界が違うんだ」
苦しく吐いた一言に、お嬢様はあからさまに失望したというまなざしを向けてきた。
「そう……。ごめんなさい。だったら父の言うようにするわ。けど、ひとつだけお願いがあるの」
「何?」
「わたしの、名前を呼んで。『お嬢様』じゃなくて、わたしの名前を、昔のように。一度でいいから」
気にしてたんだ。
耕太は愕然とした。今まで一度も呼び名について言及されたことがなかったので、彼女にとっては気にも留めないことなのだと思っていたのに。
自分のことなどどうでもいいんだろう、と信じ込んでいたのに。
耕太は口を開きかけ、また閉じた。
今、こんな気持ちで彼女のの名前を口にしたら自分を抑えられなくなる。それは彼女がこれから掴むであろう幸せを壊してしまう。
ただ仲がいいだけではうまくいかない。幼いころに思い知らされた。
耕太がためらっていると、彼女は苦しそうに息をついて言う。
「あの頃は楽しかったね。わたしも無邪気で、今よりもっと世間知らずだった。あなたと一緒に遊べて幸せだった。『住む世界』なんて関係ない。……今でもそう思ってる。けれどあなたは……」
そう、あの一言の呪縛は大人になっても消えない。いくら彼女が屈託なく話しかけてくれていても。
「だから、一度だけでいい。それで、終わりにするから」
「判った」
彼女の、過去を断ち切るという覚悟を受け止めよう。耕太は決心した。
「……沙耶」
口にした途端、胸にあふれる思いを耕太は自覚した。
――おれは、沙耶が好きだった。ずっと前から。
しかしそれはもう、態度に出してはいけない想いだ。沙耶は過去を断ち切ると決めてしまったのだから。
目の前の幼馴染を抱きしめたい衝動を必死に抑えながら沙耶を見ると、彼女は恍惚とした顔で目を閉じ、耕太の言葉を全身で味わっているかのようだ。
「あぁ、やっぱりわたし……」
かすれるように漏れた沙耶の声に、耕太の呼吸が荒くなる。
「やっぱり、やめるわ。結婚」
ぱっと眼を開いた沙耶が、にっこりと笑う。
「……は?」
いや、ちょっと待ってくれ、終わりにするんじゃなかったのか? そのけじめじゃなかったのか?
頭の中で言いたいことがぐるぐると駆け巡ったが、あまりの突然のことに耕太は口をぱくぱくとさせるだけだった。
「だってわたし、ずっと耕太さんが好きだったんだもの。久しぶりに名前を呼んでもらえて、それだけでこんなに嬉しいんだもの」
まばゆく輝く笑顔で沙耶が言う。
嬉しいと思いながらも、耕太は中途半端な笑みを浮かべることしかできない。
「大丈夫よ。耕太さんには迷惑かけないようにするから。早速断って身軽にならないと。それじゃ、またね!」
軽やかに身をひるがえして、沙耶は走って行った。
後に残された耕太は、ぽつんと公園のベンチに取り残された。
たった一度、名前を呼んだだけで、なんてあっけないんだ。
そう思うと、笑いがこみ上げてきた。
耕太はその衝動のままに思い切り笑った。
(沙耶が決心したんだ。好きな女にだけ頑張らせるわけにはいかないな)
耕太もまた心を固め、勢いよく立ち上がる。吹っ切れた笑みを浮かべながら沙耶を追いかけて走り出した。
(了)
名前を呼んで 御剣ひかる @miturugihikaru
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