中編
あれからだいたい半年が経った。
大学4年の4月。
ちょうど半年前から、俺は研究室に配属されていた。
うちの学部は大学3年の後期から研究室に配属され、卒業研究に取り組むことになる。
その忙しさや要求される研究活動の量は研究室によって大きく異なるけど、俺が所属する研究室は、一部ではブラック研究室とも呼ばれるくらいには忙しいところだ。
ただ、ブラック、などと言うのはほとんど研究をせずに卒業したい学生の目線からであって、研究室内部の学生でそのように感じているメンバーは俺を含めてほとんどいない。
研究を通じてしっかり指導してもらえるし、ちゃんとした研究をしていて競争的資金もばっちりとれている。学生や先生方の研究の受賞歴もなかなかのものだ。
俺自身、大学4年ではちゃんと研究して就職しようと思っていたので、この研究室に配属されたことは幸運だったと感じている。
敢えて残念なところを挙げるとすれば、忙しさを理由に、お付き合いしていた年上女性とつい先日破局を迎えてしまったということくらいだろうか。
ちょうど4年にあがる直前ごろに、初の学会発表があって、実験の分析や発表する論文の原稿執筆、プレゼンの準備やらでてんてこ舞いになってしまい、彼女との時間をおざなりにしてしまっていた部分があった。
彼女の方も最後の数ヶ月は卒論執筆で忙しそうにしていたけど、彼女の研究室は、言っては悪いが卒論もそんなに力を入れなくても学位がもらえるところのようで、かなりの頻度で俺と遊びたがってくれた。
その事自体はなんとなく愛を感じる嬉しいことだったけど、俺のほうが物理的に割ける時間が少なくて、なかなか構ってあげられなかった。
そんな期間に少しずつ愛は冷めてしまったのだろう。
彼女が卒業して、新社会人として働き始めたのとほとんど同時に、別れ話を切り出されてしまった。
もちろん引き止めはしたけど、どうも彼女の方は就職先にかっこよくて自立した人がいるらしく、俺への気持ちもないのに付き合い続けることはできないということで、あえなく玉砕してしまって、今に至る。
高校の時の彼女と同じく、また年上の男に取られてしまった形だ。
俺は年上の女性が好きなんだけど、どうも世の中の女性の少なくとも一定数は、年下の男よりも年上の男に魅力を感じるらしい。
ま、当たり前か。年下より自立してる確度、高いもんな。
とにもかくにも、寝取られとまではいかないけど、なんとなくそれに近しい形での失恋を胸に抱えながら研究に励んでいるときだった。
久々に
『会えない?』
一言だけの簡素なメッセージ。
俺たちのやり取りは普段からこんな感じの適当なやり取りばかりなので、今更違和感なんてないけど、その内容はわりと珍しい。
というか、こんなふうに連絡してきたのは、憶えている限りでは2回目だ。
そう、一回目は、織が前の彼氏と別れたとき。
なんでもその彼氏さんに、「処女じゃなくてがっかりしたし萎えた」的なことを言われたらしく、激おこぷんぷん丸のムカ着火ファイヤーをかまして別れた後、号泣しながら俺に電話してきたんだった。
っていうか、その彼氏とヤるまでに1年以上かかったって......。
そんなことを口に出す彼氏さんは最悪だけど、男の立場からしたら、彼氏さんもちょっと不憫に感じてしまう......。
ま、俺はその彼氏さんとは面識ないし、当然、全力で
ちょっと罪悪感もあるし。
ごめん、織もそのときの彼氏さんも......。
その前に俺が織の膜を食い散らかしてしまっていたせいでそんなことに......。
なんにせよ、今回飛んできたメッセージはそのときとほとんど同じで。
逆に言えば、そのとき以外、こんな
俺たちは普段は互いに簡潔に用件だけをはっきり書く。
だから、この内容の不明瞭なメッセージだけで、何があったかはだいたい予想がつくというもの。
現在時刻は16時過ぎ。
今日中に片付けておきたいことが完了するにはもう少し掛かりそう。
だいたい今のタスクを完了するのに必要な時間を予測して、携帯端末を操作する。
『最速で今晩19時』
『そのへんの居酒屋か俺の家でどうだ』
俺はすぐに2つ端的な返事を送る。
すると送った瞬間に既読がついて、再びメッセージが通知される。
『わかった』
『識の部屋に行く』
織の方からも簡潔な返答がくる。
うんうん、了解了解。
『うちの鍵まだ持ってるか?』
織には俺の家の鍵をもたせていた。
彼女が入り浸っている期間で、俺がバイトに行ってる間とかに勝手に入ってくつろいでいてもらう用に。
俺が他の女性と付き合っている間とかに回収しなかったのは、もちろん信頼してたから、っていうのもあったけど、どちらかといえばぶっちゃけ忘れてたから。
あとは、どうせそのうちまた渡すことになるかもっていう深層心理の現れだったのかもしれない。
特にポストに投函されたり返された記憶がないので、破棄されていない限りはまだ織が持ってると思うんだけど......。
『持ってる』
良かった。破棄されてはいなかったらしい。
『おっけ』
『そんじゃあうちに入ってココアでも飲んでな』
織にとっては勝手知ったる人の家、といったところだろう。
いつも淹れていたココアの場所も、たった半年では当時と変わらないままだ。
きっとよしなに過ごしてくれるだろう。
『ありがと、識』
織からのそのメッセージを確認した後、クマみたいなキャラがOKと言っているスタンプを送りつけて、携帯端末を閉じる。
そうして俺はタスクを時間内にやっつけることに集中するよう、意識を切り替えた。
*****
ガチャ。バタン。
「ただいま〜」
閉められて鍵を開けて、玄関で靴を脱ぎながら声を出す。
玄関に置かれた1足の白いパンプスが、織が確かに部屋にいることを知らせてくれる。
俺の帰宅の声に気づいたのか、ワンルームの部屋の奥からパタパタと足音が聞こえてくる。
「........................おかえりなさい」
靴を脱いで家に上がったばかりの俺を、俯いたまま抱きしめながらおかえりの挨拶をしてくれる織。
どうやら服装は自分のものではなく、俺の大きめのTシャツを着ていて、下はパンツだけ扇情的な姿らしい。
なんかこういうの久々で、新婚さんみたいな気分だわ。
なんて調子のいいことが頭をよぎるも、目の前の尋常じゃない織の様子に、浮かれ気分はすぐに吹き飛ぶ。
「とりあえず、部屋に入ろう。話はそれから」
「うん......そうだね。識もこのままじゃしんどいよね。ごめん......」
「い、いや、俺は大丈夫だけどさ。織もゆっくり落ち着いたほうがいいだろうから。ほら、手ぇ洗ってくるから、先に部屋で待ってて」
「......ありがとっ」
そういって顔を上げてはにかむ織の目元は赤く腫れていて、すでにいくらか涙を流した跡が伺える。
俺は洗面所で手早く手洗いうがいを済ませ、織の待つ部屋に向かう。
「ふぅ......おまたせ」
「ううん、全然待ってない。むしろ聞いてた時間より早く帰ってきてくれてありがと」
「そか」
時計を見ると時刻は18時半。
もともと最速で19時と言ってたのに対して、それよりも早く帰ってこれた。
というか、織が心配でタスクを一部明日以降に回して帰ってきた。
俺たちは部屋の真ん中にあるローテーブルの隣接する2面にそれぞれ座る。
半年ぶりの、昔から変わらないほとんどいつものポジションに、懐かしさを感じる。
「「........................」」
ただ、今俺達の間に流れている沈黙は、懐かしさに酔いしれているから、なんて浮ついたものじゃない。
もっと重苦しいなにか。
うつむいて落ち込んだ様子の織が話し出すのを俺はじっと待っているだけ。
......こういうときって俺の方から話始めた方がいいのか?
いやでも、変な地雷でも踏んだりして織を傷つけたりしたら嫌だしなぁ〜。
頭の中でいろいろと語り出しをシミュレーションしてみるもどの案も棄却されて行き詰まっていると、織は何かを思い出したのか、堪えきれなかったとばかりに自分を抱くように腕を胸の前でクロスさせて小さく震えだし、目から涙をこぼし始める。
「織......。大丈夫だ。何があったのかはわからないけど、俺がついてる。大丈夫。焦らなくていい」
アヒル座りで、絶望するように怯えて小さくうずくまる織に、何もしてやれない自分に不甲斐なさを感じつつも、できるかぎりのことをする。
具体的には、そっと横から抱きしめながら頭を撫で、できるだけ刺激しないように柔らかい音を出すよう意識して声をかけた。
30分近くそのままの姿勢で織を撫で続けると、ようやく少し落ち着きを取り戻したのか、ぽつりぽつりと語りだす。
「今日ね、お付き合いしてた彼氏とデートに行ったの......。
いつもは私がデートプランを立てることが多いんだけど、今日は彼が行き先を決めてくれるって言ってて、当日まで内緒って言われててね。
最近ちょっとうまく行ってない気がしてて、珍しくサプライズしてくれるのかな〜って嬉しく思ってたの」
織が語りだしたのは、何やら倦怠期カップルのいちゃつきにも聞こえなくはない語りだし。
だけど続く内容は、ほほえましさが薄れていく。
「途中までは普通にカフェとかお買い物してたんだけど、夕方くらいにはホテルに連れ込まれたの」
「む、むりやり連れ込まれたのか!?」
「う、ううん。ちょっと強引だったけど、別にハジメテってわけじゃないし。私は気分じゃなかったけど、渋々ついていったの」
嫌がってるのに強姦された、ってわけではないらしい。
そこは一安心だな。
「ごめん、話の腰を折った。できれば、続けて?」
「それからは乱暴に服を剥かれて、前戯とかもなくほじられた」
それは......さぞ痛かったろう......。
俺もただの男なので、女性側の身体の感覚を解することはできないけど、濡れてもいないのに強引に摩擦を加えられたら、それはわりと辛いだろうなってことくらいは想像できる。
「......乱暴な、彼氏だったんだな......」
「前まではそんなんじゃなかったんだけどね......。最近忙しかったからあんまり会えなくて、溜まってたのかも......」
「それにしても、ほとんど無理やりやるなんて、穏やかじゃないな」
これも男側の心理はわからなくはないが、彼女が大事なら自分の欲求は程々に抑えて置くのが紳士ってもんじゃないのか。
「それでもそこまではいいの。問題はその後」
ここまででも十分酷い、震えて涙するに値する仕打ちだとは思うが......。
「彼、ゴムをつけてなかったの。それで......今日私危険日だからそれだけはやめてって泣いてお願いしたのに......そのまま......。ヤだよ......。私......私っ!」
グスッ、と彼女の話し声に再び嗚咽がまじりだす。
「まじか......。最悪だな............」
俺は未だかつて生で女性といたしたことはない。
性交渉で危険にさらされるのはほとんどが女性側。
そんな女性側の立場を考慮せず、野性に従って自分の欲望をぶつけるような行為は卑劣だと思うから。
しかも今日は織にとってヤバイ日と言うじゃないか。
合意が取れていて責任を取る準備があるならともかく、織はまだ大学が半年残ってる。
今万が一があったら、卒業や就職にも少なからず問題がでるはずだ。
それを知った上でその彼氏は......。
しかも織の話によれば、今日のデートはその彼氏によって計画されたもの。
最初からそのつもりだったのかもしれない。
............いくらなんでも織への思いやりに欠け過ぎているだろ。
けど、俺のことを信頼してくれて、こうやって相談に来てくれたんだ。
普通?なら女友達とか親とかに行きそうなものなのに。
いや、それはそれで話しづらいか。俺くらいの立場が逆に一番打ち明けやすいのかも。
ならその信頼には応えたい。
「辛いことをわざわざ言わせてごめん。だけど一個だけ聞かせて。その後はどう対処したんだ?」
これも織にとっては言いたくないことだろうけど、場合によっては
「シャワーで洗ってコーラで流せば大丈夫だって言って、私のあそこにペットボトルのコーラを流し込んで来て......」
......クズが。
どこの童貞だよ。AV見すぎて頭おかしなったんか。
俺はただの部外者だけど、そいつには一泡吹かせてやりたい......。
だけど、そんなのは後回しだ。今は少しで速くしなきゃいけないことがある。
「織。嫌かもしれないけど、今すぐ俺と一緒に病院に行こう。ちゃんと後ピル処方してもらって、まずは最悪の状況を回避できるようにしよう」
このまま手をこまねいていて、薬が効かない時間が経ってしまったら......。
ヤられてすぐ俺のところに来てくれたのは、不幸中の幸いだ。
時刻はもう20時に迫ろうとしている。
多くの病院は締まり始めているだろう。
夜間診療をやってるところを探すしか無い。
これまで後ピルを出してもらうための病院なんて調べたことも利用したこともない俺は、この時間でも診てくれる病院を検索するため、携帯端末を取り出す。
「し、識......?なにしてるの?」
織が不安そうな声を上げる。
「今からでも診てもらえる病院を検索してるんだ。............あった、ここからそう遠くないとこの病院が夜間もやってるみたいだ。
......いや待てよ、こういうときの対応っていきなり病院に行って良いのか?先に警察に言ったほうが......」
強姦を受けた場合の対応について検索してみると、まずは警察に連絡して、それから病院に向かうのがいいという旨の記載があった。
後で相手に働きかけるときの証拠が取れる病院を紹介してもらったり、その後の対応もスムーズになったり、場合によっては治療にかかった費用を公費負担してくれることもあるんだとか。
ただ、そうするかは織の判断に任せよう。
さっきの話っぷりだとたぶん......。
「織、まずは警察に行くのがいいらしいんだけど、どうだ......?」
「いや、いい......。人に知られるのも嫌だし、私もホテルまでは普通についていったし。別にあの人を強く責めるつもりはないから......。もう別れてはきたけど......」
「そうか......織がそう言うなら、俺が反対するのも野暮だな。でも、とりあえず病院には行かなきゃだ。万が一は阻止しないと。織、一緒に行こう」
未だ困惑の色が表情から抜けないままの織に発破をかける。
「い、一緒にって......。それじゃあ識に迷惑かけちゃうよ......」
「大丈夫だ。迷惑じゃなくはないけど、そんなの今更だ。それに今は俺の迷惑なんてくだらないことを気にしてる場合じゃない」
「識......」
「ほら、辛いだろうけど、頑張って立とう!俺が車出すから」
俺は自分の車を持っているような裕福な生活はしていないが、幸いにして一人暮し先の直ぐ側に、カーシェアをしている駐車場があるので、そこで車を借り上げて、織を連れて病院へ向かった。
その途中も「ありがとう」とか嗚咽混じりに感謝を告げられるも、俺には優しく「大丈夫」って言うとか頭を撫でるくらいのことしかできない。
何が大丈夫なのか、俺自身もわからない無責任な言葉をはきかけるだけ。
不甲斐ない自分に自己嫌悪に陥りながらも無事に病院につき、診察を受けて、いろいろと説明された後、無事にアフターピルを処方してもらうことができた。
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