第81話 転機 前
八月九日。
牧野杏の懸賞金が取り下げられるまで残り四日。
「クソッ!!」
男はそう悪態を吐き、机に拳を叩きつけた。
「懸賞金を掛けてからもう二週間以上経ってる!! なのに未だに奴を捕らえられない!! ふざけるな、こんなバカなことがあるかぁ!!」
薄暗い部屋の中、目の前のデスクトップの画面のみが彼の顔面を照らす。
その表情は、苦虫を噛み潰したような険しいモノだった。
「なにが【賞金ハンター】だ!! 使えない雑魚共ばかりじゃないか!! 聞いていた話と違うぞ!! あの男、俺を騙したのかぁ!!」
「騙されたの?」
「あぁ!! 【賞金ハンター】を利用すれば、奴を……『ずんだ餅』を捕らえることができると言っていたんだ!! だが実際はこの体たらくだ!!」
「それはドンマイ。でも、気を落とすな。生きてれば、そのうち良いことある」
「なにを……お?」
そこでようやく、男は違和感に気付く。
この部屋には自分一人しかいないはず。
――ならば、自分は今、一体誰と話しているのか、と。
「いえーい」
「だ、誰だお前はぁぁ!? ど、どこから入ったぁぁぁ!!??」
背後にいた少女……
「マンションの壁、登ってきた。それで窓が開いてたから、普通に入った」
「な、な、ななななななぁ……!?」
な、なにを言ってるんだこのトンチキな覆面を被った女は……!? ここはマンションの九階だぞ!?
それを、登ってきただと……!? ば、バカな有り得ない……!!
い、いや……それよりも……!!
「な、なんでここに……!?」
そう、男がもっとも気にすべき疑問。
それは九十九がここへ来た目的である。
「お前、闇サイトで『牧野杏』に懸賞金掛けてる。それ、取り下げさせに来た」
「は、はぁ!?」
な、なにを言ってるこの女……!?
「ふ、ふざけるな!! そんなことできるワケが……!?」
「うるさい、お前に拒否権はない」
瞬間、九十九がなにをしたのか、男はそれを理解するのに数秒の時間を要した。
な、なんだぁ!? お、俺が持ち上げられている!? こ、こんな小さいガキにぃ……!? う、ウソだ!! あ、あり得ない!!
続け様に起こる、非現実的な状況。
だがそれを飲み込む間もなく、男には次なる試練が待ち受ける。
「ほい、と」
「へ……」
ヒュオォォォォォォォォ……。
「夜風、気持ちいい」
「な、な、なぁ……!?」
ベランダの
そこから釣り糸を垂らすように、彼女は男を
高さはおおよそ、30メートル。
圧倒的浮遊感が、男を襲う。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!??」
「うるさい、次大声出したら放す」
「っ!?」
平坦な九十九の言葉に確かに宿る、圧倒的な説得力。
この女は、確実に手を放す。
そう実感した男は、必死で声を押し殺した。
この時点で、格付けは完了した。
な、なんだなんだなんだなんだなんだ!? なんなんだこれはぁ……!?
頭の中に浮かぶ大量の『?』。
だがそれを吐き出すことは、彼の生存本能が許さない。
「それじゃあ、取り下げて」
「……」
だ、ダメだ……それは、それだけは!!
譲れない一線。それを越えぬため、男は恐怖を押し殺しながら、恐る恐る口を開いた。
「あ、あのぉ……」
「ん?」
「ぼ、僕としてはですねぇ……け、懸賞金の取り下げは少し困ると言いますかぁ〜……そ、そこでどうでしょう。金を払いますから、取り下げを勘弁していただけたりしないでしょうか……?」
「……」
「へ、へへへ」
無言の九十九に対し、男は気まずそうに笑う。
そして、九十九の返事は……。
「お前、バカか」
無慈悲な罵倒であった。
「へ?」
そんな九十九の言葉に、男は間抜けな声を上げる。
「私の目的、牧野杏を守ること。そのために懸賞金、取り下げさせる。お前の取り引き、取り引きになってない」
「そ、そんな……それじゃあ、どうすれば……!!」
「どうもこうも、ない。取り引きも交渉も、余地なし。お前は黙って、牧野杏に掛けた懸賞金、取り下げろ」
淡々と、本当に淡々と九十九は告げる。
そこでなにをとち狂ったのか、男は思わず口にしてしまった。
「え、えーとぉ……も、もし……従わなかった、ら?」
ビュン
「え?」
瞬間、さらなる浮遊感が男を襲った。
一体どうなっているのかと、思考する間も無く……彼は本能で理解する。
――自分が、九十九によって上空へと投げ出されたことに。
マンションの九階、上空30メートルの高さに、さらに30メートルが加算される。
地面からの距離、60メートル……それが今、男のいる地点であった。
そしてそこから、重力に従い男は落下した。
「………」
その最中、彼は無言。
理由は、九十九に大声を上げるなと言われたからではない。
あまりの恐怖に、声が出ないのである。
あぁ……俺、死んだ。
瞬間、男の脳に流れるはこれまでの軌跡……いわゆる走馬灯。
数秒後、地面へと激突し見るも無惨な肉塊へと変わる自分を想像しながら、彼は落ち続ける。
ガシッ
しかし、それは途中で中断された。
落下していた彼を、九十九がちょうど掴んだのだ。
「お前にしてるの、頼みじゃない。命令、してる。もし次、ムダなこと言ったら、ホントに紐なしバンジー、決行」
「……」
有無を言わせぬ、九十九の圧倒的脅迫。
対し、ただ一般人である男の答えは決まりきっている。
「わ、わかりましたぁ……」
涙と鼻水を垂れ流し、男は情けなくそう言った。
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