後始末

6月15日

 藤原秀康・三浦胤義たちが後鳥羽院のもとに参上して

「門をお開けくにゃさい。この御所で敵を待ち受け、見事に戦って、その戦いぶりをお見せしてから、討死しますにゃ」

と、言上した。これに対し後鳥羽院は

「お前たちがここに立てこもれば、鎌倉の武者たちが取り囲んで、朕を攻めるにゃろう。それも癪にさわるし、お前たちにやれることはにゃいから、今すぐどこかに逃げるにゃ」

と、返答した。

 そのころ、鎌倉方が京に雪崩れこみ、洛中が戦場になった。

 三浦胤義は東寺に籠城、兄義村が率いる部隊と数度激戦のすえ、自刃した。かれの死に顔を見ながら、義村はつぶやく。

「お前はアホウにゃ。にゃによりも生き抜くことだけが大事にゃのにのう……」

 この日、後鳥羽院は泰時に

「今度の合戦は、謀臣どもが勝手にやったことにゃ」

と、院宣を送り、義時追討の宣旨を撤回する。



6月16日

「父上たちに勝利を知らせるにゃ」

「にゃっ!!!」



6月19日

藤原秀康とその郎党に対する追討の宣旨が下された。形式上仲恭天皇の命ではあるけども、実際は後鳥羽院の意思である。後鳥羽院は股肱の臣である秀康を切り捨てることになった。

 秀康は10月まで逃亡していたが、捕まり斬首されたとも、自害したとも伝わる。



6月23日

 泰時の書状が鎌倉に届いた。政子は

「よくやりましたにゃ……」

と、書状を読みながらつぶやき、義時もふうっと深い息を吐いた。



7月2日

 官軍についていた御家猫である後藤基清・佐々木広綱らを梟首。基清を斬ったのは息子基綱で基綱は

「親父殿、おさらばですにゃ」

と、泣きながら刃を振り下ろしたという。



7月5日

 後鳥羽院の側近だった参議の一条信能が、連れ出された美濃国遠山荘で斬首。

 幕府からは洛中でせよと指示があったが、泰時の判断で洛外での斬首となった。葉室光親らほかの側近にも同じ運命が待っていた。



7月8日

 後高倉院の院政が始まる。皇位を経ないで院になったのは初めてのことである。

 同日、後鳥羽院は出家し、法皇となった。



7月9日

 仲恭天皇退位。ながらく九条廃帝と呼ばれ、諡号を送られるのは、明治3年のことである。替わって皇位についたのは後堀川天皇。



7月13日

 後鳥羽院、壱岐国に配流。

 見送りに来たのは藤原家隆のみであったという。

「詩歌集とかおくりますにゃ」

「ありがとうにゃ……」



7月20日

 父後鳥羽院とともに倒幕を主導していた順徳院、佐渡国に配流。



7月24日

 倒幕賛成派だった六条宮、但馬国へ配流。



7月25日

 同じく倒幕賛成派だった冷泉宮、備前国児島に配流。



8月7日

 承久の乱で負けたものたちの所領が没収され、それを政子の命で義時が差配し、東国の御家猫たちは西国に所領を得ることになった。これを『新補地頭』という。



8月9日

 大江広元とともに積極策を唱えた三善康信没する。



閏10月10日

 土御門院、土佐国に配流。かれは父後鳥羽院や弟順徳院と違い倒幕に反対とはいかなくとも消極的であったが

「わたしだけが都にのこるわけにはいかにゃい」

と、自ら配流を願い出て、幕府もそれを承認する。



 こうして承久の乱は終わった。

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猫人小伝妙『ドキュメント承久の乱』 今村広樹 @yono

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