決戦
5月21日
3日間の作戦会議。大勢は
「住んでる土地を離れて官軍と戦い、上洛するにゃんて……」
と、迎撃策に傾いたが、大江広元が
「皆のいうこともわかるにゃ。しかし、関を守って時間を潰しても負けにゃ。武蔵の連中だって心変わりするかもしれにゃい。ここは天に運をまかせ、今すぐ武州どのだけでも出陣すれば、東国の連中は雲が竜に従うようについていくにゃ」
と反論。また、政子に呼ばれて病の中息も絶え絶えで来た三善康信も
「大将1匹でも、まず出陣すべきにゃ」
と、言った。
義時は
「これは神仏のアドバイスにゃ」
と、その場で武州、すなわち息子泰時に出陣を命じる。
5月22日
午前6時ごろ、泰時は前日に泊まった御家猫の家をでて、京へ向かう。腰にはかつて頼朝から褒美として拝領した剣をぶら下げている。
ついていくのは最初20くらいだったが、雪だるま式に膨れ上がり、190000の大軍になって、東海・東山・北陸の3道を進み、行く先々で官軍を撃破していた。
官軍側も山田重忠らが奮戦するも、焼け石に水。
6月8日
後鳥羽院は救援をもとめて比叡山へ。西園寺公経親子も囚人同様の扱いで同行し、あやうく斬首されかかるも中止される。
そのころ義時邸に落雷があり、うろたえた義時は大江広元を呼んで、こう言った。
「泰時たちが上洛するのは、朝廷を倒し奉らんためですにゃ。今、怪異があったにゃ、これは関東の運命がダメということですかにゃ?」
広元はなだめるように、返した。
「猫の運命は天地が決めますにゃ。勝つか負けるかは天が決めるでしょうにゃ。ぜんぜん怖がることはにゃいです。それに落雷は関東にとって吉兆ですにゃ。亡き大殿が藤原泰衡討伐で奥州へ攻めたとき、こちらの陣の落雷がありましたにゃ。こういう先例もあるけども、心配にゃら、占ってはどうですにゃ?」
と、そういうことで陰陽師を呼んで占うと
「大吉で出ましたにゃ」
と、言われてようやく義時は安心したという。
6月10日
後鳥羽院は西園寺公経親子を赦免。
「幕府にとりにゃしてほしいにゃ」
「わかりにゃした」
そののち家司である三善長衛を呼んだ。
「義兄たちはどうにゃった?」
「ご無事ですにゃ。『世事はわたしにかんけいにゃい』とおっしゃられてましたにゃ」
「そうか、義兄らしいにゃあ。ではまた頼まれてくれるかにゃ?」
「にゃっ」
6月14日
前日の大雨で増水した宇治川を挟んで、鎌倉方と官軍が対峙。
宇治橋付近を主戦場に鎌倉方の宇治川渡河作戦が開始、かれらは激流に飛び込み、多くの犠牲者をだしながら宇治川を押し渡る。
泰時は甲冑を着たまま騎馬で宇治川を渡ろうとした。手綱を持っていた御家猫は止めようとしたが、泰時がドンドン進んでいくので
「甲冑か着た連中はほとんど死ににゃしたよ、早く脱いでくださいにゃ!!!」
と、言った。泰時が馬を降りて甲冑を脱いでいる隙に御家猫がうまを隠したので、泰時は仕方なくイカダで宇治川を渡った。
泰時が川を渡ると、三善長衛が到着して、京都の情報を報告する。
「わかりにゃした、では護衛にこの者どもを連れて行ってくださいにゃ」
と、家臣を帰る長衛に同行させた。
こうして、大将以下溺死をもろともしない鎌倉方に、官軍は蹴散らされ、逃亡したのであった。
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