【cafe&bar あだん堂へようこそ】名もなきヒロイン

藤屋順一

名もなきヒロイン

 初めてあだん堂を訪れたのは高校二年生のとき、将来の夢も曖昧なまま両親の期待を背負い受験勉強に励んでいた私が辿り着いた秘密の勉強場所だった。


 元々成績はそんなに悪くなかった私が背伸びをして目指していたのはいわゆる名門大学で、普段は塾に通っていて、塾のない日曜日は目標を同じくする友達と近くのファストフードやファミレスで勉強していてたんだけど、その日はたまたま誰とも予定が合わなくて、青春を謳歌する高校生たちで賑わうお店で勉強する気が起きなくて、参考書や勉強道具が詰まった重い鞄を引き摺るように街をさまよい歩いてたまたま目に入ったのが、ここ、『cafe&barあだん堂』の看板だ。


 その時は受験勉強や高校生活に疲れていたのかな。都会の喧騒から隠れるような路地裏にあるレトロな佇まいの小さなお店の優しく落ち着いた雰囲気に惹かれて、吸い込まれるように木枠に嵌ったガラスに『あだん堂』と書かれたドアを開けると、カランカランと澄んだドアベルの音とともに、ふわりと甘く香ばしいコーヒーの香りが鼻腔に広がった。そして目に入ったのはその佇まいと雰囲気を同じくするレトロで落ち着いた、そのこだわりと気配りが隅々まで、インテリアの一つ一つにまで行き届いた店内の風景で、かすかに聴こえるクラシックのメロディとともに一歩足を踏み入れた瞬間、見たこともない昔のヨーロッパの映画のヒロインにでもなったかのようだった。


 見知らぬ世界に迷い込んだヒロインが最初に出会ったのは、まるで深窓の令嬢に仕える熟練の執事のようなロマンスグレーの老紳士、あだん堂のマスターの安壇征四郎さんが穏やかな笑みをたたえて迎えてくれた。


「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」

「ひゃっ、はいっ!」


 自分の世界に浸っていると突然映画の登場人物から耳に心地よいテナーの声をかけられ、ヒロインは私に戻って素っ頓狂な声で返事をする。お好きな席はどこかとセットを見渡せば、モーニングの時間を物語の中で過ごすお客さんたちがまばらに席を埋めていた。


 ちょうど勉強しやすそうな隅っこの席では目の下にくっきりとクマの浮かぶ可愛らしいお姉さんがラップトップに向かって特徴のある声で話しかけている。近くに座ると絶対気が散るに決まっているので、結局カウンターの隙間からキッチンが見える窓際の席に落ち着いた。


 勉強するにはちょっとテーブルが小さいけど、魔法の装置のようなサイフォンを無駄のない洗練されたルーティンで操作してコーヒーを淹れるマスターの仕事がよく見えるので、すぐにこの席がお気に入りの指定席になった。


「ご注文はお決まりですか?」

「あっ、はい! えーと……」


 いつもは私と歳も背丈も同じくらいの視線の鋭いバイトの男の子が無愛想に注文を取りに来るんだけど、あの日はたまたまお休みだったのか、マスターが直接注文を取りに来てくれた。


「カッ…… カフェ、オレで……」

「はい、畏まりました。カフェオレですね」


 せっかく素敵なお店に来たんだし、ヒロイン振ってミルクティーにするか、大人振ってオリジナルブレンドにするか迷った挙げ句、結局は飲み慣れたカフェオレを注文してしまうところが私が私たる所以である。

 にっこりと微笑んで応対してくれたマスターのピンと伸びた背中をがっくりと肩を落として見送った。


 それからカウンターの中に戻ったマスターは私のためにサイフォンを操作しミルクを温め、丁寧に心を込めてカフェオレを淹れてくれる。その様子をまだ座り慣れない席に座り、じっと観察していると、カップと一緒に私の心まで満たされるみたい。


「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ。お勉強、頑張ってくださいね」

「えっ? あっ、はい! ありがとうございます」


 目の前に静かに置かれた湯気の立ち上る大きなマグカップになみなみと注がれた優しい色の液体に見とれていると、きっと私の目的を見抜いていたマスターからの不意の心遣いに、なぜか気恥ずかしくなってしまった。


 店内を見渡して、他のお客さんに出されたコーヒーカップより明らかに大きいマグカップに「ありがとうございます」ともう一度呟き、そっと唇をつける。

 瞬間にミルクに閉じ込められていたコーヒーの香りが口の中に広がる。火傷しないギリギリの熱さ、ほんのりとした甘味に深いコク、爽やかな苦味が後に続いて喉を通り抜け、胸の奥にするりと収まった。


「はぁ…… おいしい」


 ため息と一緒に漏れる小学生並みの感想に自分でも笑いそうになって、慌てて澄ました表情を作って鞄から勉強道具を取り出す。


 それからノートと参考書に向かってどれくらいの時間が経っただろうか、聞き覚えのあるクラシックと談笑するお客さんたちのざわめきが溶け合うBGMが心地よく、いつの間にか目標にしていたページに達していた。あんなに集中して勉強できたのはいつ振りだっただろうか。


――カランカラン


「こんにちは! 征四郎さん!」


 元気よくドアベルが跳ねて明るい声が響くと、店内にいた全員の視線が入口に注がれる。入ってきた女の人はそんなことを気にすることなくマスターに満面の笑みを向けていた。

 ファッションを見ると大学生だろうか。私より少し歳上で、モデルさんのようにすらりと背の高い色白の美人さんだ。


「いらっしゃいませ。由紀ちゃん」

「今日の格好も素敵ですね!」

「ああ、ありがとう。今は私一人だから、ごめんね」

「はーい」


 常連さんの挨拶に淡々と応じるマスターは、そうは思わせないようにしているけど、私のときとは雰囲気が全然違う。こういうときの女の勘は鋭いのだ。

 ゆきちゃんと呼ばれた女の人、ゆきさんは少し不満そうに返事をすると、マスターの正面のカウンター席に「ここは私の席ですよ」と言わんばかりにぴょんと座る。


「征四郎さん。いつもの」

「はい」


 親しげに注文したゆきさんは頬杖をついてマスターに視線を送り、マスターはゆきさんの視線を受けながら、私の注文を受けたときと全く同じルーティンでカフェオレを淹れ、私のときと違って仕上げに角砂糖を三つカップの中に落として静かにかき混ぜる。

 人目を引く二人の容姿、短いやり取りと交差する視線、息のあった仕草はまるで映画のワンシーンだ。


 私のものだったはずのマスターがゆきさんに取られてしまったようで、つまらない気持ちになってマグカップに残ったぬるいカフェオレにため息の波紋を作る。それでも、ロマンスの主役とヒロインにふさわしい二人に、私はそれを見守る観客でも良いと思った。


 それから私もcafe&barあだん堂の常連客の一人だ。

 視線が鋭く無愛想なバイト君は最初は苦手だったけど細かいことによく気がついて、勉強に励む私に気まぐれに親切にしてくれた。マスターからこっそり聞いたお話だと訳があって通信制の高校に通っているらしくて、ある時お会計と一緒に『いつもありがとう。君も頑張ってね』と書いたカードを渡すと、俯いて耳まで真っ赤にしていたのが可愛かったのをよく覚えている。

 いつも店内の隅でラップトップとにらめっこしていたお姉さんは目の下のクマも薄くなってよく可愛らしい笑顔を咲かせるようになった。

 そして、あの二人のロマンスの行方は……


――カランカラン


 木枠に嵌ったガラスに『あだん堂』と書かれたドアを開けると、ドアベルの澄んだ音とふわりと甘く香ばしいコーヒーの香りとともに、四年前、初めてここに訪れたときの光景が鮮明に蘇った。


「いらっしゃいま…… ああ、おかえりなさい」

「お久しぶりです。マスター ……ただいま帰りました」


 満面の笑みで迎えてくれるマスターは年を取らないかのようにあの日と全く変わらない。


「ちょうど向こうの大学がお休みに入ったところで、あだん堂が恋しくなって空港から直行してきました」

「それはそれは、ありがとうございます。さぞお疲れでしょう。荷物はそこに置いて、お席にどうぞ」


 マスターに促されるままに窓際のいつもの席に着いて、座りなれた椅子で半日以上エコノミーに座り続けて凝り固まった手足を伸ばす。そこでようやく落ち着いて店内を見渡すと無愛想なバイト君もゆきさんもいないみたいだった。


「ご注文はいつものでよろしいですか?」

「えーと…… いえ、オリジナルブレンドを」


 あれから私は猛勉強の末にロンドンの大学に留学し、好きな人ができて、失恋して、たくさんの失敗を重ねて、小さな成功を手にすることができた。私はもう『あだん堂』の物語の観客ではなく、私の物語のヒロインなんだ。

 ……でも、今だけはもう少し、あの頃のままでいさせて下さい。


「あっ、あと…… やっぱりいつものカフェオレも」

「はい、畏まりました。ブレンドを飲み終える頃にお持ちしますね」


――カランカラン


「こんにちは! 征四郎さん!」



 了

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