試合当日

「朝夕先輩、大丈夫ですか……?」

「な、何がだ!?」

「いや、小手が左右逆……」

「はっ!?」


 坊主頭の後輩門下生が、紡の手元を指差してそう言った。

 目を落とすと、確かにそこには左右逆に嵌められた小手がある。

 紡は顔を真っ赤にしながらいそいそとそれを外し、正した。


「はぁ、しっかりしてくださいよ先輩。大将がそんなじゃ道場ごと形無しじゃないですか」

「……すまない」

「気持ちは分かりますけどね……」


 坊主頭は、ちらりと前方を見やってからそう言った。

 尾根山道場と神代道場の試合当日。

 からりと晴れた青空の下、各流派の門下生が集まった会場は尾根山道場。

 上座を正面とし、左右の壁際にそれぞれ尾根山道場、神代道場の選手が並んで防具を身に付けているところだった。


 紡の正面で黙々と胴紐を締めているのは、件の龍門寺麟だ。

 やはり当然のように大将として試合に参加するらしい。

 腰から下がった垂れの『龍門寺』の文字が、嫌にくっきりと紡の視界に焼きつく。


 本番の試合が始まるのは、これから1時間の自由練習の後。

 つまり、試合までの最後の調整の機会となる。

 本来ならば軽く体を温めるために使う時間のはずなのだが……当の紡は正に気もそぞろ、という様子であった。


真藤しんどう、良ければ基礎打ちの相手を頼む」

「はいよ、元からそのつもりでしたっと」


 真藤と呼ばれた坊主頭の少年は、竹刀を手に立ち上がると足の腱を伸ばす準備運動を始める。

 周りの門下生たちも各々に練習を始めているようであった。

 紡は深呼吸を一つすると、面の紐を固く締め直した。


*****


「朝夕さーん!呼ばれてますよ!」

「うん……?」


 紡が真藤を相手にウォーミングアップを始めてから約20分ほど経った頃、門下生の一人が駆け寄って来た。

 紡は、観客席の方に目を向ける。

 彼の二番目の姉は一番前の列に座り、堂々と船を漕いでいた。

 まさか母や一番上の姉が試合の見物に来るはずなどないし、と紡は首を傾げる。


「相手は誰か分かるか?」

「さぁ……ただ女の子のようでしたけど」

「女の子……」


 そう聞いて、紡の中に浮かぶ心当たりは一人しかいない。


「少し行ってくる。真藤の相手を頼めるか?」

「あ、はい。分かりました」


 紡は二人の後輩に軽く頭を下げると、道場の出入り口へと足早に向かった。

 廊下で壁に背を預けて立っていたのは、やはり予想通りの人物……絃であった。

 絃は道場から出てきた少年が面を付けたままだったからか、一瞬きょとんとした表情を浮かべる。

 しかし、すぐにそれが紡であることに気付いて表情を明るくした。


「ごめんなさい、つむ。来ないでって言われたのに、来ちゃいました」


 そう言って、絃はぺこりと頭を下げる。

 少し薄暗く冷たい雰囲気の、無骨な廊下。

 いつも見慣れているはずのそこに絃が立っているというのは、どこか異質で特別な感じがした。


「あの、迷惑だったでしょうか。やはり帰った方がいいですか?」

「いや……来てくれてありがとう。正直、嬉しい」


 不安げな絃に紡はそう伝える。

 絃の姿を見つけた時、張り詰めていた気が少しだけ緩んだように思えたのだ。

 紡のその様子に、絃はほっとした笑みを浮かべた。


「じゃあ、つむ!いつもみたいに『おまじない』してあげます!」

「あ、あまり寄らない方がいい!その、防具が汗臭いし!」

「えー。じゃあ、一生懸命大きな声で応援しますね!がんばれ、がんばれ、つーむ!」

「待て!試合中に騒いじゃダメだからな!?」


 嬉しそうに身を乗り出す絃と、慌てて後退る紡。

 桜花神社の境内ではいつもの光景なのだが、他の尾根山道場の門下生は板間からその様子を物珍しそうに見ていた。


朝夕あけくれ


 不意に背後から、木枯らしのような澄んだ声で名を呼ばれる。

紡は眉根を寄せて振り返った。


「……龍門寺りゅうもんじ


 面も手拭いも外している麟は、その表情がよく見えた。

 切長の瞳と、整った顔立ち。

 口元には穏やかな笑みを浮かべている。

 少し長めに切り揃えられた髪が、汗でしっとりと濡れていた。

 麟は紡の前に立っている絃に視線を移す。


「こんにちは。君の妹かい?」

「……絃、中の席に。俺もすぐ練習に戻らないといけないから」


 紡は麟の言葉を無視して、絃にそう促す。

 絃は少し戸惑った様子だったが、麟に軽く会釈をするとそのまま板間の中へと入っていった。


「あの子には帰ってもらった方が良かったんじゃないか?」

「……」

「気が散るだろう、きっと」


 一体何のために声を掛けてきたのだろうか、と紡は考える。

 まさか歓談をしようというのでもあるまい。

 単に自分の事を馬鹿にしに来たのか、それとも敗退する姿を絃に見せないように、などという哀れみか。

 どちらにせよ、紡にとっては不愉快この上ない話であった。


「……生憎だが」

「うん?」

「俺にだって、惚れた女子に良いところを見せたいという気くらいある」


 そう言った紡は麟の顔を見ることもなく、その隣を過ぎって板間へと戻る。

 廊下に一人残った麟はというと、少しの間その場に留まったのちに……ため息を吐き、踵を返した。

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