神社の参拝をしながら
二礼二拍手一礼とか、最近作られたものだよとかいう議論はさておき、確かに神社ってどう参拝すればいいの? という疑問はある。
正直いって、たぶん、特に決まっていないのだと思う。
それらしい儀式を各自が持っていればいいのかもしれない。節度を保つレベルで。
訳の分からないスピリチュアルな儀式も、それが、「神様を自在にコントロールする」ような振る舞いでなければ良いと思う。
人間は神様を、願いを叶える道具としてコントロールしようとしてしまいがちだけれども。
願いが叶いますように。これは神様のもたらすものではなく、あやかしのもたらすものだろう。願ってるだけで叶うはずがないというのは、本人が一番よく知っていることだろうから。人間はそこまでアホじゃないし、神もアホではない。
ただ、縁切り神社とかは、確かに効果はあると思う。でも神が何かをしているわけではない。
縁切り神社で願われるような人間は、遅かれ早かれ、何らかのトラブルを起こして消えていくので、縁切り神社が効果を発揮しているのではなく、願われるような人間が愚かなだけである。私は縁切り神社には行ってないが、縁が切れた人は多くいるし、それによって、生活は改善されている。縁切り神社の効果とは、トラブルを起こす人間の再確認のみだ。
あと、神社の鳥居をくぐるときに、帽子を脱いで頭を下げているのだが、これも正しいかどうかはよく分からない。まあ頭を下げればなんとなく、心が引き締まるというか、神様と向き合っている感じがすると思う。
特別な場所であることは確かなのだから、そこに敬意を払うのは当然だ。
世の中は「人間が一番偉い」としてしまうと、「いじめるのが最も上手い人間が一番偉く」なる。
それはあまりにも人間にとってはつらい現実であり事実だ。しかし、神々の存在が、それらを相対化し、いじめるのが最も得意な人間(これは権力者であるないに関わらない。どこにでも恐ろしい人間はいる)をさばく、根拠となる。
だから、そうした、いじめるのが最も得意な人間をさばく根拠の最終到達点として、神々の場所があるのだと思う。
法も、無法地帯になる。神も、無神地帯となる。
しかし神と法は並行して出現し、いじめるのが最も得意な人間を打ち倒す。
いやしかし、人をいじめるのが好きでたまらない人間は、神を否定し、法を自分の解釈でなんとでも操作し、いじめを続けようとする。
このシーソーゲームが、人間関係の歴史である、と思う。
二礼二拍手一礼は、なんとなくかっこが良い。芦原瑞祥の二礼二拍手一礼は特に良いと思う。堂に入るとはこのことだ。
僕は、神様の前ではなんだか恥ずかしい。本殿の前では、人類ができるだけ平和でありますようにと願う。あと地球環境が良くなりますようにと。
そして末社などでは、友達とか家族の幸せを願う。それで神社の参拝は終わりである。
考えてみると、そうやって、自分の大きな願いや、小さな願いを、他者のためを思って振り返る場所というのは、会社や自宅で可能なのだろうか? 何かを願うことの出来る場所というのは、それは神聖にしないといけないだろう。どこでも願いなんか思うことはできるというが、人間はそんな合理的ではないし、むしろそういった合理性こそ人間心理を無視した不合理さだろう。犬や猫に感情があるように、人間にも感情はあり、大事なものを守ろうとするものである。
そして、神社だから、願いも願いらしく、願うことができるし、集中できる。
神社はどういう場所であるか。どんな根拠をもっていて、本源があるか。
それは「他人のために祈る場所」であり、「いじめが最も上手い奴が正しいということにさせない場所」である。
つまり、お前を正しいと言わせない場所である。
これは、自分が正しいとして人を糺弾すること、人に呆れることをなりわいとする人間にとっては、イヤなことである。神社にいったら、なんとなく、自分のことしか願わず、自分のためにおみくじをして、帰っていくばかりではないか。神社で人のために祈ることができる人間になれるかどうか。
祈りは善悪による行いではない。祈りに正しいも悪いもない。何を祈っているかなんて誰にも分からないからだ。これは、人を善悪、正しい悪いで、いじめる人間にとっては都合が悪い。これが神社の本質。そう、僕は思っている。
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