グッバイS田
上司のS田さんはすでに死んでいる。S田さんは糖尿病でガリガリに痩せていて、禿げた頭とニヒルな笑みを浮かべる元銀行マンで、ひょんなことからこんな世界の果てにあるような某団体事務局で働くことになった。
いつもピースのタバコを胸ポケットに入れて、非常出口の吹き抜けの階段前にある喫煙所で、タバコ休憩を取っていた。夏場は蚊に刺されて大変らしい。
S田さんには消防士の娘がいた。ある日、娘がタバコを吸っていたことを知ってショックを受けたことを話していた。「隠れて吸うな」と娘を諭したらしい。エロ本を見つけた母親みたいな言い分だなと僕は思った。
S田さんは母親より先に糖尿病で体調が悪化して、お腹がカエルみたいに膨れて死んだ。S田さんのデスクの中の引き出しには、大量の注射器が残されていた。ゴム手袋をして、バイオハザードばりに、慎重にS田さんの遺物は捨てられたのだった。
病気でしばらく休んでいたS田さんが職場を訪れた最後の日、僕はトレイの中で10分くらい眠っていた。いつものことだった。これは、仕事が何もすることがないくらい退屈だったというのもあるけれども、自分の体質としてある「眠り病」のせいでもあった。15分くらい、男子トイレの大便をするところの個室に入り、角に背中を押し当てて座り込んで、そのまま眠りこけるのだ。夢まで見ることがある。そうしなくなったのは、快眠サプリを飲み始めてからだ。……。僕に会えなかったことを残念がっていたらしい。しかし、会いたいS田さんを、他の事務局員は待たせずに、そのまますぐに帰してしまうのもどうかと思った。
S田さんで覚えているのは、体調が悪化していよいよ仕事を辞めるとき、僕に「色々といじめてごめん」と言ったときだった。僕は「いえ、別に……」と答えたように思う。めちゃくちゃ忙しくてそれどころではなかった。それから、色々と大変なことがあって、S田さんのいた頃などがまるでファンタジーのように、いじめと修羅場のなかの修羅場を僕はかいくぐっていくのだが、それはS田さんのことを思い出すことと直接関係ないので割愛する。(このいじめの主犯である女性から受けた嫌がらせを乗り越えることにより、僕はいったいどのようなことが起こっても余裕であれるタフな体質になり、おかげで去年の夏、文フリ大阪の臨時代表もすぐに務めることができた)
S田さんが死んだという手紙はS田さんの母から届いた。S田さんとは一切価値観が合わなかったが、今思うと自分はかなり未熟な人間で、本当にS田さんに心配をかけていたのだと思うといった内容のことを書いたのかも知れない。自分の出した手紙のコピーを持っていないからわからない。その後、数年経って、S田さんの家宛てに再度手紙を送った。返事は来なかった。もう、家族もどこかに引っ越したのかも知れない。
S田さんは、事務仕事を、数字と固有名詞を扱うことだと述べた。それから、アイロンをかけるスキルを持つこと。あくびをしないこと。明るい表情をすること。いろいろなアドバイスをくれた。数字と固有名詞は、10年経っても使える抽象的概念だった。
S田さんは僕のことを信じていなかった。トイレで休んでいたとき、S田さんもトイレに入ってきたことがある。僕は休む時間が長いので、おそらくトイレまで追いかけてきたのだ。僕は個室で座っていた。S田さんはドアの向こうから、床に顔をつけて、僕が個室の中でどうしているか覗こうとしていたと思う。ちゃんとウンチをしているのか、それともさぼっているだけなのか。僕は黙っていた。その無言の駆け引きは今も忘れない。屁の一つでもこいてやれば良かったと、今では思う。
僕はストレスで頭痛がひどくて、左目が夕方頃には開けていられない時期があった。群発頭痛の疑いすらあった。僕は職場にそのことを話し、帰りに職場近くのクリニックに寄ることになった。S田さんに勧められたクリニックでもあった。言われたとおりに向かい、そして待合で座っていると、静かな受付で突如電話が鳴った。受付の看護師が電話にでて、はい、はいと言っていた。僕のほうを看護師がチラチラ見ていた。そして「おりますが……」と言った。僕がちゃんとクリニックに寄っているかどうか、確認の電話をかけてきていたのだ。
誰も信じてはくれないが、間違いはなかった。僕はS田さんの考えそうなことは全部わかった。価値観は分かり合えなかったけれども、その分、「違い」から「考えそうなこと」が分かった。
S田さんが死んだら、そんな嫌な感じは消えてしまって、懐かしさすらある。
その後、何人も価値観の合わない人間が現れてはどこかへ消えていったりした。
死んだら、良い人だと思える。懐かしい思い出にできるのは、死んだ人間は無抵抗だからだ。いつでも忘れ去ったり、死んでいるのだから好き勝手言える。その圧倒的優位が、その人への優しさになるのだ。「優位」とは「優しさの位置」である。いつでも、死んだその人を自在にできるからこそ、その人を懐かしく思える。
今、喫煙所はなくなった。トイレだけは変わらないままにある。一度、S田さんのマネをして、誰もいない時にトイレのドアの下から覗くことができるか試そうと思ったが、あまりに細いすき間なので、カエルのように這いつくばらないと無理なことに気が付いた。
S田さんのことだから、鏡とかを使ったのではなかろうか?
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