クビキリギスの鳴き声
差し込んできた春空の陽に、私は目を細めた。
眠っていたのか、起きていたのか。
布団をかぶって、曖昧な意識の中で澱んでいたい……。
けれども、そうはいかないのだった。
私の部屋は、カーテンの一番下がずっと汚い。
薄いピンクのカーペットの日の当たっている部分だけが白くはげている。
窓の黒カビが時々思わぬ場所に散っている。
田舎で何代も続いた一軒家は、ウン千万かけて増改築を繰り返し、管理ができずにずいぶんとボロが出ていた。
掃除が、まったく行き届いていない。
私は、スマホからSpotifyを起動させ、ずっと音楽を流しながら部屋の中でゆっくりと過ごす。音楽をかけ続け過ぎて、すでに「何の曲であるか」は、大切なことでもなんでもなかった。もちろん、好きな曲はあるけれども、ほとんどは、ああ鳴っているな、と、思うだけ。音楽は、虫の声のようなものだった。次第に、クビキリギスのノイズ染みた終わりのない音に近づいていく。
好きな
私が街を歩いていると、まわりがいきなり生気のない人形になってしまう。次々と人形になっていく世界で、自分は人形になりたくなくて、必死に「何か」から逃げ惑う。
街の外へ出ると、自分が今までいた場所は粘土細工のおもちゃ箱で、外には普通に生きている人間の世界が広がっている。
長い階段を駆け上がり、新しい街に私はたどり着く。
街を幸せそうに歩いている私は、気が付かないうちにだんだんと身体が石化して、街のモニュメントになる。通り過ぎる人はみんな最初からそこにあったものだと思いながら、うつむき加減に歩いて行く。計画として建てられたような位置で石像となった私は、希望に満ちた笑顔を浮かべたままでいる。
そこで音楽が終わる。『ジー』という音だけが余韻のように残る。
私はそれを何度も観て時間を潰した。
朝、六時頃におばあが起きてきた。梅干しみたいな顔で笑って、おにぎりをよこしてきた。不衛生で、一番嫌いなメニューだが、腹は減っている。
「お前さんねえ。そんなところで地蔵みたいに生きてて楽しいのかえ。こっちきてみ。桜が満開。花見して、一緒にお酒でも飲まんかえ」
私は淹れ立てのお茶を飲む。よく沸いている。熱くて汗が出る。
「あんたはね、生きていて、とっても苦労したのはわかる。ほんとにすまなかったね、息子のせいで。ね、あんたの心はズタボロになって、誰も信じられず、何も愛することができず、部屋から出られなくなったんだ。悪かった。気持ちはよーくわかる。わかりますとも。だけどね、人間、お天道様のお光りを浴びて、ぱーって気持ちよくなるのが一番なんじゃと。テレビでもそう言っとった。閉じこもっていたら、なーんもはじまらへん。息子もな、よーく反省してる。こっから出てやってくれんかなあ」
ごくりと、飯粒を流し込む。私はおばあを放っておいて、きびすを返し、布団で横になり、こんこんとまた眠った。
雨の音で目が覚めた。
友達のさよちゃんが、マンガの続きを差し入れてくれた。
「ねえ、あんた、そんなとこに閉じこもっていて平気なの? 寂しくない?
まぁ、寂しかったら、とっくにそこから出ているでしょうけれども。
寂しさの代わりに、そこに居続けたい何かがあるのはわかるけれども。
……まだ、気にしているんだね。たしかに、あなたは自分の夫に、本当にひどい目にあわされた。あたしが、あんたの夫を狂わせたせいで、むごい、苦しい目にあわされた。そのやけどの跡は、たぶん死ぬまで残るんだろうね。死ぬときに焼かれて、やっと消えるんだろうね。
でも、身体の傷は残り続けるけれども、心は治ってきたと思うよ?
もう許してやって欲しいんだ、尚人さんのことを。許せないからずっとそうしているんでしょ。あたしがあなたについていてあげるから、外に出て、一緒に傷を癒やしていこうよ……」
私は返事ができないまま、彼女が渡してきた本だけを受け取って、それから小さく握手をした。
気が付くと夜になっていた。肌寒くて、布団の中から出られない。カーテンのすき間から、星空が見える。月明かりは、きっと煌々と美しいのだろう。さざ波のような夜の闇が、私のSpotifyと共にある。
顔を包帯で覆った男が、寝間着を差し出してくれた。
「寂しくはないかい?
ずっと音楽を聴いているね。それで、君の気が紛れるのならば良いけれども。
今日の夜は、とても良い月が出ているよ。あの月を見ながら、一献やるのが、いい。
なあ、思い切って、外に出てみないか。なあに、宵闇に紛れてしまえば、誰も君を君だとわからない。外も、部屋の中みたいなものさ。
君も、さよも、確かにひどい目にあった。それはよーくわかる。あのばばあだって、結局、僕から君への仕打ちに参加していたんだから。
でも、みんな苦しかったんだ。それで、十分だとは思わないかい?
君への、みんなの背負った罪は、君が外へでないと、償うことはできないよ。
出ておいで、みんな、君を待っているから。
いつまでも、君の心が晴れて、外へ出られることを、みんなで祈っているよ」
私は、音楽のように彼の言葉を聴いた。服を着替えて、すがすがしい気持ちでぐっすりと眠った。
私の部屋、流れて止まないSpotify、クビキリギスの鳴き声。
ノイズが更に増す。
夜中の三時頃、私は目を覚ます。
私は部屋から出て、すぐ隣の格子の前にそっと立つ。
かわり映えのない、朝を迎えるための儀式だ。
「おばあちゃん、さよちゃん、そして、あなた。いつもありがとう、ね」
と、挨拶して、私は渡された
牢屋のような部屋で、三人が並んで寝息をたてている。
『ジー』という音が止む。
格子のすき間から差し出される一日が、またはじまる。
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