氷上のスダチ

猿川西瓜

生き霊あらわる

 佐伯晋さんは1952年、三重県松阪市生まれである。伊勢高校、三重大学医学部を出て、 松阪中央病院、済生会病院などで、外科医として活躍。短編集『白い海へ』 (季刊文科コレクション)を刊行していて、彼の文学はこの著作にまとめられている。同人誌「あるかいど」に所属していた私は、その同人誌の編集長でもあった佐伯晋氏と仲良くさせていただいた。

 彼の書かれる文学は硬派であるが、会うと酒好き煙草好きの文学好きで、一晩中喋り続ける。本人は「僕は佐伯氏なんです。佐伯はね、空海は佐伯の直、空海と同じ。わしは空海と同じなんや。たはははは……佐伯はね、蝦夷の民や。語源しってるか? 語源。佐伯は、騒がしいから来ているんや。さわがしいがなまって、さえき、になったんやがな」

 日焼けしすぎて黒く光る顔面を私に近付けながら、彼は私の言葉を続けた。

 佐伯氏の本名は矢野隆嗣。この矢野性にも佐伯さんはこだわりがあるし、妙な学歴コンプレックスもあった。医学部でてもコンプレックスなんかあるんか……と私は思ったものだった。彼は最近は哲学的な文章や分析を多く書いている。それは、人文知への憧れがあるからだろうか。

 茶色いカジュアルシャツと、大きなお腹にあわせた巨大なズボンとベルト。よくおごってくれた。紳士であり、兄貴分でもある。保守派であるが、新しいことが大好きで、ラップやヒップホップについて話すと誰よりも先に興味を持って聞いてくれた。親父であり、知識にあこがれる青年のようなところもある。おならやゲップをすると、ちゃんと「失礼」と言う。「松坂」を「まっつぁか」と発音する。


 佐伯さんとラップ談義によくなった。

「あるかいど、で韻を踏みます。いどあるか? どうや」

「いや、それって踏んでるんですかね……」と私は言った。

「踏んでるがな。君もまだまだラップ修行がたらんな。はっはっは」

「井戸あるかって、なんで井戸を探すんですか。井戸を探すってなかなかない状況ですよ」

 私はこの会話のやり取りを後に佐伯さんと百回以上は繰り返すのだった。同人仲間とはどういうものですかと問われたら、同じやり取りを百回繰り返して笑うことと答える。私の場合は特にそうだ。


「君よく本を読んどんな。もっと勉強せいよ。でも、僕よりは勉強するなよ。たはー」と言って、自分の後頭部を叩く。五時間ぐらいこのテンションをキープする。

「僕ね、ノーベル文学賞受賞しました。あ、ノーヘル文学賞でした。ノーヘルでバイク運転したらあかんで。はっはっは。わろてるの、僕だけ。はっはっは」

 私はあっけにとられていると、

「酒の席で失礼なこと言ってね、あとで落ち込むねん。それをまた酒でごまかす。はっはっはっは」

 私はいつもこう言った。

「失礼なことはぜんぜんないですよ。酒の席ですし」

「ほうか、ありがとう」

 佐伯晋はふんと頷いて、私のほうを見た。

 百万回ぐらい人のことを褒めて、百万回ぐらいその分自分のことを褒める人だった。

 「だった」っていうけど、別に亡くなってはいないんだけど。


 その佐伯晋さんが自分に乗り移ったようになった時があった。

 とある飲み会の席で、私は「こんなにしゃべる猿川さんはじめて見た」と言われた。

 私も信じられなかった。


 別にナチュラルハイでもなければ、ストレスがたまっていたわけでもない。生き霊が乗り移ってきたとでもいうのだろうか。しゃべり口調や態度、振る舞い、どこまで似ていたかはわからないが、とにかく言葉が止まらなくなった。人の言葉をさえぎり、同じ会話を繰り返し、場をぐるぐるとかき回す。そしてしゃべりながら、なんと私は「佐伯さんを演じているなあ」というのがわかっていた。なんなら、「私はいま佐伯さんを演じている。生き霊にでも乗っ取られているのかな……」と極めて自覚的だった。

 だから、大声で喋りながら、「ここ佐伯さんっぽい。ここで、佐伯さんならこんな風に、一人でしゃべって一人で笑う」と、目の前に映像を浮かべて解説していた。彼の黒光りする顔が目の前に夢のように浮かんでいた。こういう現象って、なんと名付ければ良いのだろうか。


 目の前にその人の顔写真が浮かんでいて、自分は酔っていて、その人になりきって勝手に喋り続けてしまう。魂がやってきて、入ってきたとでもいうのか。同席した人には大変な迷惑をかけたので、しばらくほとぼり冷めるまで距離を置くつもりなのだが、それくらい変な状態だった。これが本当に憑依状態であるというのならば、憑依状態は、極めて記憶が明確な現象だ。むしろ自分は記憶ばかりしているような状態にある。

 自分は「記録係」になっていて、喋っているのはなんだかよくわからないもの。コントロールはできるようで、できない。トランス状態や、霊が入った状態が、実際は記憶がなくなるとかあるのかもしれないが、私は、実は全部覚えているのではと、今回の体験でわかった。


 もう一つ考えたいのは、飲み会の場でどのように振る舞うのか、そのモデルとして佐伯さんがじわじわと出て来て、自分に乗り移る可能性だ。「場」が佐伯さんの生き霊を呼び出ししたのだ。

 ある場に居合わせたとき、自分が自分であるとして振る舞うのは難しく、なにかしらモデルになりきる、モデルとなるものの通りに動くということがあるのではないか。「場がモデルを呼ぶ」とでも言えばいいか。

 で、モデルが出てこないと、ただ硬直するか、だまってやり過ごすしかない。よくマンガとかで、死んだ師匠や友人の霊が自分に宿ってパワーをあたえて、敵に逆転勝ちする場面があると思うのだが、それは、割りとあり得ることだと思う。でも、実際の現実では、パワーはあたえない。動作はあたえるのだと思う。むしろ、自分の動作は、自分の動作ではなく、モデルの動作だ、とも思える。

 もし動物と人間の違いについて語るならば、この「モデル」がそれにあたるのではないか。


 オリジナリティとか魂は、動物にも人間にもある。個性的な動物はたくさんいるし、個性が動物にあるのは、馬や猫等を育てている人からすれば、当たり前過ぎることだろう。だから、「人間みたいだ」と言うわけだ。逆転させれば、人間が個性的であることは、人間が畜生であることの証である。むしろ軍隊みたいに「揃って真っ直ぐ歩く」ことなんて、動物にはできない。彼ら人間がそれをできるのは、頭にそういう軍人としてのモデルがあるからだ。演じている……というわけじゃない。モデルを目の前に浮かべていて、それを動かしていると、身体も動く。それをわかっている。でも、誰かになるわけではない。誰かになりたいわけでもない。モデルの場だから、それを作動させている。もしそんな、なりたい、だったのならば、それは動物と同じであるからだ。動物も、親を見て育つことはあるし、猿も学ぶ。実存的な夢もあるだろう。だが、真っ直ぐは動けない。しかし、動物より人間が偉大で、上だというわけでもない。


 佐伯晋さんは私にとっては文学の恩師でありながらも、むしろ先輩、いや、仲間、親友といったところだった。お腹がぽっこりしていて、顔は痩せていた。内臓を食べたとか、無免許医だとか、三重のブラックジャックだとか、自虐ギャグも何度も繰り返して述べていたし、言わなくなったら私のほうから「よ! 無免許医!」といじって言わせた。


 コロナ禍で、佐伯さんはかなり疲れていた。もう一度、彼と飲んだとき、その生き霊は目の前の私に宿るのだろうか。佐伯が二人になって言葉をさえぎあう騒がしさになるのだろうか。

佐伯晋さえきしん猜疑心さいぎしんで踏めますよ」と私が自信を持って言うと、佐伯さんは必ずこうアンサーを返す。

「ふーん、そうか。ところで、あるかいどには井戸あるか? はっはっは」

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