丸田の親っさん
もお、ずいぶん昔のことなんですが。
私は17才の時から写真をやっていましてね。 当時、油絵で風景画を描いていたのですが・・
油絵は乾くのに時間が掛かるものですからね。完成までとても時間が係るんです。
そこで・・ カメラでパチリと写しておいて、後でそれを見ながら 描くわけなんですよ。
ところが、そのカメラに嵌ってしまって・・フイルム現像から 写真現像にまで手を出していた時期がありました。 それはまだ、フイルムの時代の頃の事でした。
その頃、ずいぶんお世話になった人がいました。丸田カメラの親っさんです。色々教わりました。親っさんは プロですからね・・現像・焼き付けは仕事ですから。 当時45才ぐらいの人で、私より年上なので親っさんと呼 んでいました。
親っさんは動物好きな人で、カメラ屋なのに熱帯魚の水槽とかウミガメの水槽とかカメレオンか・・写真館というより ペットショップのようなカメラ屋でした。
実際、親っさんとはいつも動物の話ばかりしていました。
こういう・・少し外れたところが好きで、親っさんと懇意にしていたというか。早く言えば、私が親っさんに懐いていたんです(笑)
その親っさんが突然入院したのは、彼が47才になった年でした初めは胃潰瘍と聞いていたのですが・・
「一年は持たないだろうって言われたのよ。本人には話して いないから、言わないでね。たぶん気が付いているとは思う けど・・・」
奥さんはそう言って涙ぐんでいました。
ショックでした・・親っさんは懐の深い人で・・僕のような半端な若者に慕われていたのです。親っさんが1年以内に居なくなるなんて、受け入れたくありませんでした。きっと良くなる・・何かの間違いだと・・
その後自宅で療養したいとの事で、彼は退院して・・調子の良 い日は店に出て仕事をしていました。そんな親っさんを見ていると、一年ぐらいしか生きられない人のようには見えませんでした。 私は勤めて病気の事には触れず、普通に接するようにしていたのです。
そんなある日のこと、私は親っさんにこんな話をしました。
「あのね・・・斐伊川にはモロコが生息しているんですよ。」
「あれは、琵琶湖にいるやつだろ。この辺にはいないだろ。」
「そうなんですけどね・・・琵琶湖で取った稚鮎を放流して いるでしょう。それにモロコの稚魚が混じっているみたいで、小さい釣り針でね・・・食パンを餌にして簡単に釣れるんですよ。」
「へーえ、そうなの・・見てみたいなあ。」
「行ってみます??」
「行きたいねえ、行こうよ!」
「ねえ奥さん・・どうですかねえ。」
「体調さえ良かったら、気晴らしにはなるわよね。」
私は近所のペットショップの店主にも誘いをかけて・・おやっさんの奥さんと息子さんと私と・・私の娘と・・ ワゴン車を手配して、私のところの社員に運転を頼みました。
当日の朝・・
その日は親っさんの体調はあまり良くなかったようでした。
「どうしようかしら、本人がどうしても行きたいって言うし・・」
奥さんは少し心配そうでした。
「行きましょうよ。そのほうがいいですよ。」
「そうね、行かなかったら心残りになるしね・・」
去年キャンプしたその場所までは車で一時間かかりました。そこは砂防堤になっていて川の水が一部せき止められ緩やかな流れになっています。川縁にシートを広げてピクニックのような雰囲気で穏やかな 一日を過ごしました。
対岸の林から小鳥の鳴き声がして、それが耳に心地よくて・・ 陽光を川面がキラキラ反射して、それが目にやさしくて・・ モロコが跳ねると水面に光の輪が広がって・・
親っさんは持って来たエヤーレイション付きの水槽にモロコを入れています。
「飼うんですか?」
「うん、書斎のテーブルの上で飼ってやろうと思ってな。ちょうどいいサイズの水槽が有るんだ。」
と、手振りで説明します。
そんな親っさんを、奥さんがしきりにカメラで写していました。
「こんな楽しそうな主人は久しぶりだわ。来てよかった!」
その頃には親っさんの顔色もだいぶ良くなってきたようでした。
「今日はありがとう。確かにモロコがいたねえ。良かった、良かった・・安心したよ。本当に安心した・・」
親っさんはじっと私を見つめて、意味深そうにそう言いました。私は親っさんに、心の中を見透かされているような気持ちになって、思わず 視線を川の方にそらせました。
ゆっくりと流れる川面は私の不安を写しているかのように・・ 黒々と深く枯葉を巻き込みながら流れています。
あの枯葉のように・・・
誰も・・
誰も逃れられない・・
誰もが死ぬのです。
若かろうが年寄りだろうが・・
お金があろうが無かろうが・・
人は、かならず死ぬのです。
それを自覚すれば・・
それを身近に感じれば・・
生き物は
命あるものは美しい・・
はかない定めだからこそ命あるものは美しく、
親っさんのモロコを見つめる目は優しさに満ちていました。お子さんを見る目も、奥さんを見る目も、私を見る時でさえ優しさに満ちた目をしていました。
良かった・・
親っさんを連れてきて本当に良かった・・
それからまもなくして、親っさんは亡くなりました。書斎のテーブルの上のモロコを残して・・ 奥さんや子供や・・
この世界すら残して・・・
親っさんは去って行きました。
それは親っさんの48才の誕生日の、前の日の事でした。
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