透明人間
職場に着くと、男性社員はトラックに重機や資材を積み込んでいた。彼らは早朝出勤をしているようだ。
「斐川町の現場の方は佐々木専務に任せるから、5人連れてってくれ! 昭和町の方は吉田のチームで行ってくれ。残りの者は俺と一緒に新しい現場に行くからな。」
社長が大きな声で社員の割り振りをしている。
台風のせいで、同時に3か所の大きい仕事が入ったのだ。 今日は皆の雰囲気が違う、まるで戦場に向かう兵士みたいに殺気立っている。
「由美ちゃんさあ、今日は3ヵ所の現場に弁当を運んでくれよ。現場が離れてるから大変だけどな。新しい現場の場所は分かるよな?」と専務の佐々木さんが言う。
「大丈夫です。社長さんがナビに・・・」
「よし!行くぞ。」
専務は私の話を最後まで聞かずに車に乗り込む。
ブルルルとトラックのエンジンが空気を震わせて走り出す。
私は慌てて車から離れる。
何台もの車が次々と出て行き・・
そして私は1人取り残される・・
誰も居ない事務所に入ると私はお弁当屋さんに電話をする。
「はい、今日は派遣の人もいるので32個です。 現場の方には私が届けますから早めに会社の方に・・ええ、 そうです。願いします。」
電話が済むと、別にしなくても良いような伝票のチェックをする。スマホの時代なので会社の電話が鳴るとしてもセールスがほとんどだ。この時間帯は本当に暇だ。
社員が出払って静かになると私が歩く音さえ大きく感じられる。 伝票をめくる音がパラパラ聞こえ、事務所の壁に掛けられた時計が時を刻む。
チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ ・ ・ ・ ・
事務所の前で車が止まりドアをバタンと閉める音がする・・
トントントンと足音が近ずいて来て・・
ガチャッ とドアを開けて誰かが入って来る・・
『ちわー! 社長ー! いるー!』
「あの・・」
『何だ!誰もおらんのかいな!』
「今日は社長さんは現場のほう・・」
『空っぽかよ! 折角来たのに間が悪いなあ・・専務もおらんのか。』
「あの、どなた様で・・」
『しゃあないなあ! また出直すか。』
そう言って客は出て行った。
私の事は見えてないようだ・・
此処では私は透明人間・・
姿は見えない・・
声も聞こえない・・
□ □
「浜崎君・・ れいの松本さんの所に請求書持って行ってくれる?」
「え、郵送で駄目なんですか?」
「大金を払うんだから持って来いって言うんだ。お爺ちゃんだから・・」
時々こういう客がいる。世間のシステムを使う気が無いのだ。
松本さんの家は農村地帯の豪邸で、庭の造成に我が社が入ったのだ。
松本さんは80代の人で、私を見るなり
「あんた一人で来たの?」
と言う。
「はい、請求書をお持ちしました。」
「困ったなあ・・ ちょっと待ってな・・」
そう言って電話を掛け始めた。
「だからね・・ お金を払う予定でいたんよ。大金だからね・・ 大丈夫なのか?・・あんな若い者に大金を持たせて・・ でもこっちが心配じゃあ無いか・・」
・・あんな若い者と言っても私は13年働いているのに・・
松本さんは、社長に説得されたのか、領収書と引き換えに34万円を私に渡した。
「大金だから落とさんようにな・・ちゃんと社長さんに渡しなさいよ。」
・・なんなのよ、私は子供じゃあ無いんだよ・・
「確かに34万円頂きました。社長さんに確実に渡しますので!」
と嫌味で言ったのだが、通じてない・・
・・31才になっても女の子扱いとは泣ける・・
会社に戻ると昼休憩で社長が事務所にいた。
「34万頂いて来ました。確認されますか?」
「嫌味を言わなくてもいいよ。本人を前にあの電話は無いよなあ・・」
「女ですからね、慣れてますから。お金は銀行に入れときますね。」
「うん、そうしてくれ。由美ちゃんは内に来て10年ぐらいになるよな。」
「いいえ! 13年です。私より後に入った人の方が多いですよ。私より後に入った者が私を由美ちゃんと呼びますからね!・・まあ、それは慣れましたけど。」
慣れてはいるものの、今日ばかりは社長に強く当たってしまった。
普段おとなしい私が強く言ったので、社長さんは少し驚いた様子で、
「そうか、13年か・・ そうか・・ それはまずい・・」
ぶつぶつと言いながら事務所を出て行った。
私は社長さんにきつく言い過ぎたのかもと少し反省した。
仕事が終わり帰ろうとすると社長室のドアが開いて社長が声を掛けた。
「浜崎君、ちょっと来てくれないか。」
「何でしょうか?」
「そこ閉めてここに座ってくれ・・」
「コーヒーにするか? いや、いいんだ君は座っててくれ・・」
社長さんはテーブルにコーヒーカップを二つ置くと私の目を見た。
「うちの営業は専務の担当なんだが・・ その一部を君にやってもらいたいんだ。浜崎営業主任としてね。」
「え!??・・」
「つまり営業主任の肩書で仕事をして欲しいんだ。」
「無理ですよ・・私が営業主任だなんて笑われるだけですよ。」
「それは分かっている・・ でも、この業界の常識と戦ってみたいんだ。協力してくれないか。」
「嫌ですよ、私が恥をかくだけですよ。」
「じゃあ・・ 私の為に恥をかいてくれないか。せめてこの会社の中だけでも常識を変えようじゃないか。」
「私の為なら、私は大丈夫ですから・・」
「そう言わないでくれ、私の為でもあるんだから・・ あの後、浜崎君が辞めるんじゃあ無いかと思ってね・・ 私は反省したよ・・ 君が13年もいたのに忘れているんだから。でも浜崎君に辞められては困るんだ。君の居ない会社に出てくるのは正直言って辛い。セクハラになるかも知れないが、私は浜崎君が好きなんだ。」
「好きって?・・」
「いや、まあ・・ ともかく、君は大事な存在なんだ。主任の件は任せてくれないか。絶対君が恥をかくような事にはしないから。」
「はい・・」
私は社長さんの熱い眼差しに圧倒されて承諾をしてしまった。でも私を好きって・・それは普通に言う好きなのか・・ それとも女として?・・
□ □
月曜の朝、専務の佐々木さんが大声で社員の集めている。
「みんないるかな・・ あ、浜崎君こっちに来て。みんなも分かっていると思うんだけど、浜崎君は我が社に勤務をして13年になります。 そこで今日から営業主任として働いてもらうことになりました。 そこでね、浜崎君より後に入った者までが、由美ちゃんと呼ぶのは対外的にもまずいんだよね・・ 今後は浜崎さんと呼んで下さい。私も由美ちゃんと呼ぶのは止めますので。以上です。」
全員が専務の話をポカンとしながら聞いていたが、頭を振ったり頭をかきながら持ち場に戻っていく。「13年? 知らんかったわ・・」そんな声も聞こえる。透明人間がいきなり営業主任じゃあ納得は出来ないのだろう。
昼になり私がお茶の準備を始めると新入社員の佐藤君がやって来て、
「お茶は僕が入れますので、浜崎さんは座ってて下さい。」と言う。
「いいわよ、私がやるから。」
「いや、僕がやります。まずいんですよ僕が叱られますから・・」
なるほど、いろいろ手が回っているようだ。しかし私の方がやりにくい。佐藤君の入れたお茶を座って飲むと言うのも、なんとなく場違いな感じがする。
「浜崎君、今日は午後から専務に付いて挨拶回りに行ってくれ。佐々木君よろしく頼むよ。」
「分りました。新営業主任を紹介してきます。」
佐々木専務はビジネストークの出来る人で我が社では珍しい存在だ。
「まあね、やりにくいのは分かるんだ。でもね、営業主任になった以上、浜崎君は会社の看板を背負って仕事をするんだからね。」
「それなんですよ・・ 私には荷が重すぎる気がして・・」
「いや、君のバックには私や社長がいるんだから心配はいらないよ。」
「でも何で私が営業主任なんでしょうか・・」
「まあ、そう言わないで・・ 私としては浜崎君に成長してもらって社長を支えてもらいたいんだ。君は社長の事をどう思っている? 男として・・」
「男としてですか? いや、年が離れてますから、考えたことも・・」
「だよな・・ 私が思うには社長は君の事が好きなんだと思うよ。今回の事で私に相談があった時にそれを感じたんだ。 いや、だからどうこうって事では無いんだ、まあ彼は君を口説いたりしないよ。その心配はいらない。でもね仕事では彼に協力してやってくれよ。私は彼の高校時代からの友人でね、彼の事はよく知っているんだ。」
私を女として好きだなんて、社長さんはそんな素振りを見せたことも無いし・・
高校を卒業して以来、今までに私を誘惑しようと人はいない。綺麗でもない私を社長さんが好きだと言われても信じがたいのだ。私は母子家庭だったので社長さんを父のように感じてて親近感は有るのだが・・異性として見てた分けではないのだ。
本当に社長さんが私を好きなんだとしたら、それは私にとって最後のチャンスかも知れない。13年間私を好きになってくれる人は現れなかったのだ。私は透明人間で誰にも見えないのだと諦めていた。専務さんは「社長は君を口説いたりしないから心配はいらない」と言ったが、どうしてなんだろう。好きだったら誘ってくれるべきだと思う。そうしたら私は社長さんを好きになれると思う。
□ □
「私を好きな人がいるみたいなんよ。」
「ほんとに? あなたにもそういう人が現れたの? 告白されたの?」
「告白はされてないんだけど、専務さんが言うには、その人は私の事が好きなんだって。でも自分から言わないだろうって。」
「じゃあ、あなたから誘わなきゃあ。あなた、これまでこんな話が無くて、母さん心配してたんだから。すっぴんで会社に行くし・・ 口紅ぐらい付けなさいよ。もっと綺麗にしなさいよ。」
「うん、わかってる・・ でも母さんぐらいの年なんだよ。」
「いいじゃないよ。20歳ぐらい違う夫婦なんて珍しくは無いよ。」
「でも、どうやって誘うのよ。デートしたことも無いのに・・」
「相手が年上なら簡単だよ。美味しいものを食べに連れてって下さいと言えば良いのよ。相手があなたの事を好きならそれでうまくいくから。」
私より母さんの方が乗り気になっている。
営業主任になって私の仕事は増えたのだが、役場との交渉となると、とても女では対応できなかった。私が女と言うだけで上から目線で、上の人を連れて来いと言うのだ。
「社長さん一緒に行っていただけますか。私では子ども扱いにされますから。」
私は社長さんを助手席に乗せて役場へ向かった。
「女性の地位の向上を言う割には体質が古いからね。世間の流れが解ってないね。」
と社長さんが言う。
「この地域には世間の流れなんて有るんでしょうか?」
「まあ、そうだな・・」
「社長さんは夕ご飯は自炊ですか?」
「時々ね・・ 面倒くさいから外食が多くなるんだ。それに自分で作った物より店で食べた方が美味しいからね。」
「あの・・ 私も連れてって欲しいです。」
「ああ、もちろん良いよ。 そうだな、じゃあ今日の晩飯を一緒に食べるか。」
「ほんとですか!嬉しいです。」
本当に嬉しかった、やっとここまで漕ぎつけた感じだった。
定時になり社員が次々帰宅していき事務所に人が居なくなった。私は少しメイクをして髪を下ろす。しばらくすると事務所の前に車が止まり社長さんが降りてきた。
「浜崎君、それじゃあ飯を食べに行くか。」
私はドキドキしていた。私にとっては初めてのデートなのだ。
「普段は自宅の近所の食堂で済ませるんだけどね、今日は浜崎君が一緒だから美味しい店に連れて行ってあげるよ。」
そこは温泉街にある料亭だった。和風の庭園がありその中の小道を行くと店の入り口に着くという風情で、見るからに高級感が漂っている料亭だ。
店に入ると女将さんが出て来て。
「あらまあ、今日は素敵な女性が一緒なんですね。 あ、それじゃあ・・一番奥の静かな部屋が良いですね。」
私たちは綺麗に磨かれた廊下を女将さんに着いて行った。その部屋は四畳半ほどのこじんまりとした和室で、ガラス戸の外は先ほど通ってきた和風庭園が見えている。
「あのね女将さん、普通は一品ずつ料理が出てくるだろう。今日は鍋かなんかにしてもらって、こちらで全部やるからさあ・・」
「そうですね・・何かこちらで見繕います。お邪魔をしないようにね。」
そう言いながら女将が出て行くと。
「こういう所は一品ずつ料理が出て来て、ずっと仲居さんが付きっきりなんだよ。普段はそれでも良いけど、今日は二人で食べたいからね。」
暫くすると高級肉のすき焼き食材が運ばれてきた。
すき焼き鍋に火が入り油が敷かれると、
「後はあなたにお任せしてよろしいですよね?」
と女将さんが私に言う。
「はい、私がやりますので。」
「それではごゆっくりとなさって下さいね。こちらのボタンを押して頂ければ誰かが来ますので。」
そう言って女将さんが出て行く。
しかし、鍋に向かってみたもののどうすれば良いのか分からない。
「私し駄目かも知れないです。こんな高級すき焼きは食べたことないですから。」
「大丈夫だよ、浜崎君は座っててくれよ。私の方が慣れているからな。」
そう言って社長さんはすき焼き肉を鍋に入れる。器に入った醤油垂れは既に調合されているようで、それを鍋に注ぐだけで良いようだ。
「ほら、もう食べないと、食べごろだよ!」
熱い肉を溶き卵に浸して口に運ぶととろける様な旨味が口いっぱいに広がる。
「美味しい! こんな肉食べたことが無いです。」
「そうかい。それちょっとオーバーじゃあない?」
「ううん!私はこんな店に入った事もないし、こんな上等なすき焼きなんて初めてなんです。」
「そうか、浜崎君が喜んでくれるなら私も嬉しいよ。私はね・・ セクハラになるかもしれないんだけど・・ わたしは・・」
と社長さんが口ごもった。
私はとっさに言った、
「セクハラでも良いです。私、待ってるんです・・ 」
「由美ちゃん・・」
社長さんは私の手を取って私を引き寄せた。私は待っていたように社長さんの胸に倒れ込んだ。途端にこらえていた感情が目から溢れて頬を伝わった。私は社長さんに抱き抱えられたまま初めてのキスをした。
「由美ちゃん、今からどこかに行こうか・・」
「うん、行きたい。」
店を出ると私は社長さんの手を握った。そして庭園の小道を歩いた。
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