介護疲れ

定年後の人生を第二の人生などと人はいうが、私には改めて第二の人生などという自覚は無く、定年は人生の単なる通過点としか思えない。私の会社は65才定年制を採用しているのだが、いよいよ私もその年齢になり長かったサラリーマン生活も終わった。


私は島根県の山奥で少年期を過ごし高校を卒業すると東京の専門学校に入った。そして卒業後は東京で就職し妻と出会い結婚をして赤羽に家を建てた。妻と二人で働いて3人の子供を育てみんな自立させた。思い返せば長いサラリーマン生活だった。


私の郷里は島根県江津市の奥深い山間部にあり東京からではあまりにも遠いため長い間帰郷していなかった。去年本家の祖母が100才で亡くなった時も仕事の都合がつかず葬儀にも行かなかったのだ。そこで退職を機会に墓参りを兼ねて郷里を訪れる事にした。


私は妻と車に乗って東京から江津までの長距離をひたすら走った。途中何度も休憩をしながら次の日の昼前に郷里に到着した。長いドライブで疲れた私たちを迎えてくれたのは本家の祖母の息子だった。彼と私とは従兄弟の関係にあたり。今回は12年ぶりの再会だ。


その、私のいとこは晩婚で、彼は45才で5才年下の女生と結婚した。彼女は再婚で高校生の娘がいた。その娘が就職をし、自立したのを期に結婚にふみ切ったのだ。彼女はこの部落には相応しくないほどお洒落で素敵な女性だった。そのとき私はこんな田舎の閉鎖的な環境で彼女は大変だろうなと内心心配したものだ。


彼の家は旧家で前回私がこの地を訪れた時から、何も変わってないように感じられた。変わったことと言えば人々が年老いた事だけだった。


「何も無いけど、」と言いながらよく冷えた緑茶を洒落たグラスについでくれた。随分と洒落たグラスで、これは奥さんの趣味だろうと感じた。彼以外に人の気配がしない事に気がついた私が聞いた。

「奥さんは?」


「介護疲れで里に帰っとる・・1ヶ月になる。法事が終った翌日に帰った。」彼は続けて言った。「結婚して17年・・その内7年は介護だったんだけえ・・」


「7年もかあ、それは大変だったなあ。」


「最後の2年は俺が早期退職して一緒に介護したんだが、その頃は母親が植物状態でオムツ替えと流動食、それに体の清掃だろ・・呼びかけても返事は無いし。」


「それじゃあ5年間は奥さんが一人で。」


部屋を見回して見れば綺麗に片付けられていて介護をしていた形跡がないほどだ。それだけを見ても彼女の性格が察っせられた。


「あいつは綺麗好きだから何時も母親の髪をとかして綺麗にしていた。本当によおやってくれた。あいつのおかげで母親も幸せな最後だったと思う。」


「奥さんは何時帰るって?」


「分からん・・もう帰らんかも知れん・・」


「・・・・・・・・」


「俺、よく夢を見たんだわ。会社から帰ると嫁がおらん、どこを探してもおらんのよ。胸騒ぎがして・・そこで目が覚める。見ると嫁が側に寝てるんだ。そんな事が何度もあった。・・逃げ出されても仕方がないと心の何処かで思っていたんだろうな。」


「奥さんは無理に頑張っていたのかなあ・・葬式を済ませたところまでが限界だったんだろうなあ。」


「いやあ、限界はとっくに来てたんよ。そう感じとった。本当によお最後までやってくれた。あいつには感謝しとるけえ・・」そう言って彼は目を潤ませた。


「あいつが帰って来んならそれでもええし。帰って来るならそれでもええ・・好きにしたらええと思っとるんよ。」


もう無理はさせたくない、自由にさせてやる、そんなふうに私には聞こえた。愛にも様々ある、今の彼にとって最大の愛情表現なのかもしれない。


帰ろうと表へ出ると玄関を囲む様に鉢植の薔薇が咲いていた。

「この辺は夏でも涼しいからまだ薔薇が咲くんだね。」


「ああ、妻の趣味でね、枯らさんように俺が毎日水をやってるんよ。」


私たちは車に乗り込むと、この旧家を後にした。


ミラー越しに彼の姿が遠ざかっていった。その時私はふと想像した・・美しい朝陽の中で、薔薇に水をやる彼の奥さんの姿を。そして、そんな日が再び来ることを願った。




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