居酒屋にて


その日私は旧友の信二と居酒屋にいた。

久しぶりに会う信二はいかにも病院長の貫禄で病院経営にも馴染んできたようだ。

コロナのせいか客はまばらで店に以前の活気は無かった。


信二が私に言った・・

「お前さあ、どうして洋子に手を出さなかったんだ?!」

いきなり何を言い出すのかと思った。

私が困惑して黙っていると・・

「あいつを好きだったんだろう? 洋子がお前を好きなのは知ってたんだろう?」

とたたみかけてくる。

「いや、それは10年も昔の話だからさあ・・」

「お前には昔の話でも俺には今の話なんだ・・」


洋子と言うのは信二の妻の事で、以前は私の恋人だった女だ。


「どうしたんだ、洋子さんと上手くいって無いのか?」

と私が聞くと、信二は・・

「そんなことは無い、上手くやってるよ。」

と言う。


「じゃあ何も、昔の話をしなくてもいいじゃないか。」

と言うと、うん・・と頷きながら彼は渋い顔でこう言った。

「10年たっても、洋子の中にお前が居るような気がするんだ・・ 俺はお前が手を出さないから彼女と結婚したんだ。だから初めはしょうがないとは思ってたんだ。だけど、まだあいつの中にお前が居るような気がしてしょうがないんだよ。」


「それは考え過ぎじゃあ無いのか?誰が見たってお前の所はお似合いの夫婦だよ。」

というと。でもなあ・・と彼が言った。

「以前洋子が言った事があるんだ。 お前が誘っていたら俺とは結婚しなかったって。その言葉が気になってさ・・ お前、どうして洋子に手を出さなかったんだ。洋子が好きだったんだろう?」


私は信二に問い詰められて、返答に詰まってしまった。

彼女との事は簡単に説明できることでは無かったからだ。


当時、私は洋子さんと恋愛状態にあった。しかしプラトニックな関係で、それ以上の関係では無かった。いや、それ以上の関係になることを私が避けていたのだ。


ある日彼女は私のアパートに来ていた。

私の部屋には質の良い音を出すコンポが有り、二人で古いラテン音楽を聴いていた。

彼女はソファーに座り、私はベッド端に座っていた。


夕方になり夕日の赤い光が部屋に差し込んできた。

光は壁やスピーカーや彼女の頬を赤く染め上げてとても美しかった。

彼女は立ち上がると私の隣に来て、私に体を預けるように座った。


彼女が誘っているのは分かっていた。

しかし私は彼女に何もしなかった。

キスすらしなかったのだ。


もしあの時洋子さんを抱きしめてキスをしてたらと

そう思うこともある。

しかし、私には彼女は重過ぎたのだ。


結婚は恋愛とは違う・・

結婚すれば彼女の親が私の親になり彼女の兄弟が私の兄弟になる。

彼女の親は内科医で、彼女の兄弟は外科医と歯科医という医者系の家族だった。


私といえば、当時開業したての、社員も居ない技術系の経営者で、明日がどうなるのかも分からない状態だったのだ。


私は、まだ結婚なんかしている場合では無かったし、何よりも彼女の家族は私には重すぎた。とても釣り合わないと考えていたのだ。

そこへ信二が洋子にアタックしてると噂で聞いた。


当時、信二は、医大病院の外来主任をしていた。

彼こそが洋子さんに釣り合う相手だと私は思った。

そうするのが彼女にとって正しい選択なのだと・・


あの日 彼女は信二にプロポーズの返事をする前に、私に決断を迫りに来たのだ。

私は薄々それに感ずいていた。


あの時私は洋子さんに連れない態度をとった。

今思い出せばひどい仕打ちだ。

あの日の後、彼女は信二と婚約をしたのだ。


婚約の話を聞いた時、自分で選んだ事なのに私はショックで暫く何も出来なかった。彼女が去ってから初めて自分がどんなに洋子さんを愛してるのかに気が付いたのだ。

もお二度と、彼女より好きな人は現れないような気がして気がめいってしかたがなかった。


私は 立ち直るのに1年はかかったように思う。

あれから10年経ったのだ。


「俺が洋子さんに手を出さなかったのはな・・ 俺とじゃあ釣り合わないと思ったからなんだ。信二との方が良い家庭を作れると思ったんだ。」

「でも、好き合っていたんだよな・・洋子は俺よりもお前が好きだったって。そう言ったことが有るんだ。」

「それは過去形だろう・・」

そう私が言うと彼はうなずきながら・・

「確かに過去のことだ、それは分かってるんだ。 だけどな、子供にお前の話をするんだぜ。 私の元カレはねって・・俺の前で・・嬉しそうにな・・」

なんだ、そんな事かと私は苦笑した

「それはさあ・・それは思い出話だよ。吹っ切れてるから話せるんだよ。」

「そうかなあ・・」

「そうだって。彼女の中に居るのは昔の俺の思い出なんだよ。気楽で無計画でカッコばかりつけてるやんちゃな俺なんだよ。」

「ああ、確かにお前はそんな感じだったよな。」


私だってあの頃のことを懐かしく思い出すことがある。

生意気な私は6才も年上の洋子さんを妹のように連れまわっていた。

無邪気でカッコばかりで、女の気持ちなんか何にも知らなかった。

だからお嬢様育ちの彼女には私が新鮮に見えたのだろう。


信二が言った・・

「そうだな、お前の言う通り 若かりし頃の思い出ってやつだな。」

「そうだよ、それぐらい良いじゃあ無いか?」

私がそう言うと、ホッとしたように信二が言った。

「そうだよな・・俺の考えすぎだな・・」


その時、信二のスマホに電話が入った。

「悪いけど晩飯は食ったから・・うん・・ 居酒屋でね、石原と一緒なんだよ。 そう、あいつだよ。懐かしいだろう! 今度家に連れて行くから・・そうだ・・うん・・そうするよ。・・じゃやあな。」


電話を切ると信二が言った。

「石原君と飯食ったって言ったら、洋子がびっくりしてたぞ。 今度、家に晩飯食いに来いよ、洋子も喜ぶから・・」


そうだった・・

私にもわだかまりがあったのだ。

彼が洋子さんと結婚して以来一度も家に行ってなかった。


「ああ、ぜひ行かせてもらうよ。」

私はそう答えながら・・

洋子さんの好きなお菓子って何だったっけ?と昔を思い返していた。



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