囚われた蛾
窓ガラスに逃げ場を失った蛾が一匹パタパタと羽ばたいている。私は窓を開けて蛾を外へ逃がす。ガラス窓から解放されてフワフワと空に舞う蛾を見上げながら私は中学生のころを思い出していた。
あの頃、私のクラスには稲垣という札付きの不良がいた。
数学の時間に椅子をガタガタいわせて、それを教師が注意をすると、逆に教師に詰め寄り「文句あんのかよ! じゃあ殴れよ! 殴ってみろよ! 殴れないだろうが!」と教師を脅かすような奴で手に負えなかった。
教師たちも彼はいない者のように無視しいて授業をしている。稲垣はそれを良い事に堂々と授業を抜け出し、校庭でボウルを蹴って遊んでいた。私としては、稲垣が外にいてくれる方が教室が静かで授業を受けやすかった。
あれは中三の夏の事だった。授業中教室に一匹の蛾が紛れ込んだのだ。どこから入ったのか黒板の上の辺りをパタパタと羽ばたいている。
一人の女子がキャーと叫んで廊下へ逃げ出したのをきっかけに次々と生徒が廊下に逃げ出し教室は教師と私だけになった。そして教師の方へ蛾が飛んで行くと今度は教師も廊下に逃げ出してしまったのだ。
この地域は田舎で、家の庭や道路の縁に虫などはいくらでも這っている。夜に自販機に行くとカブトムシもいるくらいだ。この地域では誰でも子供のころから虫と関わって来たのだ。それなのに教師まで廊下に逃げ出すなんて、どれだけいいカッコをすれば良いのか、あまりにもばかばかしい。
私は黒板の所まで行って蛾を捕まえると窓を開け外へ放した。それを見た教師が教室に入って来て皆に席に帰るように促すと、生徒も渋々と自分の席に着き、やっと授業が再開されたのだった。
その次の日からだった。私への陰湿な虐めが始まったのだ。私とすれ違う時、わざとらしく私を避けるのだ。自分の席の着くときは私の席の横を通らずわざと遠回りをする。まるで私は蛾と同じ扱いになってしまったのだ。教師もそれを見て見ぬふりをしている。
教師がその態度だと私への虐めは教師のお墨付きが付いたようなものだ。私の上履きが花壇の中に捨てられていたり私の私物が無くなるような事まで起き始めた。
ある日、私が自分の席に座ろうとした時だった。誰かが私の椅子を後ろに引いたのだ。私は後ろへ尻もちをついて転倒した。それを見て誰かが笑うとつられるように全員が笑い出した。私は悔しくて、顔が赤くなるほど興奮した。その時だった。
「笑うな!!」と大きな声がした。「笑ったやつは俺が許さん!!」
振り返ると稲垣が立っていた。
彼は私の椅子を引いた男子の所にずかずかと行くと彼の髪をつかんで廊下まで引きずり出し投げ飛ばしたのだ。そして帰ってくると何事もなかったかのように黙って自分の席に座った。
皆が稲垣は怖い、誰も彼には逆らえなかった。この事があった日から私への虐めは無くなったのだが、その代わりに誰も私と目を合わせず、口をきく者はいなかった。 要するに今度は私が稲垣と同じ扱いになったのだ。
それから暫くたったある日の事、私は学校から少し離れた公園で、稲垣が通り掛かるのを待っていた。彼が通り過ぎたのを見て、私は後ろから彼に声をかけた。「稲垣君!」 彼は立ち止まって振り返った。「あ・・高橋か・・」
「この間はありがとう、私の味方になってくれたのは稲垣君だけだった。嬉しかった・・」私がそう言うと彼は照れたような顔で「うん、何かあったら俺に言えよ。」と言うと背を向けて去っていった。その時私は稲垣君の照れたような笑顔に、私への好意を感じた。
その後、私は彼と話をする機会は無かったが、私と目が合うと彼はいつも照れたような笑顔を見せた。私は彼に目で優しさを送った。ただそれだけの関係だったが、それが私の残りの中学時代の学校生活を支えてくれた。私にとって彼の照れた笑顔だけが安らぎだったのだ。
年が明けると私は県でトップの進学校に進み、不良の彼は最下位の高校に行った。それ以来彼と会う機会はなく、彼の噂も聞く事は無かった。
今でも閉じ込められた蛾を見るとふと彼の事を思い出す。そして私は窓を開けて彼を外に放してあげるのだ。
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