お顔を整えてください、カイン様
「きちゃった」
と可愛らしく言う女性二人は、返事もなく立ち尽くすカインを見てくすくすと笑うと、お互いの顔を見合わせていたずらが成功した事を喜ぶようにしてやったりと言ったおちゃめな顔を披露した。
そんな可愛らしい様子の二人の姿をまぶしい物を見るような目で見ていたジュリアンだったが、立ち尽くしたままのカインが無言でいることに気が付いて出入り口側を振り向いた。
「か、カイン」
「あ」
ジュリアンがドン引きするような表情を作ったことに気が付いたエリゼが、ディアーナと見合わせていた顔をカインに向けて、真顔になった。
「イルヴァレーノ!」
「はっ!」
エリゼが鋭い声でイルヴァレーノの名を呼んだ。ドアのそば、壁際に待機していたイルヴァレーノがさっとカインの前に立つと、両肩を掴んでクルっとその体を反転させた。
ドアを開けてカインを室内へと先に通していたハッセがすぐ後ろにいたのだが、急にくるりと振り向かされたカインの顔を見て顔を引きつらせ、片足を一歩引いてしまった。
「カイン様、お顔を整えてください」
そういってポケットからハンカチを取り出し、イルヴァレーノがカインの顔をごしごしと擦る。目と鼻と口、顔中の穴すべてから液体が漏れ出していた。
久々に会えた喜びと、ジュリアンと面識を持ってしまった事に対する焦りと、この事態を避けられなかった自分への怒りなどの感情がない交ぜになり、複雑な表情になっていた。
そんなカインの顔を、イルヴァレーノはハンカチで拭いて清めつつほっぺたをムニムニと揉んで表情筋を緩めようと奮闘していた。
カインとは寮では同室で、学校でも同じクラスのジュリアンは、この国では誰よりもカインと一緒にいる時間が長い。髪をもじゃもじゃにしてしまって困っている顔、婚約を申し込んだ事がバレて怒っている顔、女性の胸の大きさを信じてはいけないと忠告した時の意地悪な顔、様々な表情を見てきたが、どの顔も綺麗で整っている顔の範疇からはみ出すことはなかった。
美形は笑っても怒っても美形だな、という感想を毎度カインに対して持っていたジュリアンであったが、今日その思いは覆されてしまった。
あんな不細工な顔見たことない。今夜夢に見そうで怖い。とジュリアンは思ったのだった。
イルヴァレーノに顔を拭かれ、ほっぺたを揉まれ、耳元で何事かを告げられる事でなんとか持ち直したカイン。イルヴァレーノと顔を見合わせて、大きく一つ頷かれた後、大きく深呼吸をすると改めてクルリと反転して室内に体を向けた。
「お久しぶりです、お母様。ディアーナ。お元気そうで何よりです」
「本当に久々ですね、カイン。……夏休みに、お家まで帰ってきてくれなかったのですもの。もうすぐ家を出て一年ぐらいたってしまうのではないかしら」
「……お母様、根に持ってますか?」
「まさか!」
改めて振り向いたカインは、朗らかににこやかに優しい笑顔をたたえた顔でリムートブレイク式の紳士の礼を取って母と妹に挨拶をした。
軽く言葉を交わしている所でジュリアンが「カインも座れ」と椅子をすすめるので、カインは改めて部屋の中へと足を進めていった。
部屋は思ったよりも広く、真ん中に大きな応接セットが置いてある。低くて重そうな木のローテーブルをはさんで、四人は座れそうな大きなソファが向かい合わせに設置されており、手前と奥側に少し小ぶりの(それでも二人は座れそうな)ソファーが置かれている。
入って左側のソファーに母エリゼとディアーナが、向かい側のソファーの真ん中にジュリアンが座っている状態だった。
カインは左側、母とディアーナが座るソファーへと進んでいくとディアーナと並んで座り、流れるようにディアーナを持ち上げると自分の膝の上に座らせた。
「カイン、それは素でやっているのか?」
「なにがですか? ジュリアン様」
「……いや、良い」
ジュリアンは右手で眉間を揉むようにしながらため息とともにあきらめを吐き出した。
婚約を申し込んだというだけで、襟首掴んで締め殺さんばかりに持ち上げてくるような男なのだ。妹を自分の膝に乗せるぐらいは日常なのかもしれないし、妹の方もそれが当たり前になっているのかもしれないとジュリアンは思ったのだ。
「お兄様、私はもう九歳なのですよ? もうお膝の上にのせて座るのはよしてくださいな」
「おお。無意識だったよ、ディアーナ。そうだね、ディアーナはもう立派なレディだもんね」
ディアーナにたしなめられたカインは、もう一度ディアーナを持ち上げると自分のすぐ隣に座らせて、そのまま頭をなでて髪を梳き、最後に肩をポンポンとやさしくたたくとにこりと微笑んだ。
その様子を見て、異常なのはカインだけなのだな、とジュリアンは認識を改めた。
「では、エルグランダーク夫人。私はこれで失礼します。お預かりした書状は確かに父へとお届けいたしますゆえ」
「よろしくお願いいたします、第一王子殿下。私どもは今しばらく滞在する予定でございますので、お返事はゆっくりで構いませんわ」
「伝えておきます。……ではな、カイン。寮監には話してあるゆえ、この部屋はこの後もゆっくりと使って構わない。家族水入らずで過ごすがよかろう」
カインが腰をおろしたのと入れ替わりでジュリアンは退室するようだった。
いきなりやってきた母エリゼとディアーナの対応をしてくれていたという事だろう。もしくは、カインに対するサプライズに、ジュリアンも加担していた可能性もあるかもしれなかった。
ジュリアンがハッセを伴って退室した後、部屋にはソファー前に立つエリゼとディアーナとカイン、壁際に控えているイルヴァレーノとサッシャと母の侍女の六人だけとなった。
立って退室するジュリアンを見送り、ドアが閉まった後。
母に名前を呼ばれて振り向いたカインは、にこやかであるにもかかわらず、どう見たって怒りに満ちている母親の笑顔を見た。
そして、貰った特大のゲンコツは、その音が部屋を後にしたばかりのジュリアンとハッセにも聞こえていたのだと後から知らされたのだった。
約一年弱ほど暮らした貴族学校の寮だが、カインはこれまでこの応接室には入ったことが無かった。
そもそも、寮生の家族が面会に来たぐらいであれば食堂を利用することが多いのだ。
というのも、寮生に面会に来る家族といえばこの学校の卒業生である姉兄か、入学前の弟妹であることがほとんどだからである。
用事があるのが両親の場合、王都に屋敷のある者であれば生徒が家に帰る。
王都に屋敷のない者はそもそもめったなことでは面会に来ないし、来るとなれば城での催し事に参加するためであることがほとんどなので、一緒に外で食事をとったり買い物をしたり予定を調整したりといった感じで『ちょっと面会していく』程度では済まないことが多いため、やはり宿に生徒の方が出向くことになる。
ではいつ使うのかといえば、王族在学期間中に王族あての来客が来たときや、卒業間近の生徒をスカウトしに騎士団や城の役員がやってきたときなどに使われるのだ。
本来なら、ジュリアンあてにジャンルーカが遊びに来てもこの応接室を使うはずなのだが、ジャンルーカは気軽に食堂やカインとジュリアンの部屋まで遊びに来ていた。
留学生であり、サイリユウム国内に重要人物である知り合いなどいないカインがこの部屋を使うことなど卒業までないと思っていたのだが、隣国の筆頭公爵家の夫人が訪ねてきたとなればやはりこの応接室の出番という事になるのだろう。
そのことに思い当って、一つの疑問が浮かんだカインは素直に母に問いかけた。
「宿はどうするのですか? 宿をとって、そちらに呼び出してくださればよかったのに」
応接室の中に、身内しかいなくなったことでカインは改めて膝の上にディアーナを乗せていた。貴族として、エルグランダーク家長男としてあり得ない乱れた顔をした事とディアーナを膝に乗せた事でゲンコツを貰っているというのに、懲りないカインである。
母のエリゼは、もうあきらめ顔だ。
「カインの事を驚かせたかったから……なのだけれどもね、失敗だったわ。ディアーナが絡んだ時のカインがまだあんなに酷いなんて思っていなかったもの。夏休みに再会した時は大丈夫だったと聞いていたのに」
エリゼのその言葉に、イルヴァレーノとサッシャが顔を小さくゆがませた。
「……抱き合って地面を転がったのを大丈夫だったと、誰が伝えたんでしょうか」
「……俺は言ってない」
サッシャとイルヴァレーノのこそこそ話を、エリゼの侍女が耳にしつつ(エクスマクス様だろうな……)と胸の中で一人納得していたのだった。
「驚きました。普段なら使わない寮の応接室に突然呼び出されたんですから、何事かと思いましたよ」
「なら、大成功ね。驚かせたかったのもあるけれど、学校の様子や寮の様子も知っておきたかったのよ。まだ十二歳なのに一人で隣国へとやられて、寂しい思いをしていないかしら、とか」
「この国では、ほとんどの貴族が皆十二歳で寮暮らししているんですから、僕にだってそれぐらいできます」
そもそも、転生前のサラリーマン時代の記憶を持っているカインである。前世では一人暮らし歴もそこそこあるのだから、食堂も用意されている寮ぐらしなど楽勝である。貴族用の寮だから設備なども良い物が用意されているし、快適である。
しかし、自分の事を心配してくれて気を配ってくれる親心というのは素直にうれしかった。
「カインは、なんでもやってしまうものね……それが、別の意味で心配なのですよ。でも、元気そうでなによりね」
「はい。何やら、ジュリアン様に手紙を渡されていたようですが」
「ええ。ただ子どもの様子を見に行きたいではさすがにね。筆頭公爵家夫人の立場では通せないわがままだったわ。……だから、サンディにお願いして用事を作ってもらったの」
サンディというのは、王妃殿下の愛称である。室内には身内しかいないとは言え、王妃殿下にお願いできる立場であることをあまり漏らしたくないのだと知れた。
しかし、学園時代の親友という話は聞いていたカインだが「サンディアナ様」とか「知っている奥様」ではなく「サンディ」と愛称で呼ぶ辺り本当に仲がよかったのだろう。
「もうすぐ建国祭があるそうね。ディアーナも連れてきたし、お祭り見学してから帰ろうと思っているのよ」
もうすぐ、とはいえ建国祭まではまだ二週間もある。
リムートブレイクの王都からサイリユウムの王都までは片道一週間かかるのだ。それでは帰宅するまでに一カ月も家を空けることになってしまう。
「いいんですか? そんなに家を空けて」
「いいのよ。夏休みに、私をのけ者にした罰です。貴族女性たちの社交関係はサンディに押し付け……お願いしてきたし、家の事はお父様とパレパントルに任せてきました」
(今、押し付けたって言った)
夏休みに、一人だけ王都に残されていたことをやはり母は根に持っているようだった。
虫が苦手過ぎて、誘ったとしても領地には来られなかっただろうが、まず誘われなかった事とカインが王都に戻らなかった事に腹を立てているのだ。
「こちらの神渡りは神秘的だってお話も聞いているのよね。居心地が良ければ年越しまでこちらにいることも考えているわ」
「さすがにそれは……。宿はどうするんです。そんなに長くとっておけるんですか?」
公爵家夫人であるエリゼの事だから、宿はいい宿を取っているだろうことは想像できた。しかし、高級と言っても宿は宿である。
自宅の様に好きなように振舞えるわけではないだろう。リムートブレイクの貴族の頂点に立っていると言っても過言ではない母エリゼが長期間そんな生活をできるのかをカインは心配していた。
お金の問題もある。エルグランダーク家はちょっとやそっとの出費で傾くような事はないが、ここは外国なのである。お金が足りなくなった時に用立てるにしても時間がかかる。
「大丈夫よ。家を買いましたからね」
色々と心配をした自分が馬鹿らしくなるような言葉を、エリゼがさらりと口にした。
筆頭公爵家の長男として十二年生きてきたカインであるが、まだまだ前世の貧乏サラリーマン根性が抜けていないのだと反省した。
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