無かったことに
「アルンディラーノ」
王妃殿下がやさしい声で、アルンディラーノの名前を呼んだ。カインの隣に座っていたアルンディラーノは、カップを両手で持ったまま顔を上げて母親の顔を見返した。
「はい」
「王兄殿下の……あなたの伯父上の名前を知っていますか?」
「……?」
王妃殿下からの問いかけに、アルンディラーノは首を傾げた。
アルンディラーノはすでに九歳である。家庭教師による教育はしっかりと受けているはずであり、ある程度の王家の家系図などは学んでいてもおかしくはないのだが、
「わかりません。陛下に兄上がいらっしゃる事は学びましたが、そういえばお名前は教えてもらっていないと思います」
アルンディラーノがはっきりとそう答えた。アイスティア領に到着し、つい先ほど朝食の席に王兄殿下が現れた時も、お互い初対面のように接していた。
アルンディラーノの言葉に小さく頷いた王妃殿下は、そのまま隣に座るカインの顔へと視線をずらした。
「カインは? 王兄殿下のお名前を知っていますか?」
「申し訳ありません。わかりません」
アルンディラーノが質問された時点で、カインは自分でも頭の中の知識をひっくり返していた。国の歴史と並んで、王家の歴史もイアニス先生から学んだはずだがどうしても思い出せなかった。王兄がいるということも教わった記憶はあるがだいぶさらっと流されていたような気がする。
王妃殿下はカインの返答を聞くと、ディアーナとマクシミリアンにも問いかけたがやはりどちらも知らないという返答になった。
マクシミリアンは、明確に「習っておりません」と答えた。学校での授業内容はすべて覚えているとのことだ。
リベルティに至っては、王妃殿下と視線があった瞬間に勢いよく首を横に振っていた。
王妃殿下から最後に視線を受けたマクシミリアンの兄、ビリアニアがゆっくり深く頷くとテーブルに座る皆を見渡した。
「王兄殿下のご尊名は『ハインツ様』だよ」
ビリアニアの言葉に反応したのは、カインとマクシミリアン、アルンディラーノの三人だった。
カインとマクシミリアンは顔をしかめ、アルンディラーノは不思議そうな顔で首を傾げた。
「お父様……国王陛下とお名前がご一緒なんですか?」
アルンディラーノのつぶやきに、王妃殿下もすこし悲しそうな顔をして頷いた。
「そうです。王兄殿下と陛下の名前は一緒なのよ」
兄と弟に同じ名前が付けられており、兄は病弱で表に出てこない。
王兄殿下生誕の祝賀ムードで盛り上がった時代を知らない世代は、歴史を学ぶような機会のない平民であればその存在すら認知していない。
家庭教師や学校の授業で学ぶ貴族であっても、さらりと流されてしまうのでちょうどその時五分ほども居眠りしていれば存在を知らないまま生きていくこともありそうな勢いである。
そんな状態で、王家の歴史関係の資料を紐解いて「ハインツ殿下が〇〇をした」「ハインツ殿下が××をした」という記載があればそれは現国王陛下について書かれたことだと思うだろう。
年代と年齢がおかしいと思っても「記載ミスかな?」と思って終わりである。指摘されたとしても編纂係はいったん受け止めてそのまま直さなければ良いのだ。
つまり、王家……というか先王と先王妃は王兄殿下をそうやって王家の歴史から消そうとしたのだ。
「お名前を同じにして今も王家に所属させているということは、臣籍降下することは許されなかったのですか?」
マクシミリアンがそう質問をした。
王家の歴史を見ても、男兄弟が複数いる場合は兄弟の誰かが国王に即位し、国王に跡継ぎが生まれた時点で他の兄弟は継承権を返還して臣籍降下することがほとんどだ。
身分ある家に婿養子に入ったり、領地を拝領して新たな貴族家を興したりするのが大多数だった。変わり種では、やっと自由になれたと言って旅人になった王族もいたらしいがそれは例外中の例外である。
今回の件でいえば、国王陛下にアルンディラーノが生まれた時点で王兄殿下は王族を抜けて臣籍降下をし、体調のせいで結婚が難しいのであれば公爵か侯爵として新たな家を興すのが妥当なところである。
実際、このアイスティアという領地は王兄殿下の治める土地ということになっている。
「臣籍降下して新たな貴族家として興るか、どちらかの家に婿にはいるか。……それをすると、歴史に名前が出てしまうのよ」
王妃殿下のその一言に、カインは今度は遠慮なくはっきりと顔をゆがめた。明確に、王妃殿下に対して不快であるという意思表示である。
王妃殿下の言葉はつまり、王兄殿下は王家の歴史どころか国の歴史にも存在を残すことを許されなかったということだ。
「カイン、そんな顔をしないでちょうだい。私だって理不尽だと思っているのですよ、かの方の境遇については」
「申し訳ありませんでした」
「マクシミリアン」
王妃殿下に苦言を呈され、カインが頭を下げている横でビリアニアがマクシミリアンに声をかけていた。
王妃殿下とカインのやり取りを見ていたマクシミリアンは不意に呼ばれてびくりと肩をゆらしたが、かろうじて表情は変えないまま兄の方へと顔を向けた。
「我がサージェスタ家の当主は未だお祖父様だし、父上もご健勝だ。お祖父様が引退され、父上が侯爵家を継ぎ、さらに引退なさってリカルドが家を継ぐようになるまでまだまだ時間がかかる。それまでの間、マックスの侯爵家の三男という立場は揺るがないんだよ。お前は学園を首席で卒業しているし俺たち兄弟の中で一番頭が良いんだ。王城へと仕官して政務官として実績を上げて叙爵たまわるように努力するんだってよかったんだ。実際、お前は魔導士団へ入団して実績を残し、魔導士爵を貰う事を目指していただろう?」
ビリアニアは眉毛を下げて肩を丸めた姿勢でマクシミリアンに向き合っている。騎士らしくがっちりとした体格なのに猫背っぽくなっている姿がすこし情けなかった。
ビリアニアに言われても、マクシミリアンはどう答えようか迷っているようでなかなか口を開かなかった。
「お前は三男だから、確かにサージェスタ家を継ぐ可能性はほとんどなかったよ。でも、魔導士団でも王城の政務官でも身を立てる術はあったんだ。どうしても貴族でありたいのであれば、俺も父も婿入り先を探すのを喜んで手伝うつもりだったよ。それがなんだってリカルドを追い落としてサージェスタを継ごうなんて考えたんだ」
ビリアニアは、悲しそうな顔をして最後に「相談してくれたらよかったのに」とつぶやいて口を閉じた。
王兄殿下は王家に籍を置きつつも王家として表に出ることができず、かといって王家の外に出て新たに身を興すこともできなかった。それを受けてのビリアニアの問いかけだったのかもしれない。
マクシミリアンは、他家へ婿入りすることも功績をあげて自ら立つ事もできる可能性があったのだ。
カインは、ネルグランディ領で尋問した時に『黒い服を着た女にそそのかされた』という話を聞いている。だが、ビリアニアのいう通りその前に家族に卒業後の在り方について相談できていれば心を揺らされることもなかったかもしれない。
カインは自分自身が親を頼らないせいで留学までさせられた事は棚に上げてそんなことを考えていた。
「まぁ、マクシミリアンはもう少しで魔導士団に入団が叶いそうだものね。入団したらお城でたくさん働いていただくから精進なさいね。サージェスタ家の現当主には近々ご勇退頂くことになるでしょうし、ビリアニアはリカルドと力を合わせて御父上を盛り立てなさいな」
ビリアニアの言葉に、何も返せずうつむいてしまったマクシミリアン。食堂がシンとしてしまったところに王妃殿下が明るい声でそんなことを言った。
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