イルヴァレーノ
公爵家令息、カイン・エルグランダークの朝は早い。
朝食の二時間前には起きて屋敷の塀に沿ってランニングを行っている。
5歳から始めて、最初の頃は半周も出来なかったのだが、6歳になった今は10周ほど出来るようになっていた。
ちなみに一周はだいたい1キロほど。だだっ広い屋敷だ。
敷地内を巡回警護していた騎士に最初に見つかった時にやめさせられそうになったが、無視して走り続けていたら、いつしか騎士が一緒に走るようになっていた。
そこから仲良くなって、護身術や足の運び方、攻撃のかわしかた等を教わるようになり、今や身長が倍ぐらいある大人であっても隙をつけば転ばせて押さえつけるぐらいはできるようになっていた。
まだ体が小さく筋力も無いため武器の取り扱い方は教えて貰えていない。
この、カイン・エルグランダークの体は優秀だった。
さすが乙女ゲームの攻略対象キャラなだけのことはある。勉強をすればするほど知識は増えるし思考がはっきりしていくのを感じる。
一応予習復習はするが、一度学んだことはしっかり身につき忘れない。
運動についても、走れば走っただけ体力が積み上がっていくのを感じるし、騎士に習った体捌きなどもすぐに自分の物にできた。
やればやっただけ成果が出るのはとても面白かった。
この頭が前世の大学入試の頃にあればなぁと思わないことは無かったが、それはもう過ぎた話だからと頭を振って思考を追いやる。
今日も、いつも通りに軽く準備運動をしてから走り出した。今日は父親が早朝から領地へ出かけるということで、馴染みの騎士は門の開閉と見送りに行っているためひとりで走っていた。
ハッハッハッと、自分の呼吸と鳥の鳴き声だけが聞こえる静かな朝だった。
ちょうど正門と反対側、屋敷の裏手にさしかかったところで、後ろからドサリと重い物が落ちるような音が聞こえた。
塀から猫でも落ちたのか、なにかゴミでも投げ入れられたのか。
もしかしたら庭師の爺ちゃんが倒れたのかもしれないと、カインは足を止めて振り返った。
そこには、全身黒ずくめで顔も頭巾で覆っている少年が落ちていた。
足を止めて、深呼吸をして息を整えながら近寄ると、少年はよろよろと立ち上がり、塀に手を付きながらも歩き出そうとした。
カインは、スタスタと歩いて近寄ると足払いをして少年を転ばせ、その上に馬乗りになると頭巾をもぎ取った。
「…イルヴァレーノ……」
カインが名前をつぶやくと、少年はギクリと肩を震わせてカインを赤い目でにらみつけて来た。
イルヴァレーノは攻略対象の一人で、暗殺者だ。
暗殺者ルートは一番悲惨なシナリオで、ディアーナは勿論のことイルヴァレーノ以外の攻略対象も全員死ぬ。
暗殺者ルートのシナリオを思い出そうと、カインはイルヴァレーノに馬乗りになったまま斜め左上を眺めて思考を整理する。
(確か、主人公とイルヴァレーノは小さいときに会ってるんだよな。暗殺に失敗して瀕死で逃げている所を主人公が拾って手当してやるんだっけか…。その小さい頃の優しくされた記憶だけを拠り所に厳しい世界で生きてきて、魔法学園で再会して恋心を拗らせるんだよな…)
改めて、視線をイルヴァレーノの顔に移す。幼い顔をしているが、ゲームのイベントスチルで見たイルヴァレーノの顔に間違いなかった。
赤い髪に赤い目、攻略対象だけあって整った顔。今は血の気が少ないのか青白い顔をしている。
「怪我してるのか?」
「……」
カインが問いかけても、イルヴァレーノは答えない。目をそらしたら負けとでも思っているのか、視線はきっちりとカインの目を捉えていた。
(あー…もしかしてこれ、俺が見つけてなかったらこのまま足引きずって主人公の家の近くまで移動してたんじゃないか?)
ここでイルヴァレーノを逃がせば、主人公との幼い頃の思い出ができてしまう。
最悪のルートなので、暗殺者ルートだけは何としてもつぶしたいとカインは考えていた。
「なぁ、腹減ってないか?」
「……」
やっぱり答えないイルヴァレーノに向かってため息をつくと、カインは立ち上がってイルヴァレーノの上からどいた。
押さえつけられていた体が自由になったイルヴァレーノが飛びかかってきたが、騎士から指導を受けていたカインは難なくかわし、そのまま腕を取って投げ飛ばした。
「ぎゃっ」
受け身も取れずに背中から落ちてうずくまるイルヴァレーノの腕を持ち上げ、肩の上に体重を乗せて膝を落とした。
「あがあああっ」
「ごめんねー。脱臼させただけだから、後でちゃんとはめてあげるよ」
脱臼していない方の腕を持ち上げて肩に担ぐと、引きずるように邸へと連れて帰った。
父親の出立で使用人たちが手薄になっているのを利用して、カインはイルヴァレーノを部屋まで連れ込み、いかにも暗殺者ですと言うような真っ黒な服を脱がせて、自分の服の中から一番地味な服を選んで着せた。
元からの怪我と、カインにやられた脱臼のせいで脂汗を浮かべてうなっているイルヴァレーノをソファに寝かせ、鈴を鳴らして使用人を呼んだ。
カインは、ランニング中に裏門の向こうに倒れている子が居たので介抱しようと連れて来た、困っている人がいれば助けるのは貴族の務めだもんね。と使用人に説明した。
使用人から侍女に話が行き、侍女から家令へ話が行き、家令から母へ話が届くと母は医者を呼んでくれた。
足の骨折と細かい切り傷、背中の打撲と肩の脱臼。医者はしばらく安静に、と言って薬を置いて帰って行った。
「なんで助けた…」
イルヴァレーノがにらみつけながら問いかけて来た。ゲーム中では低めのイケボだったが、まだまだ幼い少年ボイスだった。コレはコレでアリよりのアリだな、とにやけそうな顔を引き締めるカイン。
前世ではおねショタ属性を持っていた。
「困っている人を助けるのは、貴族の義務だからねぇ」
イルヴァレーノは今、カインのベッドに寝かされている。この後どうするかは、父が帰ってきてから相談しようと母と話し合い済だった。
この時のイルヴァレーノが、誰の暗殺に失敗したのかはゲーム中では語られていない。ただ、物心ついた頃から暗殺者として育てられていて、人殺しに疑問を持たなかったイルヴァレーノが、主人公のやさしさに触れてしまうことで再会までの間苦しみながら人を殺し続けることになる。
そうして、主人公と再会した時にはすっかり心が壊れていたイルヴァレーノは、世界に二人きりになろうとして主人公以外のすべての人を殺してしまうのだ。
「情けは人の為ならず、って言葉知ってる?人に親切にすると、回りまわって自分に親切が返ってくるよって意味なんだけどさ」
ベッドのふちに座って、寝ているイルヴァレーノの顔をのぞき込むようにしてカインは話しかける。
「君を助けたのは、回りまわって僕が助かるためなのさ」
「意味が分からない…」
「意味が分からなくてもいいよ。とりあえず、今はおやすみ。起きたら一緒にご飯を食べよう」
そういって、カインは片手でイルヴァレーノの目をふさぐ。
目の上に手を置かれてしまって目をつぶらざるを得なくなったイルヴァレーノは、そのままぐっすりと眠ってしまった。
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