鬼がいる扉 2/3

(4)

 男性は目覚まし時計の音で起きた。毎日同じ時間に鳴るが、すぐ止めてまたソファーで眠る。そんな生活が続いていた。冬の寒さが身に染みる頃なので、暖房は一日中、つけたままだ。


 結納を終え、結婚するはずだった女性と住むために借りた新居。男性はそこで、すさんだ生活を送っていた。部屋は散らかり放題だ。


 突然の事故で彼女を失ってから、寝室では寝ていない。彼女と眠っていたベッドを使うことができなかった。


 彼女より二歳年上の彼は、まもなく二十九歳。責任のある仕事を任されるようになっていた。しかし、会社には一か月、行っていない。


「しばらく休め。そして、必ず戻ってこい」

 そう言って長期の休暇をすすめてくれた上司には感謝しかない。


 同僚も友人も皆、優しかった。


「辛かったら頼ってくれ」

 そんな連絡を頻繁にもらった。


 親族や上司、友人がいるからこそ、何とか生きていられる気がしていた。


「そうじゃなきゃ、とっくに……」

 家に引きこもっているとそんな良からぬ気持ちになることもある。


 昼過ぎ、男性はヨロヨロと立ち上がって外出の準備を始めた。おしゃれな服装が自慢だった彼だが、今は見る影もない。髭は伸び放題、髪はボサボサのまま、最低限の身なりを整えて部屋を出た。


 彼の部屋はマンションの五階。家賃は少々、高かったが彼女と共働きなら大丈夫だと考えていた。そのまま住み続けるのか……今の彼には、そこまで考えることはできなかった。


 一時間後、彼は彼女が眠るお墓の前にいた。日当たりの良い丘の上の墓地。先祖代々の墓の中に彼女は納まっている。気分が落ち着かないときは、彼はここに来た。しかし、来たからといって気分が上向くことは無かった。


「また来るね」

 そっと手を合わせてから、彼は立ち上がった。


 そのとき、チャリンとポケットから何かが落ちた。


「あっ、家の鍵……」

 落ちた鍵はそのまま数回、跳ねてお墓の脇の溝に落ちてしまった。


「しまった!」

 後悔しても、あとの祭り。溝の蓋を開けることはできなかった。


「まあいいや」

 男性は諦めた。注意が散漫になり、小銭や鍵をポケットに突っ込んでいたことが災いした。


 一方、鍵を閉め忘れて外出することも多かった。その日も、施錠したか記憶がおぼろげだ。きっと、閉めてないだろうと考え、帰宅することにした。


 帰り道、遠回りして大きな川に掛かる橋の上を歩いた。周囲は暗く、冬の寒さが身に染みた。むしろ、男性には心地よく感じた。


 橋の上で立ち止まる。覗くと川の流れる音だけが聞こえる。


「悲しみは時間が解決してくれる」

 友人はそう慰めてくれた。「そんな、簡単なものじゃない!」と反論したい気持ちもあった。しかし、自分が逆の立場なら同じことを言っただろう。そう思うと、友人の言葉はありがたかった。


「いっそ、ここから……」

 こういう場所に来ると良からぬ思いが頭をよぎる。しばらく立ちすくんだあと、とぼとぼと歩き始めた。



(5)

 自宅のマンション前に戻った彼は、自室を見上げた。


「おや?」

 電気がついている。また、つけたままで出てきてしまったのか。


 エレベーターを降りて、自室に向かった。ドアのノブを回す。


「やっぱり」

 鍵が掛かっていないドアを開けて玄関に入った。


「おかえり!」

 台所から女性の声が聞こえた。


「!?」

 聞きなれた彼女の声。聞こえるはずのないその声が響く。普通なら恐ろしくなることだが、あまりの自然な様子に違和感が吹き飛んでいた。


 そっと、台所を覗く。そこには忙しそうに晩御飯の支度をする彼女がいた。


「おかえり。お風呂できているから入ってきたら?」


「お、おお。ありがとう」

 男性は、嬉しさでもなく、恐怖でもなく、何とも表現ができない気持ちで風呂に入った。


「どういうことだ?」

 湯船に浸かりながら彼は考えを整理した。


「気がおかしくなったのか?」

 ストレス過剰で気が狂ったのかと考えた。


「事故自体が妄想だったのでは?」

 それは、風呂を出れば分かることだ。髭を剃ったあと、風呂から出た。


 夕食のいい香りが漂っている。ダイニングに行くとテーブルに料理が並べられていた。


「冷める前に食べましょう!」


「これは、夢か?」


「訳のわからないこと言ってないで、早く座って」

 うながされて椅子に座る。室内を見渡すとあれほど散らかっていたはずの部屋がきれいに片付いていた。


 涙が出るほどおいしい食事。お酒が入り、現実かどうかは、どうでもよくなってきた。彼女との久しぶりの会話は夢のように楽しかった。


 あっという間に数時間が過ぎた。


「もう寝ましょう。明日も仕事だし。私、シャワー浴びてくる」


 男性は歯磨きをして、寝室に向かった。久々に入る寝室のベッドは綺麗に整えられていた。先にベッドに入っていると、しばらくしてパジャマに着替えた彼女が入ってきた。


 消灯し、二人で床に着く。久しぶりの感覚だ。


「あったかい。冬はベッドが最高ね」

 聞きなれたその言葉。ほどなく、眠りに落ちた。


(6)

 深夜、彼は突然目が覚めた。慌てて横を見る。彼女がいない。


「夢だったのか?」

 そう思ったが、彼女が眠っていた位置は、ほのかに温もりがあった。


「トイレにでも行ったか?」

 ベッドから起き上がり電灯をつけて、廊下に出た。真っ暗だ。廊下の先にはダイニングがある。消灯されているダイニングがほんのりと明かるのに気づく。


「台所にいるのか?」

 男性は、足音を抑えて台所に向かった。


 シャー、シャー。何か聞きなれない音がする。


 彼女は台所に立っていた。小さい電灯だけで何かをしている。


「……何、してるの?」

 男性は、集中している彼女から離れた位置で聞いた。


「あら、起こした? ごめんなさい」

 視線を彼に向けることなく、彼女は作業に集中している。


「研いでいるの、包丁」

 砥石といしで丁寧に包丁を研いでいる。


「こ、こんな深夜に?」


「その方が、痛くないでしょ」

 彼女は彼の方を向いて、ニコリと笑った。手に持った研ぎたての包丁の反射光が不気味に彼女の顔面を照らした。


 彼女は、包丁を持ったまま彼の方に歩み寄ってきた。


「ちゃんと研いだの。痛いのは一瞬」

 優しい彼女の目ではなかった。その笑みは見たことがないほど悪意に満ちていた。


「や、やめろ」

 彼は後ずさりをする。逃げないと。そう思った男性は走って寝室に入り、内側から鍵を掛けた。ドアに耳を当てて廊下を伺う。しかし、何も聞こえない。


 そのまま、十分ほどの時間が過ぎた。どうすべきか分からない。そのうち、男性に新たな考えが浮かんできた。


 ドアから離れて、クローゼットや棚を調べ始めた。


「無い……」

 いくら調べても、彼女に関する物が一つも見つからない。服も、写真も手紙も……。


「彼女の存在自体が、妄想だったのか?」

 自分がおかしくなったとしか考えられなかった。


 ガシャガシャ。


 突然、ドアのノブを荒々しく回す音がした。

「開けなさい!」

 廊下から女性の叫ぶ声が響いた。妄想じゃないのか?


家にいると殺される。彼の本能がそう判断した。


「お前は、誰だ。何が目的だ!」

 彼はそう叫んで、ドアを勢いよく開けた。


すかさず、廊下に飛び出して玄関へ走った。チェーンを外して、ドアのカギを開ける。しかし、回らない。

「何で開かないんだよ!」


 叫ぶ彼の背後から女性の声がする。


「痛くないからね」


 包丁を持ったワンピースの女性がゆっくりと近づいてくる。ドアに視線を戻す。鍵はやはり開かない。このままだと……。


「お前なんて知らない! オレの知っている彼女じゃない。大嫌いだ!!」

 彼は、混乱で泣き叫んだ。


 その瞬間、鍵が回った。ノブを回すと……ドアが開いた。


 男性は、靴も履かずに部屋を飛び出した。転びそうになりながら非常階段を駆け降りた。徒歩圏に友人の家がある。そこに避難させてもらおう。パジャマのままの男性は、裸足で深夜の街を駆けていった。


(7)

 女性は、開いたままの扉をしばらく見ていた。


「よしっ」

 小さく掛け声を出したあと、玄関の扉を閉めてキッチンに戻った。そして、研いでいた包丁を片付け、水回りを掃除した。


「あとは、これだけね」


 台所の足元に置いてあった段ボール箱をキッチン台の上に置いた。中には二人の写真や、彼が大切に保管していた手紙などがぎっしりと入っている。


 女性はコンロに火をつけて、燃やし始めた。灰になった写真に水をかけて火を消したあと、ゴミ袋に入れていった。


「これで全部」

 箱の中の品を燃やし終えた女性は、ゴミ袋の口を縛った。そして、部屋の電気を消し、ゴミ袋を下げて玄関へ向かった。


「さようなら」

 玄関から室内を振り返り、寂しそうにつぶやいた。


 一階に降りると、空が白々と明け始めていた。明け方の街に人通りはない。共同のゴミ集積場にゴミ袋を置いた彼女は、改めて建物を見上げた。

 

 次の瞬間、彼女の姿は消えていた。


(最終話に続く)

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