第三話

 リチャードが帰ったのち、とりあえずレンジに火を入れてお湯を沸かす。

 新たに石炭をくべたレンジは快調に燃え上がり、昨日まで使われていなかったとは思えないほどだ。

 お茶の葉っぱはリリィが持ってきていた。『万が一』と考えて小分けにして持ってきた東洋の「高山紫紅茶(ハイランド・パープル・ティー)」。

 こんな時に相応しい、特別な茶葉だ。


 お店の外からは判らなかったが、このお店から見える景色は絶景だった。

 目の前には商店街が並び、お店の前の木々が表情豊かな日陰を作る。遠くの方には魔法院の森が広がり、その中心には魔法院の石造りの建物が微かに顔を覗かせている。

 そして隣には汽車のレール。数時間に一回、汽車が線路をゆっくりと走って行く。

 それは、とてもとても優雅な瞬間だった。


「ところで、お店の名前は決まっているんですか?」

 昼下がりの柔らかい光を浴びるテーブルに二人で座ってミントのような香りが上品なお茶を飲みながら──これがこのお店でお出しする最初の品だわね、とサンドリヨンは笑った──、リリィはサンドリヨンに訊ねた。

「ええ、もう決まっているわ」

 ステンドグラスの光に彩られたサンドリヨンが答えて言う。

「『カフェ・シンデレラ』にしようと思うの」

「『カフェ・シンデレラ』?」

 リリィがお茶を口にしながら不思議そうにする。

 そんなリリィの様子に目を細めながらサンドリヨンは説明した。

「私の名前、サンドリヨンは私の国の名前でしょ? 綴りは “Cendrillon”、でもこれを王国の綴りに直すと”Cinderella”になって、読み方もシンデレラになるの。このお店は王国の中にあるから、ならば名前も王国風にしようかな、と思って」

「うーん、それは迷いますねえ」

 リリィは腕を組んだ。

「セントラルではお国の綴りの名前が流行っているんです。確かに『カフェ・シンデレラ』は王国風の響きですけど、隣国風の”Café Cendrillon”も捨てがたいかなあ……」

「ならば、なおさらカフェ・シンデレラにしましょう!」

 サンドリヨンは元気よく宣言した。

「私はここに骨を埋める覚悟なんです。だったら私は名前も王国風にしたいわ」

「じゃあ、決まりですね」

 リリィはにっこりと笑った。

「ええ。『カフェ・シンデレラ』。今日から開店準備よ!」


+ + +


 今日は思いのほかサンドリヨンのお店の購入に時間がかかってしまった。

(急いでご飯作らなくちゃ。時間がかからないメニュー……。ローストかしら?) 

 確かにローストならばすぐにできる。

 お店からの帰り道、リリィはサンドリヨンと一緒にお肉屋さんを覗いて鹿の腿肉を購入していた。鹿肉のローストなら三人で食べるのには十分だろう。

 鹿は野趣溢れる肉だ。少し臭みがあるが、上手に処理するとそれが病みつきになる。

 家に帰って身支度すると、リリィは鹿の腿肉を手際良く下ごしらえした。時間をかけて研いだよく切れるナイフで綺麗に掃除してからオーブンで狐色にローストにする。焼き上がったところで少しレスト(焼き上がった肉類を少しおいて置くと、肉汁が全体に回って出来上がりがジューシーになる)させてからスライスし、お皿に盛ったマッシュドポテトの上に。さらにサンドリヨンが作ってくれた少し辛いトマトソースをたっぷりと。

 でもこれだとなんだか色合い的に血塗れの肉みたいだったので、リリィは赤いソースにサワークリームを乗せ、さらに隣に茹でたグリーンピースを添えた。隣に粒のコーンも盛り付け、最後にパセリを飾って完成。

「さあ、こっちはできたわ。そっちはどう?」

 隣のカウンターから、スープとサラダを担当していたサンドリヨンがリリィに声をかける。

「こちらも出来上がりました」

 使い終わったシェフズナイフをナイフブロックに戻し、まな板を綺麗に洗う。

「じゃあ、お肉は保温のためにオーブンの一番上の段に入れておいてね」

「はい」

 火を弱めたオーブンの一番上の段にリリィは出来上がったお料理を慎重に並べた。

 あとはダベンポートの帰宅を待つだけだ。


………………

…………


 ダベンポートは七時頃に帰宅した。

「ただいま、リリィ」

「お帰りなさいませ、旦那様」

 すぐにリリィがダベンポートからインバネスコートを受け取り、ブラシをかける。

 自分の寝室で着替えてリビングに降りて来た時、ふとダベンポートは鼻を動かした。

「ふむ、今日はローストかい?」

「はい」

 テーブルセッティングをしながらリリィがダベンポートに答える。

「今日は鹿肉のロースト半島風です。ソースはサンドリヨンさんが作ってくれました」

「ほう、それはそれは」

 ダベンポートは席につきながら白いナプキンを膝に乗せた。

「それは楽しみだ」

「サラダをどうぞ」

 すぐにサンドリヨンが大きなボウルに盛られたグリーンサラダを持って現れる。

「庭で取れたハーブをたっぷり加えたハーブサラダです」

 サンドリヨンはサラダを三人分に取り分けた。

「これは隣国風で素敵な食卓だ。さて、では早速いただこうか」

 ダベンポートの宣言とともに夕食が始まった。

 サラダで始めて、次いでスープ、その後に鹿肉のロースト。

 三人は大いに食べ、そして語らった。

「で、首尾はどうだったんだい?」

「はい、それはもう。とんとん拍子に話が決まりましたわ」

「サンドリヨンさんが現金で買うってお金を積み上げたので、庶務課の方もびっくりなさっていました。お金がまるで山みたいでしたもの!」

「ふーん、なんとなく不愉快だが、あの爺様の遺言じゃあしょうがないかも知れんなあ。何しろ偏屈だったからねえ」

「サンドリヨンさんのお買いになったお店は本当に素敵なんです」

 リリィが身振りを交えてダベンポートに報告する。

「知っているよ、リリィ。僕もよく行ったんだ、あのお店は。確かにあの店は洒落ている」

「え? そうなんですか?」

「ああ、まだあの爺様が健在だった頃にね。僕はまだ学生だったな」

「明日から開店準備をしなければなりません」

 とサンドリヨン。

「まずはメニューを決めないと」

「なるほど」

 パンをちぎりながらダベンポートが頷く。

「ビールのポンプも五本ありますから、これをどうするかも考えないと……」

「それは大変そうだねえ。ビールを作るのか。僕もレシピを探してみるよ」

 その後もわいわいと相談しているサンドリヨンとリリィを眺めながら、ダベンポートは上の空で違うことを考えていた。

(そうか、やっとあのパブが再開するのか。これは一つ、ぜひフィッシュアンドチップスを作ってもらわないとな。確か、あの店には大きなフライヤーがあったはずだ。ふむ、フィッシュアンドチップスならハリバット(オヒョウ)がいいな。そういえばセントラルの店のフィッシュアンドチップスはうまかった。なんとかしてあのレシピを盗めないものか……)

 今、リリィとサンドリヨンはお店で出すメニューについて話し合っている。

「メニューはやっぱりおつまみが多めの方がいいんでしょうか?」

「なんやかんや言ってもパブですから、五品くらいは欲しいかしら」

「そうですよねえ。でも五品となるとちょっと大変かも」

「だとしたら保存が効くものを作り置きしておくのかしらね……」

 サンドリヨンが腕を組む。

(……ふーん、五品も常備するつもりなのか。これは毎回違うものが楽しめそうだ)

 今では徐々に熱を帯びていくサンドリヨンとリリィの議論からダベンポートは完全に弾き出されていた。

だが、ダベンポートは特に気にしてはいなかった。ダベンポートとしては家の近くにうまい料理を出す店ができるだけで十分だ。

「旦那様はどう思います?」

 と、何かを勘違いしたのか、リリィはダベンポートに話を振った。

 そんなことを聞かれたところでダベンポートに大した考えがあるわけがない。

 だが、それでもダベンポートはリリィの気分を害さないようにと当たり障りのない意見を述べた。

「要するにパブなんだろ? 僕だったらフィッシュアンドチップスがあれば十分だ。バンガーアンドマッシュ(黒くなるまで良く焼いたソーセージとマッシュポテトにグレービーソースをかけたもの)やシェファードパイもいいな。あとはナッツのたぐいかねえ」

「ナッツ類なら確かに保存は簡単そう」

 リリィが頷く。

 と、何かに気づいたようにサンドリヨンが手を打った。

「あ、ピクルス! ピクルスを忘れていましたわ。発酵ピクルスを作りましょう」

 ふむ、確かにピクルスは良い考えだ。ピクルスはフィッシュアンドチップスの皿には付き物だからな。

「まあ、そっちは任せるよ。お店の開店予定が決まったら教えてくれたまえ。お邪魔するから」

 ダベンポートはそう告げると、残りの鹿肉のローストにとりかかった。


+ + +


 翌日から、サンドリヨンとリリィは家事の合間の時間を使って開店計画を立て始めた。

 開店資金は十分すぎるほどあった。サンドリヨンが本国の銀行から届けさせた現金はお店を半年は十分に回せるくらいの額だ。

 今日二人は足りない調理器具を調達するためにセントラルの百貨店(デパート)を訪れていた。

お金に糸目をつける必要はないというサンドリヨンの指示を愚直に守り、リリィが調理器具を厳選する。

 スープストックをたぎらせておくための銅の大きな鍋、フライヤー、鋼鉄製の大きなシェフズナイフ(これだけはサンドリヨンが強硬に主張するので、隣国の有名なメーカーのものにした)、その他各種ナイフ、大きなカエデ材のまな板、フライパン各種、調理用ブラシ、お鍋、レードル、スープ、漉し器(ストレイナー)、おろし器(グレーター)、調理用のザル大小三セット、それにフライ返しや調理用スプーン、ブラシなど。


 二人はフロアを駆け回って買うものを集めると、それを全部カウンターの上に乗せた。

 小山になった買い物に店員が目を丸くする。

「じゃあここに配達してね、坊や」

 サンドリヨンはハンドバッグから取り出した紙片に住所を認めると店員に配送を依頼した。


 約束通りの期日に百貨店からの荷物が百貨店の馬車に乗せられて『カフェ・シンデレラ』に到着した。

 さっそくサンドリヨンとリリィが荷をほどき、中の食器を全て重曹のペーストで洗い直す。このペーストはサンドリヨンの秘伝の品なのだが、実に汚れが良く取れる。

 それが終わったら二人は重たい鍋類をカウンタートップのフックに綺麗にぶら下げた。大きいものから順番にだんだんと小さくなるように。

 カウンターに銅の鍋が並び、調理用品を納めるべき場所に収納したところでようやく二人は少し休憩することにした。

「……壮観ねえ」

 ため息混じりにサンドリヨンが呟く。

「とりあえずお茶でも淹れましょうか?」

 リリィはキッチンに入ると、お店用に仕入れたお茶を淹れ始めた。

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