6/15 リアリズム手法に関して、暫定的な考え方

 書けるときは書けるし、書けぬときは書けぬ。書かれるべきものは自然と発露するものであり、ボードレールが言ったように向こうからやってくるものである。手先の、よくできた人工物としての材料があったとて、やはり煮詰まっていないものはそれなりの味にしかならぬ。さりとて、よい年にもなってひと昔前への憧憬ばかり眺めていても、腐っていることがしばしば、ある。無論、適切な保存をしておけば発酵にもなろうが、たいていの場合、あの時代と言い出したころには手遅れである。


 小説の中に厳密なリアリズム演劇の手法を取り込もうとする動きが、気づいた時には多数派を占めていて、しかし用いるほうはその意味を理解していない。チェーホフは単に」誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない」と述べたにすぎず、それをあらゆる事象へ転用するというのは拡大解釈も甚だしい。そもスタニスラフスキーの立場にとってみれば、それは主要な見方で、もっとも主体的であろうが、チェーホフの脚本は自然主義戯曲である。

 現代のリアリズム的作劇は意味論に囚われすぎ、割に社会性を伴ったテーマは見失っている。(ここで言うテーマは題材のことではない。念の為)テクニック論として喧伝されるものがほとんどすべて資本主義に資するものとなっていることに、懸念と落胆を覚える。

 また、現代のリアリズムというべきものは、本来複雑な問題について、例えば三角関数と積分が絡んだような問いがあったときに、計算の一部を抜き出して、これは四則演算の範囲でしかない、というもので、あまりにも嘘くさい。切り取るにしてももう少し範囲というものがあるだろう、というのが今の考え方である――そのうえで、じゃあどうしてライトノベルやジャンル小説をやったのですか、と訊かれれば、自分が賞を獲る前には楽しみの中にも自由があっただろうし、実現できるという幻想を抱いていたのだ、ということがあり、そこからは年を重ねて、現実を現実のままに見ることの重要さが増したのであろう。

 

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