5/11 散歩と何らかの思案

 空気が冷ややかになるころ、外に出る。街灯がちろちろと光り、窓が橙や白に色づき始めていた。住宅街をずっと歩いて、鉄塔が現れ、田んぼに行き当たる。このころは蛙のうるさい季節だ。ただ声はすれど姿が見えぬ。農道に入ればまずこのあたりにいると目を凝らしてみるが、暗さもあって捕まえられない。見えぬところでも元気でやっていてくれればいいな、などと、合唱に送られながらふらふらと歩き出す。『かえるのうた』の輪唱は、まったく、よくもこれを表現したものだなぁ、などと連想する。


 小説と散歩は≒ぐらいの関係でいる気がする。今日の散歩がコンビニへ飯を買いに行くというように、ある程度の目的はあるだろうが、本質は道中である。右へ行こうが左へ行こうが構わないし、遠回りにも面白みはある。そういう点からすれば、極度にことばを絞り込もうとする思想は、少なくともそれを最上や絶対とすることは、旨味を削いでいるのかもしれん、などと思案する。ある程度の手任せ、足任せである自然さが味や適切な差異に見えてくるのかもしれない。もっと言えば目的地もなくてよい。読み手をある地点に降ろし、ふらっと歩かせて、ぽん、と切れてもよろしい。そういう意味では、以前雑記内で紹介させていただいた古川真人さんの『シャンシャンパナ案内』はまさしくある形の美しさをもって君臨しているわけで、改めて嘆息を漏らす。

 とはいえ自然の美しさというものがまったくの原生林でないように、ある程度の手を入れてやらねばいかんということも、間違いないことだ。少なくとも小説の形式をとった、と自分自身で考えているのなら。塩梅である。蓋し人工的にすぎると製品となる。どこに立っているかよく考えねばな、などとつぶやきながら煙を吐いた。

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