11/26 『享年十九』感想

『享年十九』(奥野紗世子)文學界11月号について。

今回に関しては特に上手くまとめられなかったので、ダルければ最初と最後のパラグラフだけ読んで欲しい。あるいは読まなくてもよい。奥野作品を読んでくれればそれでいい。


 物語は54歳のアーティスト・猪狩務が停滞から動き出すことではじまる。基本的にクズな彼を見つめる3人の女について、という小説だ。デビューからほぼ一貫して“女性の連帯”について触れてきた奥野さんらしさは今作も健在である。

 人物についてだが、僕の友人に様々な仕事をするアーティストがいることもあって、実在感/それでいてキャラクター性は逃さないバランスや音楽に関する造詣の深さに驚かされる。特にノルウェーのブラックアンビエントの件は笑った。

 総じて楽しく読み、しかし常に斬りつけてくるようなひりつきを、覚えた。 

 

 奥野さんの小説は、独特のドライブ感ある文章ときめ細やかな観察眼で、僕は勝手にドライブ感のあるディケンズみたいだ、などと思っているのだが、特に初期の『逃げ水は街の血潮』、『復讐する相手がいない』にその傾向が見られるように思う。またこの2作に関してはエンタメ性も相当部分包含しており、読者へのサービス精神を感じるのだが、ここ最近、特に本作ではエンタメ部分、つまり“キャッチー”さへの嫌悪と親近感の両方を覚えている。出物は嫌いじゃないが業界構造や精神性には違和感を覚える、というあたりだろうか。


 具体的に中身の話をしよう。

 福本さん→猪狩への視線は、むしろ作者から読者、もっと言えばオタクたちへの「見ているぞ」という圧力を含んでいるように思えた(ある程度恋人関係という設定でコーティングしてあるが)。twitterというガジェット、あえて石垣まいに二次創作と語らせた面、終盤の“彼女(仲田)は僕を透過して、後ろの壁を見つめていたかもしれない”、なにより、歪んだメガネというガジェットの取り扱い。

 特筆すべきは“震えて眠れよ、ロリコン”という強烈な一文――この文章に関しては、急に生々しい人の口から飛び出したような気配を覚えた――だろう。


 しかしながら、僕はこれらを仔細に分析することを好まない。むしろ散りばめられた気配は石垣まい→瀬戸への態度と相まって、この小説全体があらゆる批評を拒んでいるような気がする。時代・舞台設定が今・ここである以上、ごく自然に総体を受け止めろという思想のほうが、分析して見える表層より重たく感じられたのだ。“分析はほどほどに控えたつもりでも多少の解体を招く。解体には、文体はない。文体のないところには達意はない”という、古井由吉先生が書かれたくだりが、思い返される。しかるに僕も“わかりやすい”感想を書くべきではないだろう。読んで感じて欲しい。


 とはいえ僕の読みがズレているしれないし、このままで終わるには尻の置きどころが悪い。無難にまとめるとすれば、“お前らの話なんだぞ”と突きつける圧力に唸り、痛みへの理解を感じて読むことができた。このあたりが、性別の違う僕の、読みの限界になるのかもしれない。

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