10/9 創作と現実について

とある漫画を読んでいて、左逆袈裟から袈裟斬りをするシーンがあったのだが、剣尖が落ちていて気になったことがあった。多少なりと居合の心得がある身であるばかり、こういういらぬ部分に引っかかりを覚えてしまったりする。

 絵面としては、刀身と顔が重なってしまってはどうも見づらいだろうし、当然顔を見せなければ締まらない、というのはわかる。

 実はドラマでも同じようなことを感じて、2022年に放送された『DCU』という作品なのだけれども、横浜流星さんが殺陣をやっているシーンである。ガードが明らかに顎より下に落ちているほか、正面をかなり大きめに開けているのだが、これもまた絵面の問題である。無論極真の初段を取ろう、しかも空手に心血を注いでいる人間がそれほど甘い構えをするわけではないだろうから、僕にとってはかえって不自然に映ってしまったのだが、ほとんどの視聴者は違和感を覚えなかったに違いない。


 絵面や面白さのために整合性を無視するということが、どこまで許されるのか。自然主義を成立させるために必要なひとつのファクターではある。一方で劇場という空間/小説という文字列/漫画という体験に持ち込んでいる時点で、外観的にはすでに創作であることを許容されているともみえる。

 没入感を削がない程度に、その度合いの問題である、というのもひとつ解答としてはありうるだろう。一方で、没入しなければ/させなければならないのか、果たしてあなたは今・ここを感じているのか、また書き手としては没入させてしまうことで、語られた「語るべきこと」を見過ごされるのではないか、という危険性も孕む。


 ここから鑑みるに、語るべきことについて資するのであれば善し、とする考え方もあろうかと思う――というより、小説そのものが語るべきことの婢と考えると、すべてをそちらへ集約させていくという見方を取ることがリアリズム構成的な美である。もっとも、リアリズム絶対主義に近い現代的な読まれ方に対抗するため、あえて違和の要素を取り入れていく、というやり方もあるだろう。


 こうしてみると、書かれることについて、外から判別できるルールなどないように見える。ただ語られるのを待つ精神性があり、ことばがあり、物語があるにすぎない。問題は精神性の部分について理解せずに筆を走らせたり、僕のように沈思黙考して、考えを洗練する時間がないということである。なんとも。


 

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