9/10 考えをまとめるための日記

 小学生のころから高校を卒業するまで、12年ばかり野球を真っ当にやっていると、人のプレイを見ても自分のプレイでも、何かしらを直観する。投手としてはある程度の狙い球やコースは読めるし、この打者はここにツボがあるな、というのもわかる。経験則、というよりはそれ以上の何かに思える。

 例えばボルトと叩いてみて中の状態がかなり的確にわかる人もいるだろうし、格闘技なら構えただけでどこを動かそうとしているか読み取れる人もいる。便宜上こういった職人的な感覚を手触りと呼ぶこととする。


 小説は書き始めてから約7年、まだそれらしいものを獲得したとはいえない。無論ある程度の方法論は理解しているから賞を取ったりいくつかのモノを出したりしたわけだけれど、手触りとはそういった表層テクニックの次元ではない。もっと複雑で、白か黒かに分けられないものだ。内的な思索を深める必要がありそうだが、いかんせん仕事をしている身では直接生産しない時間を獲得するのは難しい。そういったところが重要なことはわかっているのだが。

 一方でコンディショニングは理解しはじめた気もする。不思議とものになっているか勝負できる可能性を有する小説を書いたのはすべて9月~2月の間で、言ってみれば秋冬型らしい。今年も短編を一本書いたぐらいで、あとは企画書を作ったり本業が忙しかったりでなまなまと過ごしていたのだが、振り返ってみればよく書いていたときもそのようなものだった。

 賞を獲る少し前は3ヶ月に1本長編を書いていたが、春夏はどう頑張っても無理やり形にした、というものしか出来ていなかった。やはり溜める時間がある程度必要なのだ。よしテクニックで仕上げたとしても、読者へ手触りを感じさせる領域にはなるまい。


 手触りの話へ返ろう。価値観が転倒し混迷を極める世界で、単純で明確な回答が喜ばれる、というのは傾向としてみえるように感じる。ぼくは、それを欺瞞だと感じている。直感として。事実そうではないのだから。

 しかし書く/描くときにはある程度スリムにしなければいけない。素描だとしても、起こっていることすべて、感覚していることすべてが描かれるわけではない。畢竟省き方なのだろう。そのあたりの適切なラインを引くこと、これは現代社会で、商業的にやる上で難しいことだが、ちょうどよい手触りを獲得できるかもしれない。それにはやはり白球を投げた日々のように、心にものさしを設けながら、本に触れ、書き、現実とよく親しむことが大切になるだろう。

 


追記:重ねて言っておくことだが、リアリズム演劇の手法を絶対とするような、方法論で片付けられる話ではない。それはもっと初歩的な話だ。それを金科玉条として語られるのはあまりにも馬鹿馬鹿しい。

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