カタシロReflect(9/3 20時分)の感想

 9/3。夜、カタシロReflectなるものを観た。同シナリオは初見である。3DによるVtuberの配信であった。

 もともとよく観劇に行ったり大学では芝居を手伝わせてもらったりなどして勘があるほうだと思う。やや分析的になり、作家の目線もあることで頻繁に感動したり納得するわけではない。そのうえで、心を打たれた、ということで乱文ながら備忘としてこれを記そうと思う。


 カタシロは相当程度のアドリブ芝居だけあって、そもそもホンとしては強く固まっておらず、当然ガチガチのリアリズム的なテクニックや表現主義の鮮烈さがあるわけではない。つまりホンの美的な部分で上乗せがない。さらにはフレンさんは特段芝居らしい芝居をしているわけではなく、3Dであることによって表情の幅も狭まっている。

 にもかかわらず心を打つのはなぜか。


 僕個人の分析としては、感想配信(メンバー限定)でも言われていたが、患者役のフレンさんが物語に入り込み、我が事として捉えていた、という点が非常に大きかったのではないか、と感じている。物語というよりは目の前に起こっていることへの真摯さだ。

 これは理解しているようでなかなかできることではない。先の述べたように、作家や役者はどうしても第三者的な、「どういった行動をすればどう見えるのか」「どう見せるか」という点に注力しがちだし、構造論を理解しているとそのバランス調整に拘泥してしまう。

 しかし物語の本質は「今、ここ」で何かが起きていて、それをあなたにも感じて欲しいということであって、役者/プレイヤー/著者の感情が動くか否かにかかわらず、たしかにこれは現実として発生している何か(多くの場合は問題)だ、と直観する、させなければならないのだ。

 上に「芝居らしい芝居をしていない」と書いたが、(念のため申し添えておくと、健夜さんと周防さんは場のコントロールにせよ語調にせよ手慣れていた。主張しすぎないフォローは簡単ではないが、それをたやすくこなしていたのは手練である)それもまたポイントである。役者の感性が――つまり技術よりも先に――生に立ち現れる。そういった意味では、役者自身の人間性も特筆すべきものだった。真摯に捉えることで善性が見え、善性は真摯さを具現化させる。惹きつける人となりは、芝居全体を通じて魅力的なものとする。すべてが噛み合った瞬間、芝居以上の芝居として顕現する。


 僕が学んだことは、ひとつには善性たるべき、こういう考え方を持つようでありたいということだ。それからもうひとつ、芝居については「もはや脚本ではない」と信じてひたむきに向き合うこと。僕らがどれだけ信じるか。斜に構えたり妙なシニカルさを持ったり、下手なルサンチマンは不要だ。こうまとめると、何だかニーチェを想起させる気がする。

 技術はあるに越したことはないけれど、やはり表現するという行為はコミュニケーションなのだ。心的な接触で、そのために表現する者はすべてを差し出さねばならない。こういったことを思い出させてくれた芝居は、見る価値があった、と言えるものだろう。

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