カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」について

備忘として。


現在としてのイギリス・過去としての長崎を行き来する。

リアリズム的という評論もあるが、戯曲上の文言として捉えたり、作家の思想としては自然主義的な側面が強いのではないか。ゴードン・ファレルによるひとつの基準としてのアクション・ストラクチャという面から勘案すれば、決定的な対立構造と解決が提示されるわけではないし、すべてが変化する瞬間へ向かって組み立てられているという条件で読まれたとすれば必然性のない、あるいは難解なシーンが増えてしまう。むしろ流れに抗うことのできないという側面を強さを鑑みるに、自然主義的構造の読みが要求されているのではないかと思われる。もっとも、リアリズムという文言が幻想文学と対をなす意味で用いられているのであれば別だが。


訳者は緒方や佐知子母子を旧い価値観の犠牲者と捉えているが、添えられているのは感傷と憧憬にも思える。例示すれば。、緒方の息子や松田に対する目線にそれが伺えた。微笑んでいる、そのシーンに薄暗さはあれど、犠牲者という文言以上のものを包含しているのではないか。

僕は彼らの相克の中に、背中を、我々の振り返ってみることの手助けを見た。いや、手助けというよりは著者の穏やかな視線である。見ろ、とは言わないし、同時に必要性も説かない。ただイシグロは彼が5歳まで過ごし今や遠くなった長崎を見ているにすぎないが、しかしそれは我々を自然と振り向かせる筆致であり、私個人ではなく私の血にまで還るアイデンティティに目を向けさせる。その来歴が、かつて道理が通っていないと思った佐知子の人生に似たそれを悦子が通ることで、またコーダ的な不条理さ/自然主義的な観が立ち現れてくるように読んだ。だからこそ、今/昔と時を跨ぐ構造が必然であったのではないかと考える。

無論、女性の自立という一層敷かれたテーマはニキによって達成され、その道筋という見方もあろう。しかしニキはロンドンでの生活を具体的には示さない。それは確かに訳者の述べられた通りの薄暗さであるし、すなわち佐知子→悦子→ニキへと連なる環を意識させるようになっているのではないか。その不条理の影響を強く受けた万里子、景子の後に、ニキもまた同じ誰かを生むのではないか、そういうにおいもまた、香り立つような気もする。

一方で、これを断言してしまうのも早計だ。悦子は佐知子ではないし、藤原さんという前を向く人物を象徴的に描いている点から見ても、ニキが辿るこの先は霧で――わかりやすく霧雨のシーンも提示される――未知数にすぎない。しかしどちらにも転がっていくであろう香りを明確に残していることこそが、物語/テーマと思索を読み手へ返し、帰結させているように感じられた。

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