第三章 軍師ふたり

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 オルベ川の氾濫はんらんが、グランゼス、バーナームの両軍をき立てるように動かした。

 両軍とも敵後背こうはいへの奇襲を断念させられた以上、正面からぶつかることを想定して、相手より少しでも有利な位置をめようと動きはじめたのである。

 たがいに偵察ていさつ騎兵を大量に放って位置を捕捉ほそくしつつ両軍がめざしたのは、ドルト・ルアと呼ばれる丘だった。この丘を占拠せんきょできれば敵を眼下がんか一望いちぼうでき、勝利を決定づける重装じゅうそう騎兵の突撃も丘の斜面をかけおりることで威力を増せるからだ。

 ところが、両軍の思惑おもわくと努力は水泡すいほうした。相手にさきんじて丘の上を陣どる前にふもとで遭遇そうぐうしてしまったのである。

 敵の眼前がんぜんで丘を登り陣地を設営せつえいするのは極めて困難と判断した両軍は、やむなく、ふもとの平野での決戦を決意し、あわただしく陣形を整えた。

「とはいえ、戦いのカギをにぎるのはやはりこの丘でしょう」

 フィオラが本営ほんえい天幕てんまくで、レイタスは机上きじょうの地図に馬用のむちをあてながら作戦をいていた。

「この丘を敵に奪取だっしゅされれば、我が軍の不利はまぬかれません」

「ならば全力でとりにいくまでだ」

 美しくもあやしい不敵ふてきな笑みを顔にまとったフィオラの宣言に、副官のルーニをはじめ各部隊をあずかる騎士たちが一斉いっせいに「おう!」といさましくえた。

「と、敵も大いに勇んでいることでしょう」

 レイタスは、そっけない口ぶりでフィオラたちの勇み足に注意をうながす。

「丘の奪取にばかり気をとられて、くれぐれも他の戦線をおろそかになさいませんように」

「軍師どののご懸念けねんはもっともなれど──」

 ルーニが不服そうに、同じ表情をつくっている他の騎士たちを代表して口をひらいた。

「あの丘を敵にうばわれるようなことがあってはならぬと、そうおっしゃったのは貴殿きでんではありませんか」

 ルーニや騎士たちは、ひょっこり現れてフィオラの幕僚ばくりょうにおさまったレイタスにいい感情をいだいていない。あくまでもフィオラの意向いこう尊重そんちょうして礼をつくしているにすぎず、本心ではいくさの「い」の字も知らぬような若造に戦術を講釈こうしゃくされたくはないのだろう。

 そういった彼らの心理はレイタスも敏感びんかんさっしてはいたが、遠慮して無言をつらぬきとおしていてはそれこそみずからの存在意義を否定することになるので、あえてフィオラのを借りて強気な態度でのぞむことにしていた。

「たしかにそのとおりだ、ルーニどの。しかし、裏をかえせば、敵に丘をうばわれさえしなければそれでいいのだ」

「・・・・・・・・・」

 ルーニはレイタスの言わんとしていることが理解できないらしく、刀傷かたなきずを走らせた左のほおを苦々しくゆがませてますます表情をくもらせた。

「レイタス」

 フィオラが、副官のムスッとした仏頂面ぶっちょうづらをおかしそうにながめながら助け船をだしてきた。

「我らは、おまえたち使徒のごとく迂遠うえんな問答になれておらぬ。要点をかいつまんで話せ」

「かしこまりました」

 レイタスは赤髪の女将軍にむきなおり、丁寧に解説した。

「たしかに、丘を敵にあたえることは許されません。ですから、敵が丘を奪取しようと企図きとする行動は全力でこれを阻止そしします。が、多大な犠牲を払ってまで丘そのものを奪う必要はありません。それよりも他の方面に戦力をくのが得策とくさくでしょう」

「なるほど。敵の目が丘にくぎづけとなっているすきに、というわけか」

 フィオラの見解に、レイタスは「我が意を得たり」と言わんばかりに力強くうなずいた。

「で、具体的にはどうたたく」

 フィオラからわれると、レイタスは肩ごしに弟子をかえりみた。

「セルネア。閣下にご説明申しあげよ」

「はい!」

 レイタスといれかわるようにして進みでた飴色あめいろの髪の少女に一同の視線がそそがれ、高くんだ彼女の声に一同の耳がかたむけられる。

「まずは、こちらをごらんください。これは、偵察隊からの報告にもとづいて作成した敵の布陣図で──」

 軍議ぐんぎがはじまり、それは一時間ほどつづいた。

 


 軍議をおえ、ルーニや騎士たちが気あいをみなぎらせた顔で天幕を退出していくなか、レイタスひとりがフィオラに呼びとめられた。

「傷の具合はどうだ」

「お気づかい、痛みいります」

 礼をのべつつ、レイタスは包帯が巻かれている胸に衣服の上から片手をあてた。

「ここ三、四日の行軍の間にだいぶよくなりました。少々、うずきはしますが、今では馬にも自力でまたがれます」

「そうか」

「ただ、全快ぜんかいとは言いがたく、前線でおともするには足手まといになる恐れがありますゆえ、閣下のおそばには弟子のセルネアをはべらせることにしました。作戦の委細いさいは言いふくめてありますので、どうかご信頼ください」

「それはかまわぬ。が、まだ正直に話す気にはならぬか?」

「なんのことでしょう」

 表情を無にしてレイタスが問いかえすと、フィオラはあきれたような微笑びしょうを口もとに浮かべた。

「たしかその傷は、ニアヘイムに私用でおもむいた際の道中で夜盗やとうにおそわれてのこと、だったな?」

「さようです」

「いささか納得しがたい説明ではないか? 用兵ようへいのみならず、古今東西ここんとうざいのあらゆる武術にも精通せいつうしている使徒が、たかが夜盗ごときに、背中ではなく、体の正面をられたと言うのか?」

「使徒も人です。油断もすればひるみもいたします。ましてや闇夜のなかとあっては、相手の攻撃を受け損じるという事態がどうしてもしょうじてまいります。いやはや、まったく面目めんぼくない話でございまして、はははは」

 レイタスがわざとらしく頭をかいて笑いだすやいなや、フィオラが流れるような素早い動作で抜剣ばっけんし、頭上からするどい一撃を見舞みまってきた。

 レイタスはとっさに笑みを消し、真顔まがおでその剣を左の手甲ガントレットで受けとめる。

 フィオラがニヤリと笑い、皮肉たっぷりの表情で小首こくびかしげた。

手負ておいの体でもみごとな身のこなし。たとえ闇夜のなかであっても正面の防御は鉄壁てっぺきのように思えるが?」

「・・・・・・・・・」

「まあ、よい」

 フィオラは剣をおさめ、攻撃の動作で乱れた赤い前髪を片手で無造作むぞうさにかきあげた。

「おまえほどの練達者れんたつしゃに、みごとな太刀たちをあびせた者の正体は気になるが、今は目の前の戦いに集中するとしよう。もうよい、さがれ」

「・・・・・・は」

 レイタスは背なかに冷たい汗が流れているのを感じながら一礼した。

 や汗は、嘘を見抜かれたからではない。先ほどの斬撃ざんげきが殺意をともなった本気であったことに心臓をこおりつかせているのだ。

(バレたら殺されるな・・・・・・)

 本気でそう思い、天幕の外で身震みぶるいする一方、真実を知った時のフィオラの悲嘆ひたんに暮れる姿を思うと心が寒々さむざむと震えるレイタスだった。

 彼女の愛する男が、彼女の敬愛けいあいする主君しゅくんを殺すためのさくをバーナームはくけんじていたのである。この二重の衝撃には、勇ましく男勝おとこまさりなフィオラでさえもえられるとは思えなかった。

 そのメルセリオが、今度は彼女を打ち負かすための策をっていると知ればなおさらであろう。平常心へいじょうしんはうしなわれ、戦いの指揮どころではなくなるはずだ。

 フィオラという女性が、心の耐性たいせいにとぼしい深窓しんそう令嬢れいじょうなどではないことをよく知っているレイタスも、メルセリオがバーナーム伯の軍師をつとめている事実をせておくことにはなんのためらいもなかった。

 それに、他人のことばかりを心配していられる身でもない。

(俺は、あの人に勝てるのだろうか・・・・・・)

 メルセリオと四年ぶりの再会を果たし、ほどなくして決別したあの日の夜以来、レイタスの胸中きょうちゅうにはえずこの不安が渦巻うずまいていた。

 ドルト・ルアの丘をめぐる陣どり合戦は、両軍とも丘に先着できなかったことから痛みわけといったところであろう。

 その丘は、バーナーム伯領とニアヘイムを結ぶ街道ぞいにあり、ニアヘイムをほっする者にとっても、それを守りたい者にとっても、見落とせない戦略上の要衝ようしょうであった。

 これをメルセリオが看過かんかするわけがなく、またレイタスも無視することができなかったことから夜に昼を強行軍きょうこうぐんをフィオラに要請したのである。

 その結果、丘を手にいれ損ねたものの敵にもその機会をあたえずにすんだのだから、まずは満足すべきところであった。

(だが、相手はあの人だ。こうなることもりこみずみにちがいない)

 レイタスが最も頭を悩ませているのは、このあとメルセリオがどのような策をめぐらせて丘を奪取しにくるのか、その一点だった。

 レイタスと同様、敵にうばわれなければそれでよい、と考えてくれているのなら、それほど楽なことはない。だが、メルセリオの為人ひととなりからいってそれはあり得なかった。

 弟子として、様々な場面で様々な人に策をけんじるメルセリオの背なかを見てきたレイタスは、あらゆる勝機しょうきに目を配り、見つけた勝機はどれひとつとしておろそかにしない彼の勝利への執念しゅうねんをよく知っている。

 弟子であったころは頼もしく、見習いたいと思っていたメルセリオのそんな性格が、敵となるとこれほど恐ろしく感じられるとは想像すらしていなかったことである。メルセリオという偉大な男を知りすぎているがゆえの恐怖心であった。

(くそッ、幻影にまどわされるな!)

 だが、そう念じれば念じるほど、自分のなかでかつての師の影が大きくふくらんでいくのを感じ、レイタスはますます苛立いらだった。

 こうなると、メルセリオがわざわざレイタスを呼びだして密会みっかいしたのも、自分の幻影をかつての弟子にえつけるための策略さくりゃくだったのではないかと思えてくる。

(だとしたら、俺はすっかりその術中じゅっちゅうにはまっている・・・・・・)

 やはり一枚も二枚もメルセリオが上手うわてであると認識させられ、レイタスは無意識のうちにうなだれていた。

 そんなレイタスの頭をもちあげたのは、不意に発せられた少女の非難ひなんがましい声だった。

「ちょっと! あたしを置いてどこ行くつもり?」

 レイタスが声のしたほうをふりむくと、そこには頬をプクッとふくらませたセルネアが腰に両手をあてて立っていた。

 見まわすと、あわただしく構築されつつある陣地をあと一歩で抜けだすところだった。思索しさくにのめりこみすぎたせいか、フィオラの天幕をでたあと自分がどこをどう歩いてきたのかも覚えていない。

「レイタス、だいじょうぶ?」

 レイタスがほうけたようにセルネアを見つめていると、彼女は心配するような表情で歩みよってきた。

(弟子を不安にさせるようでは、師匠、失格だな・・・・・・)

 そう自分をわらう一方で、セルネアの気づかいが素直にうれしくもある。だが、それをさとられまいとレイタスはそっぽをむいて憎まれ口をたたいた。

「おまえに心配されるくらいだ。大丈夫じゃないのかもな」

 いつもならこれで口喧嘩くちげんかになるところだが、セルネアはよりそうように肩をならべてきた。

「レイタスの、お師匠さんのこと?」

「・・・・・・・・・」

 レイタスの沈黙を肯定と受けとめたのか、セルネアがはげますように声を高くした。

「だいじょうぶ! レイタスならきっと勝てるよ」

「根拠もなく勝敗を語るな。いつもそう教えてるだろ」

「根拠なら、あるもん」

 ねたセルネアが口をとがらせてそっぽをむく。

 どうせ売り言葉に買い言葉だろうが、レイタスはからかい半分に問うた。

「ほお。では、その根拠とやらをきかせてもらおうか」

「レイタス、あたしに言ったじゃん。なにかを壊そうとする人間よりも、なにかを守ろうとする人間のほうが強いんだって」

 ニアヘイムを防衛する際、不安がるセルネアを勇気づけるために用いたレイタスの言葉であった。

「レイタスは、争いのない平和のために戦うんでしょ? でも、レイタスのお師匠さんはちがう。争いをたくさんおこそうとしてる。だったら、平和のために戦うレイタスが負けるわけないじゃん」

 セルネアのはげましが、レイタスにひとつの言葉を思いおこさせた。

 しゅこうまさる──。

 これは、弟子であったころのレイタスが、師メルセリオからかれた金言きんげんのひとつであった。平和を希求ききゅうし、争いを憎悪ぞうおしていた、かつてのメルセリオらしい思想の一部である。

 今も彼がその思想をいだきつづけているかどうかはさだかでない。が、もしすててしまったというのなら、弟子であった自分が受けぎ、実践じっせんしていかねばならない。

 そのことを、レイタスは自分の弟子に気づかされたように思った。それでも素直に感謝するのが照れくさく、レイタスの口はまたしても余計な憎まれ口をたたいた。

非論理的ひろんりてきな根拠だな。軍師としては失格だ」

「どーせ、あたしは世話の焼ける、どうしようもない弟子ですよーだッ」

 それは、メルセリオとの密会でレイタスがセルネアをひょうして言った台詞せりふだった。彼女はそれをにもっているようだが、そのあとにつづけた台詞を忘れてもらっては困る。

「のみこみが早く、将来が楽しみだ、とも言ったはずだぞ」

「え?」

「おまえの言ったこと、非論理的だが、使徒として勝利を信じるにはじゅうぶんな根拠だ。をもって招来しょうらいす。この、我ら使徒の本懐ほんかいを思いださせてくれたな。礼を言う」

「レイタス・・・・・・」

 感謝されるとは思っていなかったのか、感動ぎみに青い瞳をゆらしているセルネアに、レイタスは力強くうなずいてみせた。

 完全に吹っきれたわけでも、不安が解消されたわけでもない。が、自分をはげまそうとしてくれている弟子の前で、これ以上、子供のようにひねくれているわけにはいかなかった。

(あの人に教わったことのすべてを、あの人にたたきつけてやるまでさ)

 手甲ガントレットに守れた拳を見つめながら自分をふるい立たせたあと、レイタスは師として弟子に、決戦を目前もくぜんにした最後の助言をあたえた。

「いいか、セルネア。前線ではフィオラをうまくぎょせよ。彼女は悍馬かんばていてな。いざ戦いとなれば視野がせばまり周りが見えなくなりがちだ。必要と判断したなら、彼女の赤い髪を引っぱってでも退却させるんだ。いいな」

「うん、わかった」

「それと──」

 さりげなく視線をそらして言葉をつけ足す。

「それと、おまえも、その・・・・・・気をつけろよ」

「ん? あれあれ? それって、もしかして心配してくれてるの~?」

「お、おまえに死なれちゃ、おまえの教育についやしてきた今までの時間が無駄になるからな」

 もっともらしく弁解べんかいするレイタスだったが、その胸中は弟子に見すかされているようであった。

「んも~、素直じゃないんだから。でも──」

 そっぽをむいているレイタスのほおに、セルネアが背のびをして軽くくちびるをおしあててきた。

「心配してくれてありがと」

 完全なる不意打ちに、さしものレイタスも唖然あぜんとして立ちすくむ。

 そんな師を置いて、弟子はなんでもない様子でスタスタと歩みさっていった。



 つるぎの時代の第六紀二九七年、四月二六日──。

 両軍はニアヘイムの北東、ドルト・ルアの丘から東へ約一キロの平野で布陣を完了し、戦機せんきじゅくすのをにらみあって待った。

 その日の夜、決戦を前にして興奮した頭を夜風で冷やそうとやぐらに登ったレイタスは、闇夜のなかでチロチロとまたたいている敵陣の篝火かがりびに違和感を覚え、眉根まゆねをよせた。

「少なすぎる・・・・・・」

 複数の偵察ていさつ騎兵からの報告にもとづいてレイタスが導きだしたバーナーム軍の兵力は、歩騎ほきあわせて三万弱。その規模の軍隊が野営やえいしているにしては、遠見とおみつつのむこうで燃えさかっている篝火の数が少なく思えるのだった。

(まさか・・・・・・)

 ふと思いあたることがあり、レイタスはそれを確認するため櫓をおりるとフィオラの天幕てんまくけこんだ。

 天幕のとばいいきおいよくはねあげ、何事なにごとかという表情のフィオラやルーニをよそに机まで駆けよって、机上きじょうの地図にジッと目をらす。

 そして、いやな予感が的中したことを知ってレイタスは思わず舌打ちした。

「しまったッ・・・・・・」

「どうした、レイタス。まるで亡者もうじゃのように顔色が青──」

閣下かっかッ、敵は兵を二手ふたてに分けました!」

 主君しゅくんの声をさえぎってレイタスはきゅうを告げた。怪訝けげんな顔つきで歩みよってきたフィオラとルーニに、地図をし示しながら早口はやくちに説明する。

「敵は夜陰やいんにまぎれて別働隊べつどうたいを西進させ、その別働隊は今ごろ丘の西方を迂回うかいしているものと思われます。明朝みょうちょうには我が軍の背後に現れましょう。時を同じくして敵本隊が正面から決戦をいどみ、我が軍を前後から挟撃きょうげきするのがそのねらいです」

「なぜ敵が兵を二分にぶんしたとわかる? 偵察隊からそのような報告はなかったが?」

 ルーニの疑問に、レイタスは敵陣の篝火の数が少なすぎる事実を告げた。数が少ないのは、敵が別働隊を編制へんせいして出発させたからである。兵士の数が減れば、おのずとかれる篝火も数が減るという理屈であった。

 古来こらい、夜に焚かれる篝火や炊煙すいえんの数から敵の規模を推測するのは常道じょうどうである。

 その常道にのっとって敵の奇襲を事前に察知したレイタスの慧眼けいがんに、フィオラとルーニはたがいに顔を見あわせて感じいったようにうなずきあった。

「で、こちらはどうでる」

 フィオラからするどい視線をそそがれたレイタスは、腕を組んで地図をにらみながら黙考もっこうした。

(さすがはあの人だ。丘を隠れみのにして奇襲と挟撃きょうげきを同時にくわだてるとは・・・・・・それにしても危なかった。篝火の数に気づかなかったら、明日の今ごろはここにしかばねをさらしていただろう。だが気づいた以上、あの人の思うようにはさせない。先手をうたれてしまったが、今ならまだ挽回ばんかいできる!)

 やがて、思索しさくで得られた結論をレイタスは言葉にかえた。

「敵が兵を二分したのにじょうじて、我が方はそれらを各個に撃破しましょう。今なら正面の敵本隊とは彼我ひがの兵力が逆転し、こちらが有利。夜明けとともに急襲きゅうしゅうして正面の敵本隊を殲滅せんめつし、かえすかたなで、なにも知らず戦場にのこのこと現れる背後の別働隊をたたくのです」

 レイタスのこの案は採用され、即座に出陣の準備が整えられた。



 翌、四月二七日、未明みめい──。

 まだがのぼりきらぬ薄暗闇うすくらやみのなか、フィオラを先頭にグランゼス軍の精鋭せいえいおよそ八〇〇〇のそう騎兵が、そろりそろりと静かにバーナーム軍の陣地をめざしていた。

 彼らの乗馬の口には布がおしこまれている。馬のいななきで自分たちの接近が敵に気づかれることを防ぐための処置である。

 あたり一帯は、この地に特有の朝霧あさぎりにおおわれていた。奇襲をもくろむグランゼス軍にとって、このきりは敵の目から自分たちの姿をくらましてくれる天の恵みだった。

 霧のなかで針路しんろを見うしなう心配はない。ようやくのぼりはじめたおぼろげな太陽を右手にとらえている限り、北に布陣しているバーナーム軍をめざしているフィオラたちはまっすぐ前を見すえていればよかった。

 さらにしばらくすると風が吹きはじめた。この風も、この地ならではの気象現象であった。ニアヘイムの南方から吹きつけてくる海風である。それが霧をゆっくりと吹き払っていった。

 フィオラはいったん進軍をとめ、各々の乗馬の口から布をとりのぞかせ、突撃開始の合図を待つよう命じた。

 海風が霧のすべてを吹き払ったあと、目の前には惰眠だみんをむさぼっているバーナーム軍の陣地があるはず。あとはそこへ目がけて一気に突撃し、一方的に相手を踏みにじってせるだけだった。それで勝利が確定する。

 フィオラは自信をみなぎらせた黒い瞳を、となりで緊張した様子の少女にふりむけた。

「こわいか、セルネア」

 本格的な野戦やせんはこれが初めてだというセルネアは、手綱たづなを何度もにぎりなおしながら白亜はくあ色のフードの奥でうなずいた。

「こわいです」

 正直な返答にフィオラは思わず微笑ほほえんだ。

「その恐怖をじることはない。恐怖が生む緊張こそが、おまえの五感をましてくれる。あとは本能にゆだねよ。そうすれば、レイタスにたたきこまれた武芸がおまえに勝利と栄誉えいよをもたらしてくれよう」

「いいえ、閣下かっか。あたしがこわいのは、これから自分の手でおおぜいの人を殺さなくてはならないからです」

 意外な返答を得て、フィオラは小首こくびかしげた。

「では、なぜ戦場に立つ」

「それは・・・・・・だれかに夢をたくしているだけじゃ、自分の夢は絶対に実現しないから・・・・・・かな」

「なにやら小難こむずかしい理屈だな。さすがは使徒の弟子と言ったところか」

 フィオラは笑った。が、それはセルネアをあざけってのことではなく、戦場に立つ理由は人それぞれにこうもちがうものかと感心してのことである。

 フィオラが戦場に立つ理由はもっと単純だった。

 勝利と名誉めいよ。それらを求めてひたすら戦場をかけ抜けてきた。

 敬愛けいあいしていた主君しゅくんの死を知った時は、もう二度とそれらを求めることはかなわないのかと絶望したものだが、今、ふたたびフィオラの体はこうして戦場にある。そのことに感謝し、生きていることを強く実感していた。

 五年前に最愛さいあいの人にさられて以来、戦場こそがフィオラの心のりどころであるのだ。

「閣下、そろそろ合図あいずを」

 セルネアとは反対側に馬をならべていた副官のルーニがそううながしてきた。

 前を見れば、いよいよ霧が晴れつつあった。彼方かなたには、うっすらとバーナーム軍陣地のやぐららしきものが見える。

 フィオラは肩ごしに軍楽ぐんがく兵と旗手きしゅかえりみて、力強くうなずいた。

 それが突撃の合図だった。角笛つのぶえ朗々ろうろうと吹き鳴らされ、軍旗ぐんきわれたカワセミが海風になびいて雄々おおしくちゅうを舞う。

えあるグランゼスの騎士らよッ、わたしにつづけえェェェェ!」

 フィオラの拍車はくしゃ馬腹ばふくり、エリンデールから下賜かしされた彼女の愛馬が高くいなないて大地を疾走しっそうする。

 グランゼス軍八〇〇〇の総騎兵がバーナーム軍めがけて一斉いっせい雪崩なだれうち、朝駆あさがけをしかけた。八〇〇〇もの躍動やくどうする人馬じんばによって巻きあげられた風が、重くわだかまっていた最後の霧をまたたに消しさる。

 大地をゆるがしながら忽然こつぜんと姿を現したグランゼス軍の重装じゅうそう騎兵団に、夢とたわむれていたバーナーム軍はあわてふためき、とり乱し、恐慌きょうこうをきたすことだろう。フィオラはそう確信している。

 だが、霧が晴れて明瞭めいりょうとなった視界のなかでフィオラたちを待ち受けていたのは、恐怖と混乱におぼれた敵の姿ではなく、長槍ちょうそうをかまえて整然とならぶバーナーム軍歩兵の長大ちょうだいな壁であった。

 その意味をフィオラは瞬時にさとった。

「読まれていたッ・・・・・・」

 とっさに手綱を引き、あらん限りの声でさけぶ。

退けえェェェ! 退けえェェェ!」

 しかし彼女自身もそうであるように、重装備の騎士を乗せた馬はひとたび拍車をかけられてそうやすやすと立ち止まれるものではない。

 フィオラが必死に叫ぶ撤退てったい命令もむなしく、グランゼス軍の重装騎兵が次々とバーナーム軍の槍衾やりぶすまに激突し、鋭利えいり穂先ほさき餌食えじきとなっていった。

 たてが割れ、よろい穿うがたれ、剣がくだけ散り、やりが折れる。人と人が、あるいは人と馬が正面からぶつかりあい、真っ赤な飛沫しぶきを海風のなかに舞い散らせた。悲鳴と怒号どごうに馬のいななきが唱和しょうわし、止まれない馬蹄ばていのひびきがそこに重なる。

 み重なる味方のしかばねに、グランゼス騎兵の乗馬があしをとられて続々と転倒し、くらのなかの騎手きしゅを血まみれの大地へと放り投げる。投げだされた騎手はその衝撃に一命いちめいをとりとめても、甲冑かっちゅうの重みで立ちあがることができず、群がるバーナーム兵らが突き刺してくる無数の槍にその命をたれていった。

 一方、突進してくるグランゼス騎士を馬上から突き落とすことに成功したバーナーム歩兵も、次の瞬間、すれちがいざまに一閃いっせんされた新手あらての剣に頭と胴をり離されていた。あるいは騎手をうしない半狂乱はんきょうらんした空馬からうまに蹴られて地にし、そこを別の馬にみにじられるバーナーム歩兵が続出した。

 両軍ともに前衛ぜんえい部隊の被害は甚大じんだいであった。が、その出血しゅっけつ度合どあいは、長槍ちょうそう兵団に正面から突っこんでしまった重装騎兵団のほうがはるかに大きかった。

 フィオラは乱戦のなかで必死にもがいていた。脇腹わきばらと左足の鎧をくだかれ、そこから血を流しているが、人馬ともに最初の衝突をうまくかわし、どうにか戦場に踏みとどまっていた。

(読みをはずしたなッ、レイタス!)

 霧にまぎれて奇襲をしかけたつもりのグランゼス軍八〇〇〇は、万全の態勢で待ちかまえていたバーナーム軍二万八〇〇〇と正面からぶつかってしまったのである。

 どうしてそうなってしまったのかは明らかだった。レイタスの読みが大きく外れていたのである。

 バーナーム軍は別働隊など組織していなかったのだ。わざと篝火の数を減らし、あたかも別働隊が存在するかのように見せかけて、数でおとっているがゆえに慎重しんちょうになっているグランゼス軍を正面へ引きずりだすことにまんまんと成功したのである。

 フィオラの目には自軍じぐん敗色はいしょく濃厚のうこううつっていた。見わたせば、いたる所で彼女の部下が馬から引きずり降ろされ、敵のやいばをあびて絶命ぜつめいしていた。乱戦のなかで副官ルーニともはぐれ、セルネアの姿も見えない。

(わたしは、こんなところでおわるのか・・・・・・)

 彼女自身の心にも敗色がじわじわとひろがりはじめ、これまでの人生で何千人もの敵をほうむってきた愛用の剣がついに折れた時、フィオラは戦うことをやめ、呆然ぼうぜんと手のなかの折れた愛剣あいけんを見つめてしまった。

 そのすきをバーナーム兵は見逃みのがさない。すかさず背後から槍をくりだして、名高きフィオラ・グランゼスの命運めいうんちにかかった。

 その槍が不意に折れたのは、フィオラが攻撃に気づいてふりかえったのとほぼ同時だった。折られた槍のもちぬしはつづけざまに剣の斬撃ざんげきをあびて地にくずれていった。

 フィオラの命を救ったのは、白亜はくあ色のローブを血と泥でまだらに染めた少女だった。自分の剣はとっくにうしなってしまったのか、今ではバーナーム兵から奪いとったとみられる剣を右手にたずさえ、フードを背なかにらして飴色あめいろの髪をふり乱している。

閣下かっかッ、今すぐ撤退てったいしてください! 敵の弓箭きゅうせん隊が近づきつつあります! ここにいたら包囲されちゃう!」

「よくもぬけぬけとッ」

 セルネアをふりかえったフィオラの口からつあたりめいた激情げきじょうがほとばしる。

「この惨状さんじょうは、おまえの師がまねいたものだぞ!」

「・・・・・・閣下」

「ここから生きて帰れたら、おまえの師をざききにしてくれる!」

 フィオラはそう言いすてて荒々あらあらしく馬首ばしゅをめぐらし、撤退にとりかかった。

 その撤退戦でもおおぜいの部下が犠牲となり、フィオラの瞳にこもった失意しつい怒気どきをますますこいいものにした。



 ドルト・ルアの丘の東に面したふもとで、剣戟けんげきまじわる音と喊声かんせいがいまだ鳴りやまない。

 そんななか、フィオラがわずかな兵をともなって帰陣きじんした。

 敵の重囲じゅういからだっする際にせたバーナーム兵のかえり血で、彼女の朱色の甲冑かっちゅうは赤の深みを増してあやしく照り輝いていた。馬をおりるとかぶとを投げすて、イライラとした足どりでよろいをひびかせながら、出むかえに現れたレイタスにむかってまっすぐを進める。

 目の前までくるやいなやレイタスのむなぐらをつかみあげ、そのまま天幕てんまくに入り、天井てんじょうを支えている柱にいきおいよくおしつけて怒声どせいを発した。

「使徒の神算鬼謀しんさんきぼうがきいてあきれる! おまえの智謀ちぼうは、わたしの部下をむざむざ犬死いぬじにさせるためのものかッ!」

「も、申しわけ、ございません・・・・・・」

 遠見とおみつつ戦況せんきょうを見守っていたレイタスにも、おのれ過失かしつと味方の窮地きゅうちがいやでも目についていた。自分はわなにはまってしまったのだ、と。

 はめたのが誰であるのかは考えるまでもなかった。一兵いっぺいも用いず、ただ篝火かがりびの数を調節しただけでレイタスに別働隊べつどうたいがあるものと信じこませた敵の軍師──。

(やはり、あの人にはかなわないのか・・・・・・)

 そんなあきらめと自己嫌悪じこけんおが、フィオラに胸ぐらをつかみあげられても抵抗する気力をレイタスからうしなわせていた。

「まって!」

 フィオラにおくれて帰陣したセルネアが天幕のとばりをはねあげて現れ、ふたりの間に割って入ってきた。

「そんなにレイタスをめないで! レイタスも苦しみながら戦ってるの!」

「なんのことだッ」

 レイタスを突き放したフィオラが、怒りに満ちたその目を今度はセルネアにむける。

 フィオラのするど眼光がんこうにおびえてセルネアは肩をすくめたが、意を決したように眉根まゆねをよせると口をひらいた。

「レイタスは、戦いたくない相手と懸命けんめいに戦ってるの!」

「黙ってろッ、セルネア!」

 自分の弟子がなにを言おうとしているのか、それをさっしたレイタスはとっさに叱責しっせきして口をふうじようとした。

「ううん、黙らない」

 セルネアは顔を強張こわばらせたまま首を横にふった。

閣下かっかも知っておくべきだと思う。自分が今、誰と戦っているのかを」

「なんのことだ! 誰のことを言っている!」

 イライラときだすフィオラの詰問きつもんに、セルネアは彼女をまっすぐ見あげてゆっくりと言葉をつむいだ。

「レイタスにとってはかつての師であり、あなたにとっては最愛さいあいの人」

 そう言われてフィオラの脳裏のうりに浮かぶ人名は、この世にひとつしかない。

「・・・・・・メルセリオ?」

 いぶかしげに眉根まゆねをよせてつぶやいたあと、フィオラの目が鋭くセルネアをすくめた。

「でたらめを言うなッ!」

 にらまれ、怒鳴どなられ、ふたたび肩をすくめて固まっているセルネアの胸ぐらをフィオラがつかみにかかる。

 その腕を、とっさにレイタスがつかんでとめた。

「でたらめじゃない。この胸の傷は、あの人につけられたものだ」

「・・・・・・なん、だと・・・・・・」

「俺があの人を四年ぶりに見たのは、オルベ川を偵察ていさつした時だ。バーナーム軍の偵察隊のなかにあの人がいた。そのあとすぐ、彼に呼びだされて話もした」

 たがいの見解が食いちがうとメルセリオが殺意をきだしにしてきたこと、そして、平和ではなく乱世こそが今の彼の求めているものだということをレイタスが語りつづけている間、フィオラの強張こわばった顔はみるみると青ざめていった。

「あの人はかわってしまったよ、フィオラ・・・・・・少なくとも、俺たちの知っているメルセリオではなくなっている・・・・・・」

「・・・・・・うそだ・・・・・・」

 フィオラが、どこを見ているのかわからぬ目でつぶやいた。頭ではなく心がそう言わせているのだろう。レイタスもメルセリオの真意を知った時は同じ思いだったからよくわかる。

「・・・・・・どうして・・・・・・」

 だが、フィオラの震えるくちびるからこぼれ落ちたこの一言ひとことにこめられた思いは複雑すぎて、レイタスにも彼女の気もちをはかることはできなかった。

 五年前に忽然こつぜんとゆくえをくらました恋人が、なぜ今になって舞いもどってきたのか。それも敵という形で。

 バーナームはくなどにくみして、なぜフィオラの主君であるエリンデールを殺したのか。

 あと一歩というところでローデランにもたらされるはずだった統一と平和を、なぜ踏みにじったのか。

 彼女の胸に去来きょらいするメルセリオに対する怒り、悲しみ、疑念、そして愛を思うと、レイタスはなぐさめにかける言葉すら見いだせなかった。

 フィオラが、まるで糸をきられたあやつり人形のように、その場にくずおれた。

 両手に顔をうずめめ、肩を震わせ泣いている。戦場で多くの部下をうしなった無念に加えて、レイタスの口から告げられた重すぎる事実が、彼女を歴戦の戦士からひとりの少女へとかえてしまったかのようだった。

 もともとフィオラは感情の豊かな女性である。まだメルセリオがフィオラのよき恋人としてとなりに立っていたころ、彼女はよく怒り、よく泣き、よく笑っていた。

 それらの感情を隠すようになったのは、父親の死をに家名をいでからだと周囲にはみなされている。女だとあなどられぬように、と。

 だが本当の原因は、時を同じくして彼女の前から姿を消したメルセリオにあることをレイタスは知っていた。

「立ってくれ、フィオラ。立って、俺と一緒にもう一度、戦ってくれ」

 泣きくずれている彼女に、レイタスは右手を差しのべた。

「俺は恐れていたんだ。あの人に勝てる見こみなんてないんじゃないかって・・・・・・その恐れが俺の読みを狂わせ、きみの大事な部下をおおぜい死なせてしまった・・・・・・けど──」

 この瞬間にわきあがった思いを、レイタスはためらわず言葉にした。

「けど、もう恐れない。あの人に勝つことでしか、あの人は俺の言葉に耳をかしてはくれないだろう。だから勝つ。勝ってあの人をとりもどす。それにはきみの力が必要だ。きみと俺とであの人をとりもどそう。それができるのは、メルセリオを師とうやまう俺と、愛する人としたうきみだけなんだ」

 今のレイタスが素直にいだく願いであり、覚悟でもあった。

 だが、辛抱しんぼう強くフィオラの反応をまつレイタスの耳に、彼女の声は寒々さむざむしくひびいた。

「・・・・・・でていけ」

「フィオ──」

「でていけええェェェ!」

 拒絶きょぜつするこの叫びによって、レイタスとフィオラの間に横たわったみぞめられぬままとなった。

 レイタスはセルネアをともない、泣き崩れたフィオラをあとに残して天幕をさった。

 天幕の外にでるとすぐ、セルネアが湿しめった声をもらした。

「ごめん・・・・・・やっぱり言わないほうがよかったね」

 しょぼくれた飴色あめいろの頭を、レイタスは自分の胸に抱きよせてなぐさめた。

「いや、あれでよかったんだ。おまえが言ったとおり、フィオラも誰と戦っているのかを知っておくべきだ。その上でどうするかは、彼女の問題だ・・・・・・」

 そして、彼女なら必ずや立ちなおってくれるとレイタスは信じていた。

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