シアーデルンからけつけたグランゼス軍およそ二万二〇〇〇の影に、ニアヘイムを攻囲こういしていたバーナーム軍先遣隊せんけんたいは包囲の輪をいて後退こうたいし、野戦やせん雌雄しゆうを決するべく後続こうぞくの本隊との合流を急いだ。

 そのためニアヘイムには一時的な平和がおとずれ、閉塞感へいそくかんと死の恐怖から解き放たれた市民はつかとはいえ安らぎの到来を素直に喜びあった。

 フィオラの軍勢はまちに入城することなく郊外こうがいじんを張った。過酷かこくだった籠城戦ろうじょうせんをたえ抜いた市民の、軍隊に対する嫌悪感けんおかんに配慮してのことである。街の復興や負傷兵の治療にのみ協力を申しでて、総大将のフィオラ自身ですら街に一歩も足をみこもうとしない徹底てっていぶりである。

 もっとも、これらの処置はあらかじめレイタスが書状でしたためていた指示にしたがってのことで、フィオラの判断によるものではない。

 とはいえ、レイタスの意向にしたがったということは、フィオラ自身もそうすることの利点をよくわきまえているからで、彼女の指導者としての慧眼けいがんをよく物語っている証左しょうさと言えた。

 レイタスはセルネアをともなってニアヘイムをでると、あわただしく設営せつえいが行われているグランゼス軍の陣地でフィオラとの対面にのぞんだ。

 兵士のひとりに案内されるままに天幕てんまくとばりをはねあげてなかに踏みこむと、かぶとを脱いで赤褐色せきかっしょくの長い髪をあらわにした若き女将軍がその美顔びがん不敵ふてきな笑みを宿してまちかまえていた。

 朱色しゅいろ甲冑かっちゅうで全身をよろい、ひとふりの剣をるした腰に両手をあてて、すらりとした長身を誇示こじするかのようにたたずむ彼女の容姿は、さながら戦神アズエルの愛娘まなむすめたるいくさ天使を思わせて、無意識のうちにレイタスの背筋をたださせた。

「ひさしいな、レイタス。五年ぶりか?」

 フィオラの口からんだ声が勇ましくひびく。それが威厳いげんをたもつための演技だとしても、たいしたものだとレイタスを感心させるほどの迫力はくりょくに満ちていた。

 そのため敬意をひょうするのに苦労はいらず、レイタスのこうべは自然とうやうやしくたれるのだった。

「ええ、閣下かっか。五年になります」

「あのころは弟子であったはずだが、今や師か」

 レイタスの横に立つ緊張したおももちのセルネアを見やったあと、フィオラがからかうような笑みをレイタスにむけてきた。

 からかわれてもレイタスは表情ひとつ動かさず、肩をすくめてみせる。

「そうおっしゃる閣下も、剣をふりまわしていた負けん気の強いお姫さまから、今や一軍の将におなりだ。まったく、時のうつろいとは早いものですね」

「フィオラでよい。昔のようにな」

「そうはまいりません。今や閣下は〈九枚の大楯ナインシールズ〉のおひとりにして〈紅炎こうえんの聖女〉。そしてエリンデールの後継者のひとりでもあらせられる」

「ふん、皮肉か? 実態は、たかが一地方に割拠かっきょする軍閥ぐんばつちょうでしかない。わたしの栄光はエリンデール陛下へいかとともにあったのだ。その陛下がき今、わたしの栄光もついえたのと同じ・・・・・・」

「本心からのお言葉とは思えません。少なくとも、あなたの瞳は昔のまま、今もするく危険な光を宿しておられる」

「それが本当なら、その光をふたたびともしたのは、レイタス、おまえだ」

 フィオラは一枚の書状を取りだし、それをレイタスに突きつけた。レイタスがフィオラにてた救援要請の書状である。

「このとおり書状はたしかに受け取り、それに応えてやってきたぞ、〈アズエルの使徒〉よ。勝算しょうさんはあるんだろうな?」

「なければここにはおりません」

「シアーデルンにはわずかな兵しか残してこなかった。今ごろ、わたしの留守を知った東の将軍どもが舌舐したなめずりしておろう。時はそれほどかけられんぞ」

「承知しております」

 レイタスが迷わずうなずいてみせると、フィオラもこれ以上、念をおすようなことはせず、納得したようにうなずいた。

「よかろう。ならばちかえ。わたしも誓おう」

 フィオラがおもむろに腰の剣を抜き放ち、そのさきをレイタスにむけた。

 レイタスは進みでると片膝かたひざくっし、フィオラの剣を両手でうやうやしく受け取って、その刀身に軽くくちびるをおしあてた。

つるぎびたる者に誓約せいやくす。われ、戦神アズエルの御名みなにおいて、なんじ王道おうどう灯火ともしびによって照らさんと」

 そう祈ったレイタスの両手からうやうやしくかえされた自分の剣に、今度はフィオラが口づけし、祈るようにささやく。

おさめし者に誓約す。我、戦神アズエルの御名において、救世ぐせの道を栄誉えいよある不抜ふばつによってあゆまんと」

 剣に宿るといわれている戦神アズエルへの誓いと、教団によってさだめられた短くも神聖な〈君臣くんしんちぎり〉が、こうしてレイタスとフィオラの間でかわされた。

「時に、レイタス──」

 フィオラが自分の剣をさやにもどしながらうてきた。

「おまえのかつての師は、今、どうしている」

 その声のひびきにわずかなためらいがあったのを、レイタスはききのがさなかった。

 このといを発するかどうかで、フィオラはずいぶんと悩んだにちがいない。そして結局、問わずにはいられなかったのだ。そんな女心おんなごころ垣間かいま見えたのである。

 フィオラがそこまで思い悩む理由をレイタスは知っている。ゆえに、知っている限りの情報を提供した。

「俺があの人のもとから巣立ったのは四年前、閣下とお別れした翌年のことです。俺の修了しゅうりょうが長老会に認められると、あの人はひとりでアディーム地方へと旅立たれました。俺もついていくと言ったのですが、人にはそれぞれの求道きゅうどうがあるものだとこばまれて・・・・・・それからは一度もお目にかかっていません」

 アディームとは、ローデランのはるか南方にひろがる広大な砂漠地帯である。

「そうか、アディームか・・・・・・遠いな」

 言葉どおり遠くを見つめるような眼差まなざしをちゅうにむけて、フィオラがさびしそうにつぶやいた。その横顔には、一軍を率いる将の勇ましさや豪胆ごうたんさはなく、わりに、まるで迷子になった少女のような孤独と悲哀ひあいがひろがっていた。

 だがそれもほんの数秒のことで、レイタスとセルネアの存在を思いだしたフィオラはその美顔に戦士の表情をまといなおし、おごそかに告げた。

「部下にお前たちの天幕を案内させよう。朝まで休んで、過酷だった籠城戦の疲れをいやすがよい。明日、朝餉あさげをともにしながら今後の作戦をめたい」

御意ぎょいのままに」

 レイタスはふたたび深々ふかぶかこうべをたれて、主君しゅくんとなった女将軍の御前ごぜんした。



 案内された天幕でレイタスとセルネアはとなりあって横になり、夜明けまでのつか一〇日とおかぶりに味わう安全な眠りにつこうとしていた。

 旅することの多いこの若い男女にとって、ひとつ屋根の下で寝所しんじょをともにすることは日常茶飯事で、別段、忌避きひすることではなかった。

 ふたりとも、よく言えばおおらかなのであり、悪く言えばデリカシーにけているということになるのだが、あるいは師弟していきずなが男女の情愛じょうあいをこえているため、とも見ることができる。

 少なくともレイタスのほうにセルネアをどうこうしようなどという邪念じゃねんはないらしく、彼はいつもセルネアに背をむけて丸まり、朝までその姿勢をくずさなかった。

 もっとも、彼がそういう姿勢で寝る理由は他にも考えられた。

 というのも、セルネアはいつも寝る時になると白亜はくあ色のローブのみならず衣服のすべてを無造作むぞうさに脱ぎすてて、下着姿の半裸はんらで大の字に寝そべるのである。

 一度ならずレイタスに注意され、「服をきて寝ろ!」とこわいほど真剣な顔でさとされたものだが、衣服をまとって寝ると、どういうわけか寝つきが悪くなるセルネアはこれだけはゆずれないとかたくなに半裸をつらぬきとおしていた。

 本当なら下着だって脱いで寝たいくらいなのだが、下着は女のみさおを守る最後のとりでだから、などという、しおらしい発想とは一切無縁で、実際は、堅物かたぶつのレイタスが鼻血をだしすぎて出血死しゅっけつししてしまうのを防ぐため、などと本気で考えている始末だった。

 そんなわけで、グランゼス軍の陣地で寝ることになったこの日も、レイタスはセルネアに背をむけたまますみっこでちぢこまるように丸くなり、一方のセルネアは下着姿の半裸で堂々と大の字になって寝そべり、どちらが師でどちらが弟子なのかわからぬ体勢でそれぞれが睡魔すいまの到来をまちわびていた。

 ところが、セルネアには気になることがあり、それが睡魔の到来をさまたげ、半裸で寝ているにもかかわらず、また、連日の籠城戦ろうじょうせんで疲れているはずなのになかなか寝つけなかった。

 ついに我慢がまんできなくなったセルネアはガバッと勢いよく上体じょうたいをおこすと、となりで寝ているレイタスの丸まった背なかを見おろした。

「ねえねえ。グランゼス将軍って、レイタスの知りあいなの?」

 レイタスはふりかえりもせず、眠たげな声だけをかえしてきた。

「ああ」

「ふーん」と、眠たそうなレイタスに遠慮して会話を打ちきろうとするも、「で、どんな知りあいなの?」と、やっぱり気になってきかずにはいられないセルネアだった。

 レイタスは背をむけたまま、それでも眠たそうな声で返事をしてくれた。

「俺がまだ弟子だったころに、師と一緒につかえたことのある将軍の娘だ」

「そっかァ、レイタスにも弟子だったころがあったんだね~、うんうん。さぞかし、ひねくれた弟子だったんだろうなァ」

 しみじみとうなずいてからかうセルネアだったが、レイタスは背をむけたまま怒るでもなくしれっと応じた。

「おまえと一緒にするな。俺は優等生だったんだ」

「ふん、どうだかね。ベーだ!」

 思いっきり舌をだして抗議したものの、背をむけたレイタスにはまったく見えていないことに気づき、セルネアはますますムッとした。

(よーし、こうなったら──)

 意地の悪い笑みを浮かべたセルネアは、そっと忍びよると勢いよくレイタスの上にまたがって彼の顔を覗きこんだ。

「ねね、どんな人だったの? レイタスのお師匠さんって」

 目をあけたレイタスはおどろいたように顔をのけらせ、「なッ、こら、バカッ、離れろ!」と、じゃれつく半裸のセルネアをあわてておしのけ、まるで天敵に襲われた鎧鼠アルマジロのように背なかを丸めてますますちぢこまった。

 その肩をつかんでゆすり、セルネアはなおも食いさがる。

「ねえ、教えてよォ、レイタスのお師匠さんのことォ」

 すると、背をむけたまま肩ごしにふりかえったレイタスがジロッとにらみをきかせてきた。

「教えたら、ちゃんとおとなしく寝るか?」

「うんうん、寝る寝る」

 カクカクと短く何度もうなずくセルネアを見て、レイタスは疑わしげに目を細めたものの、ため息まじりにれてくれた。これ以上、睡魔との心地よいダンスを邪魔されたくないと考えたのかもしれない。

「ったく、しょうがないやつだ──」

 あおむけになって頭の下で両手を組んだレイタスは、過ぎさりし昔日せきじつを思いだしているかのような遠い眼差まなざしを天井にむけ、ほこらしげに口を動かしはじめた。

「そうだな、なにから話したものか・・・・・・とにかく、すごい人だったよ。まるで敵将の心が読めているかのように、めぐらせたさくがことごとくあたっていくんだ。俺の知る限り、あの人に負けいくさはなかったよ。俺のあこがれであり、目標さ。いつかあの人みたいになりたい。こえてみたい。そんな風に、思わせて、くれる・・・・・・人・・・・・・さ・・・・・・」

 語りながらもレイタスの声は徐々にしぼんでいき、やがてそれは穏やかな寝息ねいきへとかわった。

「そっか・・・・・・すごいんだね、レイタスのお師匠さんって」

 すっかり寝入ねいってしまっているレイタスに微笑ほほえみかけたあと、セルネアは、肌蹴はだけていた彼の毛布をそっと直してやりながらささやいた。

「でも、あたしのお師匠さんだって負けてないよ?」

 ニアヘイムの市民をみごとに守りきった自分の師の寝顔を誇らしく見おろしながら、セルネアは眠るのもわすれて胸をときめかせた。



「ニアヘイムを落とせなかったか」

 のぼったばかりの太陽の下で黒煙こくえんをくすぶらせているまちを、見晴みはらしのいい丘の上から遠くに見やりつつ男がそう口をひらいた。声は若いが、なにもかも見とおしているかのような威厳いげんに満ちている。

 夜藍色よるあいいろのローブをゆったりとまとい、同じ色のフードを目深まぶかにかぶって、ひじまである鉄の手甲ガントレットに守られた両腕を胸の前で組んでいる。腰には湾曲わんきょくした剣をひとふりいていた。

 同じくフードを目深にかぶったローブ姿のアドラフが、男に向かってうやうやしく低頭ていとうしながら応じる。

面目次第めんぼくしだいもございません。ですが、戦略目標をとげることはかないました」

「〈紅炎こうえんの聖女〉・・・・・・彼女をシアーデルンから引きずりだせたようだな」

「はッ」

 短く返答するアドラフの声は興奮ぎみにやや高まっていた。

 フィオラ・グランゼスをシアーデルンから引きずりだすこと。それが、目の前の男からあたえられていた課題であった。

 その課題をみごとになしとげたのだから、ねぎらいの言葉がかけられるものとアドラフは信じて疑わない。

 だが、アドラフの前に立つ男の反応はにべもなかった。

「彼女の出現までにあの街は落としておきたかった。お前は、かけつけた敵にむざむざ補給のための拠点きょてんをあたえてやったのだ。一方の我らは拠点をはるか後方に残したまま・・・・・・我らの戦いはいっそうきびしくなるだろう」

「・・・・・・・・・」

 男から手厳てきびしい指摘を受け、低頭して地面を見つめるアドラフの顔は恥辱ちじょくと無念のあまり紅潮こうちょうした。

 その頭上に、教師のような口ぶりで男の声がってくる。

う、弟子よ。ニアヘイムの攻防におけるお前の敗因はなにか」

「敗因?」

 負けたなどとはつゆほども考えていなかったアドラフははじかれたように顔をあげ、不服をあらわにした目で師をにらみつけてしまった。が、すぐにもその不敬ふけいに思いいたり、あわててこうべを低くたれる。

「・・・・・・お答えします、師よ」

 アドラフは地面を見つめながらくちびるみしめて、認めがたいおのれの敗因を脳裏のうりで目まぐるしく分析した。

 心から崇敬すうけいする師に失望しつぼうをあたえてしまった自分の不甲斐ふがいなさに加えて、自分をこのようにみじめな境遇へと追いやった敵の指揮官への憎悪がアドラフの胸中きょうちゅう渦巻うずまきはじめる。

 それでも頭は冷静に戦局せんきょくをふりかえっていて、おのれおとっていた個所と、相手のまさっていた個所とをり分けていった。

「我が方は、北と東西の三方に兵力を分散してニアヘイムを包囲しておりました。この配置は敵の拠点を攻囲こういする上での定石じょうせきですが、地形の関係上、三部隊の兵力に均衡きんこういたのは事実。あまつさえ、東から来援らいえんするフィオラ・グランゼスを意識するあまり、東方に多くの兵をいてニアヘイムの東面を突破することのみに固執こしつしたのは明らかにわたくしの過失かしつ。北、西の両部隊にも多くの兵を割き、連絡をみつにして三方からの一斉いっせい攻撃を心がけるべきでした。ひるがえって敵は──」

 アドラフはここでいったん言葉をくぎった。次に語ろうとしていることはアドラフにとって屈辱くつじょく以外のなにものでもない内容だったのである。

 だが、冷静に戦いをふりかえってわかってしまった以上、師に報告しなくてはならない。己を知り、敵を知るというところにこそこの問答の神髄しんずいがあるのだから。

 アドラフはくちびるを軽く湿しめらせると、くやしさをにじませた声でつづけた。

「ひるがえって敵の防衛態勢は・・・・・・完璧でした。兵力の配置、迎撃げいげきする際の手段と場所、それらすべてが的確、かつ熟達じゅくたつしておりました。特筆とくひつすべきは坑道戦こうどうせんです。こちらのトンネルはことごとく看破かんぱされ、つぶされ、目的をとげられぬままいたずらに時間だけを浪費ろうひしました。この坑道戦での敗北が、ニアヘイム攻略をいちじるしく遅延ちえんさせたことはいなめません」

 一気に語りおえたアドラフは、冷静に敵の手腕を認めているうちにあらためてわきあがってきた疑問をひとごとのようにつぶやいた。

「一体、何者が指揮を・・・・・・」

 そして、答えを求めて師をあおぐ。

「このようにたくみな防戦ぼうせんを、商人風情ふぜいがなしとげられるとはとうてい思えませぬ」

「おそらく、いや──」

 はるか彼方かなたにニアヘイムを見つめるフードの奥から、男の声が淡々たんたんと流れる。

「まちがいなく、あの街には〈アズエルの使徒〉が入っていたのだ」

「使徒が?」

 おどろきと同時に納得がアドラフの胸中きょうちゅうをかけ抜けた。

 味方を守るそのすべを神のごとくさんし、敵をめっするその策を悪鬼あっきのごとくはかる、とまでうたわれる伝説的な軍師集団〈アズエルの使徒〉──。

 その一員がニアヘイムの防衛を指揮していたというのなら、ふりかえった戦いのすべてに得心とくしんがいく。

「やっかいですね」

 自分たちの歩む道に立ちはだかったおおいなる敵に、アドラフは興奮と警戒を隠さなかった。

 だが彼の師は平然としていた。

「気にむことではない。我らはすでに一度、カルカリアでやつらに勝利しているのだ」

 目覚ましい活躍で急速に台頭たいとうしてきた英雄エリンデールの左右にはつねに〈アズエルの使徒〉が軍師としてひかえ、すべての作戦を主導しゅどうしていた。

 そのことはアドラフたちにとって既知きちの事実だった。それでもあえてカルカリアで決戦をいどみ、結果、誰もがエリンデールのものと信じて疑わなかった勝利をあざやかにかっさらってみせたのである。

 そんな偉業をなしとげた自負じふほこりが男の声にはみなぎっていた。

「〈アズエルの使徒〉は神でも悪魔でもなく、我らと同様、人間だ。たおせぬ相手ではない。神話や伝説のたぐいにまどわされて心を乱してはならんぞ、弟子よ」

「はッ」

「ニアヘイムの不落ふらく遺憾いかんだが、戦略目標の達成には満足している。これからの戦いをよく観察し、よく学べ。くれぐれも先ほどの反省を無にせぬことだ。そうすれば、お前はわたしをこえられる」

「お言葉、きもめいじます!」

 師の激励げきれいに体をふるわせ感激しながらアドラフが低頭している間に、男はきびすをかえして歩みだした。

 アドラフもその背なかを追って丘の斜面をおりた。

 ニアヘイムとは逆の方角になる丘のふもとにも、おびただしい数の煙が立ちのぼっていた。

 ただし、それらは黒煙ではなく白煙はくえん──朝食を煮炊にたきしている兵士たちの炊煙すいえんだった。

 さくが築かれ、やぐらがそびえ、大小の色鮮いろあざやかなテントが立ちならび、鍛冶屋かじやたちのリズミカルな鉄打ちのひびきに唱和しょうわするかのように、そこかしこで馬のいななきがあがっている。まるで巨大な街がひとつ、そこに忽然こつぜんと姿を現したかのような光景だった。

 バーナームはくベルランがみずから率いる本隊と、ギルウェイ率いる先遣隊せんけんたいの、歩騎ほきあわせておよそ二万八〇〇〇が駐留ちゅうりゅうする野営地やえいちである。

 半月ほど前にカルカリアの野で勝利したばかりのバーナーム軍だが、無傷だったわけでは決してない。むしろ数的すうてきな損害はエリンデール軍よりも多かったのである。圧倒的な数を誇っていたエリンデール軍を相手に、当初、バーナーム軍はおされる一方で苦境くきょうに立たされていたのだ。

 そんな劣勢れっせいのなかでバーナーム軍がひたすら意識していた作戦は、アドラフの師が立案したものである。

 その目的はたったひとつ、エリンデールの死。

 それのみを念頭ねんとうにおいた奇策きさくられ、実行に移された。策は的中し、エリンデール軍は主君しゅくんの戦死をに指揮系統けいとうを立てなおせぬまま各個に撃破され、ずるずるとくずれていった。

 かたや、エリンデールを敗死はいしさせて勝利を手にしたバーナーム伯の声望せいぼうは一気に高まった。かつてのエリンデールがそうであったように、カルカリアでのたった一度の大勝利がバーナーム伯の命運めいうんを劇的にかえたのである。

 今や各地から傭兵ようへいや志願兵、あるいは義勇兵ぎゆうへいがバーナーム陣営じんえいに続々とめかけていた。エリンデール亡き今、ローデランを再統一して平和をもたらしてくれる次なる覇者はしゃはバーナーム伯だと言わんばかりに、伯の軍勢は日に日にふくらんでいる。

 カルカリアの戦いをおえてまだ日が浅いというのに三万近い大兵力を動員できていることが、バーナーム伯の隆盛りゅうせい如実にょじつに物語っていた。

 そんなバーナーム軍が次なる獲物として見すえる相手は、丘ひとつをへだてたニアヘイム近郊きんこうで陣を張っているフィオラ・グランゼスの軍勢だった。

 この両軍が、決戦にそなえて動きはじめる。



 雨が降った。

 フィオラの軍勢がニアヘイムの救援にかけつけた翌日のことである。

 雨は昼過ぎから降りはじめ、たちまち豪雨ごううとなって一晩中ひとばんじゅう、大地をぬらしつづけたが、明け方にはやんでうそのようにカラッと晴れた。

 野営地やえいちのぬかるんだ地面を、フィオラの天幕てんまくめざしてレイタスはしかめっつらで歩いていた。その歩調はイライラとした足どりで、しかも速く、水たまりに注意しながら追いかけてくる弟子に気をまわしている余裕よゆうすらなかった。

 レイタスが不機嫌ふきげんなわけは、今朝、ニアヘイムから食糧しょくりょうを運びこんできた商人たちが語るうわさにあった。

「オルベ川が氾濫はんらんしてるってよ。一番近くの橋も落ちたそうな」

 オルベ川は、レイタスの作戦上、バーナーム軍に対して有利な位置を確保するために通過する予定となっていた川である。

 その川が氾濫し、のみならず橋まで流されてしまったらしい。

 レイタスを苛立いらだたせているのは、この「らしい」という部分で、商人たちにいくらききこんでも真偽しんぎがはっきりとしないのである。

 川の上流や下流には、濁流だくりゅうまれなかった橋がひとつやふたつ残されているかもしれない。だが、それらの橋まで移動していては時間がかかりすぎて、こちらの動きを敵に気取けどられかねないのだ。

 フィオラの天幕の前まできたレイタスは、入室の許可も求めずイライラととばりをはねあげた。

 天幕のなかでは、フィオラが侍女じじょたちによろいの装着を手伝わせている最中さいちゅうだった。赤く長い髪を両手でかきあげ、侍女に背なかをむけ、胸甲きょうこうめ具をとめさせながらフィオラの口もとにあきれたような苦笑くしょうが浮かぶ。

主君しゅくん寝所しんじょへ許可も得ずにみこんでくるとは、斬首ざんしゅものだぞ、レイタス。わたしが女であるという点を差し引いてもだ」

「急をようしますゆえ、どうかご容赦ようしゃを」

 レイタスの鬼気ききせまる表情を見て、フィオラの顔からも笑みが消えていく。

「どうした」

「オルベ川が氾濫しています」

「なんだと」

 ことの重大さはフィオラにもすぐ理解できたようだった。昨日、レイタスから作戦の説明を受けた時にその内容を了承したのは彼女自身なのだから当然と言えた。

 赤髪の女将軍は机上きじょうの地図を確認しようと歩きだし、そのため装着が不完全となった胸甲がずしりと床に落ちて侍女たちを悲しませた。

 それを意にかいさず、フィオラは地図をにらみつける。

「どの程度の氾濫なのだ。渡河とかは可能なのか?」

「橋が落ちているそうです」

「たしかか?」

「それをたしかめたく、偵察ていさつの許可をいただきにまいりました」

「おまえ自身で?」

 意外そうな眼差まなざしをむけてくる主君に、レイタスは迷わずうなずく。

「作戦を変更するにせよ、継続けいぞくするにせよ、俺の目でたしかめないことには決断をくだせません」

「なるほどな。ならばわたしも同道どうどうしよう」

 これをきいて今度はレイタスが眉をひそめた。

「俺が行って、見てきたことをご報告申しあげればよいことです。閣下かっかはこちらに」

「オルベ川の渡河は本作戦のキモだ。すておけぬ。それとも、自分はじかに見なくては納得できないくせに、わたしにはジッとしてろと言うのか? そういうのを、わがままと言うのだぞ」

 自分のわがままをたなにあげたフィオラの屁理屈へりくつにレイタスは困惑ぎみに苦笑を浮かべるが、とうのフィオラはじるでもなく冗談めかした笑みで我意がいをつらぬきとおした。

「わたしが言いだしたらきかぬことくらい知っていよう?」

「ええ、イヤってほどね。おかげで何度も危ない目にあわされました」

 レイタスは肩をすくめて降参した。まさしく、彼女が言いだしたら誰にもとめられないのである。

 フィオラが決然けつぜんだんをくだす。

「わたしの馬を引け! 偵察にでる!」

 かくして、レイタスとフィオラが数騎すうき護衛ごえいだけをともなってオルベ川へむかった。



 オルベ川はたしかに氾濫はんらんしていた。

 渡河とかに使うつもりでいた橋も昨夜のうちに流されたようで、石造りだった橋脚きょうきゃくだけがぶつかってくる濁流だくりゅうあらがってけたたましく水飛沫みずしぶきをあげている。

「敵の背後はいごをつく道は、これで断たれたわけか」

 口もとを苦笑くしょうぎみにゆがめたフィオラが、馬上から忌々いまいましそうに濁流を見おろしていた。が、やがて、なにかに思いあたった様子でレイタスをふりかえる。

「敵がこちらの手を読んで、橋を落としたのではあるまいな?」

「大雨を降らせて、ですか? それはないでしょう。バーナーム軍の軍師が何者なのかはわかりかねますが、天候まであやつれる魔法使いだとは思えません」

 レイタスがおとぎ話の登場人物を引きあいにだして否定すると、フィオラは自分のかんぐり深さに自嘲じちょうした。

「ふふ、たしかにな」

「その証拠に、ほら──」

 レイタスは対岸に人の集団を見つけ、彼らをし示した。

「あそこをごらんください。おそらくバーナーム軍の偵察ていさつ隊でしょう」

 集団の規模はレイタスたちと同じく数騎すうきといった程度である。川幅かわはばのひろい対岸にいるため、彼らひとりひとりの容貌ようぼう判然はんぜんとせず、小さな集団の影という形容がふさわしい。

「敵も氾濫の噂をききつけ、確認のためにかけつけたのでしょう。つまり、彼らは橋を壊していない。自分たちで壊したのなら確認の必要なんてありませんからね」

 笑みを浮かべながら、レイタスは腰のベルトにはさんでいた遠見とおみつつをとりだし、それを右目にあてて対岸を観察した。

「まちがいない。バーナーム軍の偵察隊です。規模はこちらと同程度。むこうもこちらに気づいています。いかがいたしますか」

 冗談めかした口調でレイタスがうと、フィオラもあきれた口ぶりで応じた。

「たかが数騎で小競こぜりあいをえんじろと? 我らの目的は川の視察だ。すておけ」

「それをきいて安心しました。敵も同じ考えのようですので」

 レイタスがのぞく遠見の筒の奥では、バーナーム兵たちがこちらを指さしてはいるものの、弓をかまえる気配までは見せていなかった。

(それにしても、どうしてやつらがこの川を気にかける・・・・・・)

 そう内心ないしん小首こくびかしげた瞬間、レイタスは背すじがゾッとするような疑惑にかられ、くらの上で全身を硬直こうちょくさせた。

 なぜ、バーナーム軍も川の氾濫を気にして、わざわざ確認にやってきたのか。

 それは、レイタスと同じことを考えていたからではないだろうか。つまり、レイタスたちが川をわたって迂回うかいし、バーナーム軍の背後に出現しようと画策かくさくしていたのと同じように、バーナーム軍も川をわたってグランゼス軍の背後に出現し、有利な位置をめて機先きせんせいしようとしていたのではないだろうか。

 誰でも思いつける作戦ではなかった。

 レイタスがこの作戦を思いつき、実行を決断できたのは、ニアヘイムで籠城戦ろうじょうせんの指揮をとりながら書物や伝聞でんぶんでこの辺りの地形を丹念たんねんに調べあげていたからである。土地鑑とちかんのない者にこの奇襲きしゅう作戦は思いつけるものではなく、したがって、ニアヘイム近辺にふなれなバーナーム軍が容易に立案できる作戦ではないのだ。

(いや! それをやってのけそうなやつがひとりだけいる。カルカリアでエリンデールから勝利をもぎとった謎の軍師。やつならきっと・・・・・・くそッ、一体、何者なんだ!)

 レイタスは遠見の筒の奥に意識を集中させた。

 この川の渡河をたくらんでいたのなら、レイタスと同じく、川が氾濫しているときいてみずから確認にきているはず。そう確信し、その人物をさがすため、レイタスはバーナーム軍の偵察隊に向けた遠見の筒を水平に動かしていった。

 不意ふいに、バーナーム兵の間でキラリと光るものが目を刺激した。

 レイタスはそこで遠見の筒をとめ、光ったものの正体をさぐった。

 バーナーム兵の全員が渦巻うずまく川の濁流に目をうばわれているなか、ひとり、夜藍色よるあいいろのローブをまとった人物だけが馬上からこちらに視線をむけていた。

 その右目には、レイタスのものと酷似こくじした筒があてられている。光ったのはそのレンズのようだ。

 しかし、その筒と、目深まぶかにかぶったフードのせいで人物の顔は判然はんぜんとしない。

(顔を見せろッ)

 レイタスがそう念じた直後、思いがつうじたというわけではないのだろうが、ローブ姿の人物がおもむろに目もとから筒をおろし、フードを後ろに払って、これ見よがしに顔の正面をさらしてきた。

 きわたる川風かわかぜに、その人物の顔のまわりで長くしなやかな黒髪がゆれていた。きれ長の目から放たれる理知的な光が、まるですくめるようにレイタスをまっすぐとらえている。女と見まごう秀麗しゅうれい顔立かおだちだが、この人物が男であることをレイタスは知っていた。

 知っているのは性別だけではない。彼がどんな声をしていて、なんという名前なのかもレイタスは知っていた。

「ありえない・・・・・・」

 レイタスの口から、現実を拒否するむなしい言葉がふるえながらこぼれ落ちた。

 となりからフィオラが気づかわしげに声をかけてくる。

「どうした、レイタス」

「・・・・・・・・・」

 レイタスはだまったまま遠見の筒から目を離せなかった。正確には、そこに映っている人物の顔から心を離せなかったのだ。

 やがて男はふたたびフードを目深にかぶり、影のなかにおのれの顔を隠すと馬首ばしゅをめぐらせはじめた。

 バーナーム兵がそれにならって次々と馬首をひるがえし、ごおごおととどろく濁流の咆哮ほうこうのなか遠ざかっていく。

 無人となった対岸を、それでもレイタスは遠見の筒で覗きつづけていた。

 濁流があげる咆哮に、心のなかでなにかが崩れていく音を重ねあわせながら・・・・・・。

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