翌日の夕刻、レイタスは丸一日の監獄かんごく生活を釈放しゃくほうされた。

 議長のザンヘルがみずから市庁舎しちょうしゃの地下にある監獄まで足を運び、わざわざレイタスをむかえにきたのである。

「ついてきてくれ」

 ザンヘルが沈痛ちんつうおももちで案内してくれた部屋の床には、血まみれの麻袋あさぶくろがひとつ、無造作むぞうさに置かれていた。

 レイタスはそれに一瞥いちべつくれただけでなにも言わなかった。きかずとも袋の中身はわかっている。

 ザンヘルが、血で汚れた麻袋を見おろしながら表情どおりの苦々にがにがしい声をきだした。

「バーナーム伯からの返答が、これだ。貴殿きでんの言ったとおりになった・・・・・・」

 麻袋のなかには、和平交渉のために派遣された使者の、胴体をうしなった遺骸いがいがおさめられているのだ。

 ザンヘルがレイタスにむきなおり、バツが悪そうに顔をしかめながら、それでも真摯しんし眼差まなざしで口をひらく。

「レイタスどの! どうやら貴殿には先見せんけんめいがおありのようだ。人の心や物事の本質を見抜くすべけておられる。我らは、こうなることを予測できなかった・・・・・・いや、あえて目をそらしていたのかもしれん。戦ったところで勝算しょうさんがない現実から・・・・・・」

 恥入はじいるようにうつむいたザンヘルが、ふたたび顔をあげて見つめてきた。

「貴殿は、この街を必ず守ってみせると言った。その言葉に、我らはしんを置いてよいのだろうか?」

「そのといは無意味です、議長」

 レイタスは穏やかな微笑びしょうで応じた。

「あなたはすでに答えをだしておられる。だからこそ、俺をろうからだしたのではありませんか?」

 レイタスを釈放したのは、バーナーム軍との戦いが不可避ふかひとなった今、ただひとり街を守ってみせると公言こうげんした男に一縷いちるの望みをたくしたくなったからではないのか。レイタスの自信に満ちあふれた微笑はそうほのめかしている。

「・・・・・・なるほど。貴殿は、使者の件のみならず、わたしがむかえにくることまで予見していたというわけか。その慧眼けいがんが、この街の勝利をも予見しているというのなら心強い」

 ザンヘルがっきれたような笑みを浮かべた。

「レイタスどの! あらためてお願いする。どうか、この街を守ってはくれまいか!」

「それは、あなた個人のご意思か? それとも議会の総意そういか?」

 ザンヘルの個人的な願いであっては困る。議会の総意として、レイタスの絶対的な指揮権を保証してもらう必要があるのだ。このといはその確認である。

「議長のわたしが頼んでいるのだ。議会の総意ととらえてもらってさしつかえない。ニアヘイム議会は、貴殿に街の防衛の全権をゆだねる」

「いまひとつ、確認したい」

「なにか」

「戦わずとも降服するという選択肢がございます。降服すれば、人や街に被害をださずにすみますが?」

「だが、自由は死ぬ。我ら船乗りにとって自由は命と同等、いや、時として命以上の価値を生むものなのだ」

 そう語るザンヘルの眼差しからは、虚勢きょせいや自己陶酔とうすいで言っているのではない、理性に裏打ちされた矜持きょうじが見てとれた。

 レイタスは満足してうなずいた。

「そういうことでしたら、この街の防衛、つつしんで拝命はいめいいたしましょう」

 バーナーム軍の脅威きょういが差しせまっている今、これ以上の形式的な問答もんどうは時間の無駄だったので、レイタスはさっそく本題に入った。

「で、どのくらいの兵を集められますか」

「街に常駐じょうちゅうしている兵はおよそ一〇〇〇。港に入っている商船の乗組員たちを動員しても、あわせて一五〇〇がいいところ・・・・・・」

 答えるザンヘルの顔に希望の色はまったく浮かんでいなかった。

 だがレイタスは平然とうなずく。

「じゅうぶんです」

「じゅうぶんだと? 偵察ていさつにだした者の話では、接近しつつあるバーナーム軍は一万にものぼる大軍だというぞ。二日後には、このニアヘイムは奴らの包囲するところとなろう・・・・・・それを撃退するのに、たったの一五〇〇でじゅうぶんだと貴殿は言うのか?」

拠点きょてんを守る上で最も重要なのは兵の多寡たかではありません」

「ではなんだ」

「時間です」

「時間? なんの・・・・・・」

 この質問には答えず、レイタスは別のことを口にした。

「この街の宿のどれかに俺の弟子がまっています。俺への目印として窓の外に下着したぎしているはずだから、それを頼りにさがしだし、連れてきてください」

「下着を・・・・・・」

 みょうな取り決めをかわしている師弟していにザンヘルは困惑ぎみの顔だが、レイタスはかまわずにつづけた。

「それと羊皮紙とペン、あと、早馬はやうまの用意も頼みます」

「早馬を? 誰に使者をだすつもりだ」

「エリンデールにわる、この街の新たな守護天使にです」

 そう答えながらレイタスが頭のなかで思い浮かべた人物は、およそ天使とはかけ離れたイメージのもちぬしで、そのギャップに思わず苦笑を禁じ得ないのだが、そんなレイタスの胸中きょうちゅうなど知るよしもないザンヘルはなんのことやらさっぱりという顔である。

 上質な羊皮紙が運ばれてくると、レイタスはそれにすらすらと迷いのない所作しょさで羽ペンを走らせはじめた。

 レイタスの見立てでは、ニアヘイムを囲っている貧弱な城壁ではバーナーム軍の大攻勢だいこうせいにそう長くはもちこたえられそうになかった。

(せいぜい、もって一〇日とおかといったところか・・・・・・)

 この街に足をみ入れた際に見た北門の様子を思いかえしながらレイタスはそう結論づけた。それだけの日数なら、バーナーム軍の攻勢をしのぐ自信がレイタスにはある。だが、それ以降は城壁そのものがこらえきれまい。

 一〇日以降も守り抜くには、バーナーム伯に匹敵する兵力をもった第三者の介入かいにゅう不可欠ふかけつだった。

 その者の援軍をむかえられれば、街からでて野戦やせん雌雄しゆうを決せられる。そのほうが街を戦場としない分、市民への被害も軽減できる。

 そこでレイタスは、この街の新たな庇護者ひごしゃとなってくれそうな、各地に割拠かっきょしているエリンデールの家臣たちを脳裏のうりでずっとしなさだめしていた。

 この思索しさくの結論を得たのは、つい昨晩の獄中ごくちゅうでのことである。

 その人選においてレイタスが要求する条件は三つあった。

 まずは、ニアヘイムに近い場所に割拠していること。遠くの者では救援に間にあわなくなるため、ニアヘイムとの物理的な距離は重要である。

 次に、バーナーム伯と同等か、それ以上の兵力を保有していること。言わずもがな、最終的な戦略目標はバーナーム軍の撃退にあるのだから、それを可能とする兵力の準備は大前提だいぜんていとなる。

 そして最後に、ニアヘイムの自治を認めたエリンデールの遺志いしを尊重できる者であること。ニアヘイムの占領ないし破壊を考えているようでは論外となる。港湾こうわん都市の重要性をよく理解し、海の商人たちを味方に引き入れることの利点を熟知している賢者けんじゃであることが最も望ましかった。

(となると、あのひとしかいない)

 昨晩、獄中で何度も検討した考えをレイタスは羊皮紙にしたため、書きおえると、今度は首にさげていた印章いんしょうを取りだし、神聖なおももちでそれを文面の最後におしつけた。

 つるぎの時代の第六紀二九七年、四月六日──。

 暮れなずむ夕闇のなか、レイタスの書状をたずさえた早馬が一騎、迫りくるバーナーム軍とは真逆の北東へとった。



「できたよッ、レイタス! 見て見て!」

 セルネアが片手にもった羊皮紙をヒラヒラさせながら走り寄ってくる。ニアヘイムの兵たちによって、レイタスが滞在たいざいしている市庁舎まで連れてこられたのだ。

 どうやらニアヘイムの兵たちは、宿の窓外そうがいに干されていた彼女の下着を無事に見つけだしてくれたようである。

「あたしが寝ずに考えた力作なんだから!」

 兵力の配置図らしい羊皮紙を突きだして、セルネアは、初めて成功した狩りを母親にほめてもらおうとしている子猫のように青い瞳をキラキラと輝かせていた。そんな目の下にあるクマが、寝ずに考えたという彼女の発言を裏づけている。

 よほどの自信作らしいが、羊皮紙を受け取って視線をさっと走らせたレイタスは一言ひとこと

「字がきたない」

「か、関係ないじゃん、そんなことッ」

「おおありだ、バカもん」

「なんでよ~」

「いいか。軍師は帷幄いあくのなかでめぐらせたさく方々ほうぼうの指揮官や部隊に伝達しなくてはならないんだ。その際に用いるのが命令書となるが、その中身が判読はんどく困難な字で埋められてみろ。受け取った側は内容を理解できず、確認のためにふたたび伝令を走らせることになり、作戦発動のいっしてしまうおそれがある。あるいは内容を読みちがえて勝利そのものをのがすことになりかねんのだ」

「そんなこと言われたって・・・・・・それがあたしの字なんだもん! 個性なんだもん!」

「やれやれ・・・・・・どうやらお前には〈修羅場しゅらば〉よりも先に〈習字しゅうじの儀〉が必要なようだな」

「そんな修行、ないくせに!」

 怒鳴どなったあと、セルネアが口をとがらせて上目うわめづかいに見あげてきた。

「ねえ、お願いだから、字じゃなくて、中身を採点してよ~」

 一睡いっすいもせずに熟考じゅっこうしたことを物語るクマのある目で懇願こんがんぎみに見あげられると、さしものレイタスも無下むげにはできなくなった。

「まったく、しょうがないやつだ・・・・・・」

 などと、照れ隠しの嫌味いやみを言いながら、レイタスはあらためて視線を羊皮紙の上に落とした。

(ん? これは・・・・・・)

 そこに見るべきものを見いだしたレイタスは、思わず内心で感嘆かんたんをもらした。そしてセルネアにむきなおり、教師の口ぶりでただす。

「ここに記されている兵の配置について、おまえにたずねる。みごと答えて偶然の産物さんぶつではないことを証明してみせよ」

「うん、いいよ。なんでもきいて」

「では問う、弟子よ。バーナーム軍が真っ先に到達する北門よりも、東西の二門に多くの兵力をいているのはなぜか」

「お答えします、師よ」

 セルネアは、まってましたと言わんばかりに声をはずませたあと、問答もんどうの際は威儀いぎただすように言われているので背筋をピンとのばし、それからレイタスをまっすぐ見つめて丁寧ていねいに答えた。

「北門は丘陵きゅうりょう地帯に面し平野が少なく、敵の大規模な部隊展開を地勢ちせい制約せいやくしてくれるため少ない兵で防げます。それにくらべ東門は、平野に面し敵の大規模な部隊展開が容易であることから、敵の大攻勢だいこうせいに最もさらされる個所と予想でき、可能な限りの兵力をかねばならない要所ようしょとなります。また西門に関しては、地勢において北門と同様なれど老朽化ろうきゅうかいちじるしく、防衛上の最弱点であるために守備を兵力でおぎなう必要があるからです」

「なぜ西門が老朽化しているとわかる」

「昨日、宿にこもって配置を考えてた時、煮詰につまっちゃってさ。気分転換の散歩がてら城壁に登ってみたんだ。そしたら、歩哨ほしょうさんたちが色々と教えてくれたの。もちろん自分の目でもたしかめたよ?」

「ほお」

 レイタスは軽く目をみはった。

 城壁や城門の、どこかどれだけ老朽しているか、といった事柄ことがらは、本来、街の防衛上の機密事項きみつじこうぞくする。それが外部にれ、敵の知るところとなれば街の防衛がむずかしくなるのだから、おいそれと口外こうがいできるものではないのだ。

 そんな重要な秘密を兵士たちからききだすことに成功したセルネアには、どうやら、人の心にするりと入りこんで相手が言うつもりのなかったことまで引きだしてしまう特異な才能があるようだ。

 意外な特技をもつ弟子を感心して見つめていると、セルネアが照れくさそうにほおを赤らめた。

「な、なんなの?」

「いや、別に・・・・・・ただ、俺が見ていないところでも、しっかりとやるべきことをやっていたんだな、と思ってな」

「あたり前じゃん、そんなこと」

 ほめられてうれしいくせに、頬を赤らめたままツンとました顔のセルネアが、なにかを思いだしたかのようにハッとしてレイタスをにらんできた。

「そう言えば昨日、レイタス、宿に一度も帰ってこなかったでしょ。すっごく心配したんだから。どこに行ってたの?」

「今は問答の最中だ。よけいな言葉はつつしむように」

「あ、ずっる~い」

 計画のうちだったとはいえ、牢にぶちこまれていた、などと言えば師匠としての沽券こけんにかかわると思い、レイタスはつとめておごそかな声でそそくさと問答を再開した。

「では最後にたずねる。この街の城壁、おまえは、もって何日とみる」

一〇日とおか

 迷いのないセルネアの即答そくとうだった。

 それはレイタスの見解とも一致いっちするものであった。

 弟子の成長を感じられて小さな喜びを得たレイタスは、だが、目の前のセルネアが悲しげにうつむくのを見て不審ふしんに思い、小首こくびかしげた。

「どうした」

「一〇日・・・・・・たったの一〇日しかもたない・・・・・・あんなボロっちい壁じゃ、街のみんなを守れないよ・・・・・・」

 セルネアの声には今にも泣きだしそうな湿しめびていた。城壁を破られたあとの、逃げる場もない市民たちのたどる末路は悲惨なものである。そんな地獄絵図を〈天覧の儀〉でまざまざと見せつけられてきた少女の悲哀ひあいがその声にはこもっていた。

「ずいぶんと手入れをおこたっていたようだからな・・・・・・」

 涙をにじませたセルネアをどうなぐさめたものか、とっさに思いつかず、レイタスは手もとの羊皮紙に視線を落とし、弟子を泣かせるほどあわれな城壁をもつ街の見取り図をイライラとにらみつけた。

「無理もないか。この街は、統一を目前もくぜんにしていたエリンデールの庇護下ひごかにあったのだからな。外敵がいてきの襲来にさらされるなど考えもしていなかったのだろう」

「この街の人たちも、おおぜいが殺されちゃうの? あたしたちが見てきた街みたいに・・・・・・」

「そうならぬように知略をつくすのが、我ら〈アズエルの使徒〉のつとめだ。我らの用兵学ようへいがくは、乱れた世にを唱えるすべにあらず。乱れた世をたいらげてたみを守護する術なり」

 誰かの野望を成就じょうじゅさせるためではなく、すみやかな平和の招来しょうらいを目的とする教団のこの理念を、レイタスは今こそ弟子に思いだしてほしかった。

「・・・・・・そうだったね」

 ほおをぬらしていた涙を指先で払って、セルネアが鼻をすすりながら無理に笑う。

 レイタスはいたわるように微笑ほほえんだ。

「よし。では、偶然の産物ではなく、実地じっち視察しさつと、深い考察からあみだされた優れた策と認め、兵の配置についてはおまえの案を採用することとする」

「ほんとに? やったァ!」

 今度は心からの笑みを顔いっぱいにひろげるセルネアに、レイタスはそっけなく言いわたす。

「だが、字の練習はしっかりしとけよ」

「もお! 人の喜びにケチつけて・・・・・・いっつも一言ひとこと多いんだから!」

「弟子の成長を思ってのことさ」

「あら、そ。感謝いたしますわ、お優しいお師匠さま」

 口もとをほころばせながら冗談を応酬おうしゅうしあう師弟していだった。



 英雄エリンデールの統一事業をささえていた家臣団のなかに、とりわけエリンデールに信頼され、重用ちょうようされていた将軍が九人いた。

 彼らを総称して〈九枚の大楯ナインシールズ〉と呼ぶのは、九人がみな、もとはエリンデールの身辺しんぺん警護をにな近衛兵このえへいだったからである。

 宮廷きゅうていでエリンデールに謁見えっけんする際は、この九人のみが帯剣たいけんすることを許され、戦場においては一万の軍勢を自由に動かせる指揮権があたえられていた。また、九人のそれぞれに広大な領地が下賜かしされており、そこの統治の一切をまかされてもいた。

 フィオラ・グランゼスは、そんな〈ナインシールズ〉のひとりである。

 女でありながら、しかも二三歳という若年じゃくねんにして〈ナインシールズ〉にじょせられているのには、ローデラン屈指くっしの名門の出であるという理由以外にも、もちろんわけがある。

 馬にまたがり、赤褐色せきかっしょくの長い髪をえり飾りのようにさっそうとなびかせて戦場を疾駆しっくするフィオラには、敵味方から〈紅炎こうえんの聖女〉という異名がささやかれるほどの武名がそなわっているのだった。

 エリンデール直伝じきでんの騎兵戦術にひいでており、男勝おとこまさりの勇猛ゆうもうな性格は味方にあつい信頼をあたえ、敵に畏怖いふの念をいだかせてきた。

 朱色しゅいろめあげられた甲冑かっちゅうに全身をつつんだフィオラが人馬じんば一体となっておどりでただけで、敵軍の前線がおそれをなして一斉いっせいに数十メートルも後退した、という武勇伝ぶゆうでんには事欠ことかかない女傑じょけつである。

 エリンデールによるローデラン統一事業の総仕上そうしあげともいうべきカルカリアの戦いでは、当然のように彼女の力が必要とされ、ニアヘイムで集結したあと北進ほくしんしてカルカリアの野をめざすエリンデールの本隊とは別に、フィオラにはシアーデルンというまちを経由して東方から後詰ごづめとしてカルカリアに急行するよう特命がくだされていた。

 ところが、不運にも長雨に見舞みまわれ、ぬかるんだ大地に人や馬の足がとられてフィオラの部隊は思うように進軍できず、シアーデルンにたどりついたのは予定よりも半日おくれてのことだった。そして、そこで初めて友軍ゆうぐんの敗北と主君しゅくんの死を知ったのである。

 信じられない、いや、信じたくもない凶報きょうほうに触れて呆然自失ぼうぜんじしつのフィオラであったが、おのれの身に差しせまった危険が彼女をすぐに正気しょうきへと立ちかえらせた。

 カルカリア方面から逃げてくるエリンデール軍の敗残兵はいざんへいを追って、バーナーム軍がシアーデルンの郊外こうがいにまでたっしようとしていたのである。

 フィオラは、カルカリアから逃げてきた友軍の負傷兵を街に収容する一方、麾下きかの全軍を動員してバーナーム軍の進路上に部隊を展開、鉄壁てっぺきの布陣をしいて迎撃げいげき態勢を整えた。

 エリンデールの鋼鉄こうてつの布陣を彷彿ほうふつとさせるグランゼス軍の整然とした陣容じんようのあたりにしたバーナーム軍は、一方的だった殺戮さつりくうたげからようやく目をまし、これ以上の深追ふかおいを断念したのであった。

 その後、フィオラは他の〈ナインシールズ〉らに檄文げきぶんを飛ばした。

「ともにくつわをならべてバーナーム伯領はくりょうへ攻め入り、陛下へいかかたきつべし!」と。

 ところが、これに対する返答は一切なく、それどころか「我こそがエリンデール陛下の正統な後継者である。これを認めぬ者は陛下のご遺志いしをないがしろにする逆賊ぎゃくぞくとして誅滅ちゅうめつせん」という、尊大そんだいにして不実ふじつな内容の書状がかつての同僚たちから次々と送られてくる始末であった。

「なるほどな。陛下をとむらうには、まず、忠臣ちゅうしんの皮をかぶったネズミどもを退治する必要があるというわけかッ・・・・・・」

 かつての同僚たちから送られてきた挑戦状ともとれる書状のすべてを暖炉だんろの火に投げこみ、それを見つめる瞳を自分の髪よりも赤く染めて、フィオラはみずからもエリンデールの後継者たらんと決意したのだった。

 レイタスがニアヘイムで書状をしたためた相手というのが、このフィオラ・グランゼスである。



「あの男、息災そくさいであったか」

 手のなかの書状を読みおえると、フィオラは美しく整った口もとを苦笑ぎみにゆがめてつぶやいた。

 シアーデルンにある、司令部として接収せっしゅうした貴族の邸宅ていたくの一室でのことである。

 火がくべられた暖炉の前にはソファがあり、そこにフィオラはよろいから解放された全身をのばしてくつろいでいた。

 フィオラに初めて会った者は、彼女にまつわる武勇伝を知っている者ほど、その楚々そそたる容貌ようぼうに我が目を疑う。

 およそ戦場で千軍万馬せんぐんばんば叱咤激励しったげきれいする猛将もうしょうとは思えぬほど、フィオラは華奢きゃしゃ体躯たいくと美しい外見のもちぬしなのだった。

 彼女に戦士としての面影おもかげを見ることができるとするなら、それは眼差まなざしであろう。黒い瞳を宿した両目が何者をもするどくとらえるため、美しく整った彼女の顔に近よりがたいけんを絶えずただよわせているのである。

 暖炉の火がゆれるたびに、室内の壁に投げられた影もゆれ動いた。そのなかにはフィオラのものとは別の影がもうひとつあった。

 その人影のぬしに、フィオラは読みおえたばかりの書状を手わたした。

 左のこめかみからほおにかけて一本の刀傷かたなきずを走らせた偉丈夫いじょうふが、受け取った書状にすぐ視線を走らせ、やがてはじかれたように顔をあげると野太のぶとい声を発した。

「これはわなです。我らをシアーデルンからさそいだす、バーナームの罠かと。あるいは、他の将軍たちの画策かくさくとも考えられます。閣下かっかが不在となったすきにこのシアーデルンをおとしいれるために」

 偉丈夫の声には、フィオラに対する忠義と気づかいがあふれんばかりにこめられていた。

 二年前からフィオラの副官をつとめるようになった男で、名をルーニという。戦士としての腕にも、部下としての忠誠心にも信頼を置けるよわい三〇の戦友だった。

 フィオラはソファのなかで上体じょうたいをおこすと、足もとに転がっていたまきを一本ひろいあげて、それを暖炉の火のなかへ無造作むぞうさに投げこんだ。

「わたしもそうかんぐっただろうな。そこにある署名と押印おういんがなければ」

 そう言われて文面の最後に視線を落としたルーニは、そこに「レイタス」という署名の他に、ひとふりの剣がえがかれているのを認めた。

 その剣は、さやから半分ほど引き抜かれていた。だが、鞘にからみついている一本のつたが剣のつかにまでのび、しばり、それゆえ完全には引き抜けない様子。

「これはなんです」

 副官のいぶかしげなといを受け、フィオラは耳にかかった赤褐色の長い髪をかきあげつつ暖炉の火を見つめて答えた。

「その押印は〈栄誉えいよある不抜ふばつ〉と言ってな。剣は力を、絡まる蔦は自制心を表わしている。ようするに、強大な力をもつ者の無思慮むしりょなふるまいをいましめたしるしだ。あの教団らしい、説教がましいシンボルさ」

「教団?」

「〈アズエルの使徒〉だ。きいたことくらいあるだろ?」

 何気なにげなくフィオラが問うと、ルーニは面食めんくらったように目をしばたかせた。

きゅう王国の建国に寄与きよしたという、あの一団ですか・・・・・・しかし、あれは旧王家が建国神話の神秘性を高めるためにでっちあげた与太話よたばなしだと思っておりましたが・・・・・・」

 ルーニと同じように、〈アズエルの使徒〉ときいて素直すなおに受け入れられる者はそう多くない。〈アズエルの使徒〉には謎が多く、伝説で語られている彼らの活躍が人なみはずれた偉業であるがゆえに、空想やホラのたぐいとしてあつかわれることがほとんどなのだった。

 およそ三〇〇年前までローデラン全土を統治していた旧王国の建国にも尽力じんりょくしたといわれており、彼らの活躍をたたえて多くの叙事詩じょじしまれているが、それすらも今では歴史的事実ではなく神話としてあつかわれることが多い。

「やつらは実在する」

 フィオラは平然と言ってのけた。

「現に、陛下とも親交しんこうがあったのだ」

「エリンデール陛下と?」

 ルーニのおどろきは当然のもので、エリンデールとアズエル教団のまじわりは家臣のなかでもごく一部のものにしか知らされていなかった事実である。

 エリンデールと教団が、いつ、どのような経緯けいいで親交を結ぶにいたったのかはフィオラの知るところではない。が、フィオラがエリンデールと出会ったころには、すでに彼の左右を使徒とおぼしきローブ姿の人物が固めていた。

 そして、彼らのくりだす神算鬼謀しんさんきぼうが戦場で数々の勝利をもたらしてきたのをフィオラはその目でじかに見てきたのだった。

「陛下の事業が短期間であそこまでったのも、半分はやつらの功績と言っていいだろう。もっとも、だからと言って陛下の偉大さはいささかもそこなわれはしないがな。けんじられたさくがどんなに優れていても、それを採択さいたくする者に深い見識とひろい度量どりょうがなければ意味はないのだ。そして陛下はそのどちらもそなえておられた」

 ゆらめく暖炉の火が、かつてエリンデールとともに囲った戦場の篝火かがりびを思いおこさせ、フィオラの意識を昔日せきじつへといざなった。

 平和への夢を語る彼の口。民の苦しみをあわれむ彼の眼差し。兵たちをねぎらう彼の声。戦場で見せる勇ましい彼の横顔。

 そのどれもがなつかしく、恋しく、彼にもう二度と会えぬという忌々いまいましい現実がフィオラの胸を狂おしいほどしめつけた。

 そんな怒りと悲しみに暖炉の火が感応かんのうしたかのようにパチリと大きくぜ、その音でフィオラの意識は現実へと引きもどされた。

「あの教団に謎が多いのはたしかだ。だが──」

 ほおのあたりに副官の視線を感じたフィオラは、そこに不敵な笑みを浮かべてみせた。

「やつらにわたしをおとしいれる理由がないのも、またたしかだ。それに、なにより陛下が守ると誓っておられたあの港町をバーナームごときにぬすまれるのはたえられん」

「ですが、軽々しく動いては、このシアーデルンを他の将軍たちに盗まれるおそれがでてまいりましょう」

 今、フィオラが麾下きかの軍勢とともに駐留ちゅうりゅうしているシアーデルンというまちは、もともとエリンデールがみずから統治していた直轄地ちょっかつちの一部で、フィオラのものではない。

 だが、南にでれば港湾こうわん都市ニアヘイムに、東に向かえばエリンデールの居城きょじょうだったウェルスハイアに、そして西に行けはバーナーム伯領と接するカルカリアの野に、と、シアーデルンは軍事的に極めて重要な場所へと通じている一大拠点いちだいきょてんである。当然、エリンデールの後継者として天下にを唱えるにはゆずれない要衝ようしょうとなるため、フィオラは自領じりょうにも帰らず居座いすわっているのだった。

 しかし、シアーデルンの重要性は、同じくエリンデールの後継者を自任じにんする他の〈ナインシールズ〉らにとっても同様で、彼らがシアーデルンの奪取だっしゅ虎視眈々こしたんたんとうかがっていることは容易に想像でき、その点をルーニは懸念けねんしているのである。

「おまえの心配はもっともだが──」

 フィオラはソファから立ちあがり、暖炉のそばまで歩みよると肩ごしに副官をかえりみた。

「わすれるな。わたしが陛下のおこころざしいでローデランに覇を唱えんとほっするのは、ひとえにバーナームに復讐ふくしゅうせんがためだ。そのバーナームが目と鼻の先まで出向いてきているというのに、むざむざ見過みすごせようかッ」

 敬愛する主君をき者にした憎き仇敵きゅうてきちゅうに見すえて、フィオラの眉間みけんに深いシワが刻まれた。が、すぐにその怒気どきをゆるめて、フィオラは指導者としての冷徹れいてつ戦略眼せんりゃくがんを示した。

「それに、ニアヘイムをバーナームに奪われれば、ここシアーデルンは後背こうはいに敵の脅威きょうい背負せおうこととなる。東に割拠かっきょしている将軍どもと対峙たいじしている今、南にまで新たな敵をかかえたくはない」

「では──」

「あの港町はこのフィオラがもらい受ける。どのみちそのつもりでいたのだ」

「承知! ただちに軍令ぐんれいを発し、ニアヘイムに向けて出立しゅったつの準備を整えます」

 ルーニは上官の意向がさだまったと知るや敬礼をほどこし、やるべきことのためにさっていった。

 歩みさる部下の鎧のひびきを耳に残しながら、フィオラはあらためて暖炉の火を見つめて別のことに思いをめぐらせた。

(〈アズエルの使徒〉は覇者はしゃたり得る者にのみつかえるというが・・・・・・レイタスよ。おまえは、わたしこそが次代じだいの覇者たり得ると、そう考えているのか? それとも・・・・・・)

 見つめる先の炎のように、フィオラの胸の内でも熱いものがたぎりつつあった。

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