セルネアは、戦いがはじまった眼下がんかの戦場に遠見とおみつつをむけた。筒の奥では、エリンデール軍とバーナーム軍が黒々としたうしおのようにうごめいている。

 両軍ともに中央の本陣を左右の翼隊よくたいが守備する横陣おうじんという陣形じんけい対峙たいじしていたが、まず動いたのはエリンデール軍中央の歩兵であった。中央の前衛ぜんえいに配置されていた歩兵部隊が前進をはじめ、その背後から弓箭きゅうせん隊がバーナーム軍に無数の矢を放って援護する。

 これに呼応こおうしてバーナーム軍中央の歩兵も前進を開始。獣皮じゅうひや板を頭上にかかげて矢の雨をしのぎつつエリンデール軍の歩兵部隊へじりじりと肉薄にくはくする。

 じゅうや大砲などの火器かきが発達して、それらが戦術に組みこまれるようになるのはまだまだ後の時代のことである。この時代ではもっぱら、人馬じんばともに鉄の甲冑かっちゅうで身を守った重装備じゅうそうびの騎兵による突撃が勝敗をわけていた。

 そして、その騎兵の運用に関してエリンデールは当代とうだいきっての名手めいしゅであった。

「エリンデール軍の左翼が動くぞ」

 両軍の歩兵が干戈かんかまじえてから三〇分ほどが経過した時、セルネアのとなりで戦場を見守っていたレイタスが興奮ぎみに声を大きくした。

 セルネアは反射的に遠見の筒をエリンデール軍左翼へふりむける。

 遠見の筒のなかで、およそ一万を数える人馬の群れが一斉いっせいに大地をみ鳴らし、バーナーム軍にむかって雪崩なだれうった。その震動が、心地よいリズムをともなって丘の上にいるセルネアの体内にまで伝わってくる。

「バーナーム軍中央の歩兵は、自分たちが前に引きずりだされていることに気づいていないな」

 レイタスの言うとおり、バーナーム軍はエリンデール軍がしかけた巧妙こうみょうわなにはまりつつあった。

 エリンデール軍中央の歩兵は、戦いながらも意図的にじわりじわりと後退していたのである。

 そうとも知らず、バーナーム軍中央の歩兵は自分たちが優勢だと錯覚さっかくして前へ前へとを進めていた。

 この、られて突出したバーナーム軍中央の歩兵部隊を、エリンデールは左翼の重装騎兵で側面そくめんから粉砕ふんさいしようとしているのである。

後手ごてにまわったエリンデールなど見たくはないからな。それでいい」

 まるで自分のことのように喜びを声にのせて語るレイタスが、セルネアには内心おかしかった。

(さっきはエリンデールが負けるかもしれない、なんて言ってたくせに、ふふ)

 結局のところ、レイタスも本心ではエリンデールに軍配ぐんばいをあげているのだろう。あるいは、ここまでの完璧な戦いぶりを見せられて、エリンデールが負けるはずがない、と心がわりしたのかもしれない。

 いずれにしてもセルネアにとっては好ましいことだった。

 ちょうどこの時、エリンデール軍左翼の重装騎兵がバーナーム軍中央の歩兵を右側面からえぐりはじめた。

 バーナーム軍の歩兵らは、突如として横から襲来した敵の騎兵部隊に対して迎撃げいげき態勢を取れぬままやりに胸を穿うがたれ、馬蹄ばていに頭を踏みくだかれ、たちまち死と狂乱の坩堝るつぼへとたたきこまれた。

 その凄惨せいさんな光景にたえかねて、セルネアは思わず目もとから遠見の筒をおろした。そして戦場のわりにとなりの若き師へと視線をむける。

「エリンデールの大鎌おおがまを今回も見られそうだね」

「ああ」

 レイタスが遠見の筒で戦場を見守りながらうなずいた。

 騎兵の破壊力を最大限に引きだせる状況を、まずは歩兵を使って整え、整うやいなや、ためらいなく騎兵を投入するその戦法はこれまでに何度も見てきたエリンデールの必勝パターンであった。

 これをやられた敵はエリンデール騎兵に前衛部隊をズタズタにされ、立てなおすいとまもあたえられず今度は右翼からの突撃に見舞みまわれるのである。

 左右から交差するようにして突撃してくるエリンデール騎兵の標的となった敵部隊は、まるで左右から大鎌をふられた稲穂いなほのようにもろくもぎたおされていく。

 そのみごとな騎兵戦術をたたえてレイタスが名づけたのが「エリンデールの大鎌」という呼称であった。

「戦場に意をそそげ、弟子よ。ついにエリンデール軍の右翼も動きはじめた。いよいよ二本目の鎌がふるわれるぞ」

 レイタスがそううながしてくる。

 セルネアは「ふう」と息をきだしてから意を決すると、ふたたび眼下の戦場に遠見の筒を向けた。戦場の凄惨な光景にはいまだにれないが、用兵ようへいという学問への強い好奇心を無視することもできなかったのである。

 セルネアが覗く遠見の筒のなかでは、左翼と同様におびただしい数の騎兵で構成されたエリンデール軍右翼が、ゆるやかなえがきつつ、左翼の突撃で混乱状態にあるバーナーム軍歩兵部隊の左側面を今まさにつこうとしていた。

 疾走しっそうしながらき鳴らされた勇壮ゆうそう角笛つのぶえに、エリンデール軍右翼の騎兵部隊はドッと喊声かんせいをあげて応じ、片手でたくみに馬をぎょしながらもう一方の手にある槍を水平にかまえる。

「すごいね・・・・・・あれだけの数の人馬が、あれだけの速度のなかでまったく隊伍たいごを乱してないよ」

 遠方のため、遠見の筒を用いても兵士ひとりひとりの表情まではうかがい知れないが、それでも彼らの一糸いっし乱れぬ挙動きょどうが、戦いに対して不安や迷いをつゆほどもいだいていないことを教えてくれていた。

「エリンデールへの忠誠、いや、信仰がそうさせているのだろう。誰もがエリンデールの正義を心から信じ、彼のためなら死んでもかまわないとすら思っているにちがいない。まさしくローデラン全土をべるにふさわしい男さ、エリンデールは」

 レイタスの感嘆かんたんに、セルネアは無言でうなずきつつ遠見の筒を覗きつづけた。

 戦場では、左の大鎌につづいて、いよいよ右の大鎌がバーナーム軍中央の前衛部隊にとどめを刺すべくふるわれようとしていた。

 この右翼の突撃が成功すれば、バーナーム軍の中央戦線は一気に崩壊し、防壁ぼうへきをうしなったバーナーム軍の本陣がエリンデール軍の前にさらけだされることとなる。その無防備となった本陣に向かってさらなる突撃を敢行かんこうし、バーナームはくベルランの首級しゅきゅうをあげることができれば、晴れてエリンデールの勝利となり、ローデランの戦乱に終止符がうたれるのだ。

 だが、不意にレイタスの口からいぶかしげな声がもれた。

「どういうことだ・・・・・・」

 声の調子に不穏ふおんなものを感じ取ったセルネアは、遠見の筒をおろして若き師をふりかえった。

「どうしたの?」

 だがレイタスは答えず、食い入るように遠見の筒を覗きこんでいる。筒の先がバーナーム軍のほうにむけられているのを知り、セルネアもあわてて遠見の筒を右目にあてなおしてバーナーム軍を見おろした。

 しかし、セルネアにはレイタスの動揺したわけがまったく理解できなかった。

 バーナーム軍中央の前衛部隊は、エリンデール軍の左翼につづいて右翼からの突撃にもさらされ、今や立てなおしが不可能なほどの壊滅かいめつ状態におちいっていた。バーナーム軍の歩兵たちは薙ぎたおされ、地にし、あるいは逃げまどい、背後の本陣を守る防壁の役目をまるで果たしていない。

(エリンデールの大鎌が成功したんだから、当然だよ)

 そうセルネアは思うのだが、レイタスの目にはなにかが異様に映っているようだ。

 それを素直にたずねるのがしゃくだったので、セルネアは遠見の筒で戦場をながめながら何気なにげなさをよそおって質問した。

「ん~っと、そうだね、一体どういうことだろうね、これは。レイタスはどう思う?」

「おまえ、なにもわかってないだろ」

「う・・・・・・」

 あっさり見すかされて、セルネアはほおが熱くなるのを感じながら降参こうさんした。

「なにがそんなに不思議なの?」

「今まで俺たちが見てきたエリンデールの戦いを思いだしてみろ。エリンデールの大鎌をふるわれた相手は、そのあと、どう対処していた」

「そのあと? え~っとォ、たしかァ──」

 セルネアは遠見の筒をおろし、青空を見あげながら意識を戦場から過去の記憶へとうつした。

くずれかかった戦線を立てなおすために、後方の予備兵力をどんどん投入してた、かな」

「そう。場あたり的で、しかも後手にまわった下策げさくだが、やれることはそれくらいだ。だが、バーナーム軍を見てみろ。予備兵力を投入して戦線を立てなおすどころか、無防備となった本陣正面を守ろうともしていない。本陣の正面はガラあきのままだ」

 それをたしかめるためにセルネアは遠見の筒を覗き、やがて納得してうなずいた。

「ほんとだ・・・・・・まるでさそってるみたい」

 思ったことを素直にもらしたセルネアの感想を、レイタスが深刻な声でくりかえした。

「さそってる・・・・・・そうかッ──」

 なにかに思いあたった様子のレイタスが遠見の筒を覗きこんだ、その直後、エリンデール軍中央から角笛の朗々ろうろうと鳴りわたり、それに応えてドッと喊声がわきあがった。エリンデールみずから陣頭じんとうに立って指揮をとる近衛このえ騎兵団およそ一万が突撃をはじめたのである。

 その矛先ほこさきは、前衛を完膚かんぷなきまでに崩されて無防備な正面をさらけだしているバーナーム軍中央の本陣。

 エリンデールはみずからの手で勝利を決定づけようと、敵の本陣に向かって一大突撃を敢行したのである。

「ダメだッ、まだ早い!」

 丘の上で発したレイタスの叫びが戦場にいるエリンデールの耳にとどくはずもなく、近衛騎兵団は赤竜せきりゅう軍旗ぐんき颯爽さっそうとなびかせ、槍をかまえ、流れるように疾駆しっくした。馬蹄で敗北を踏みにじり、槍の穂先ほさきに勝利と栄光をかかげんがために。

 だがこの一大突撃はエリンデールに勝利と栄光をさずける前に、ローデランの戦史に稀有けうな展開をもたらすこととなる。

 突撃するエリンデール率いる近衛騎兵団と、その突撃を真っ向から受けて立つかのようにまちかまえているバーナーム軍中央の本陣が、今まさに接触しようとしたその瞬間、それまで左右両翼りょうよくの後方にひかえていたバーナーム軍の騎兵団が突如とつじょとして始動した。

 左右あわせて一万二〇〇〇にもおよぶバーナーム騎兵団が一斉に馬腹ばふくってけだし、後方からまわりこむような弧を描いて、窮地きゅうちにおちいった本陣の正面を目指しはじめたのだ。彼らの進路をさえぎるものと思われていた味方の歩兵部隊はエリンデール軍によって壊滅させられており、皮肉なことに彼らの進撃をはばむ障害はなくなっていた。

「エリンデールは、あの敵の動きに気づいてるの?」

 不安を覚えたセルネアはとっさに若き師をふりかえり、安心できる回答を期待した。

 だが、レイタスは遠見の筒を覗きこみながら声を暗くひびかせる。

「おそらく気づいてはいまい。俺たちは高みから戦場を見おろしているから両軍の動きが手に取るようにわかるが、戦っている当事者たちが戦場全体の様子を正確に把握はあくするのは至難しなんのわざだ」

 たとえ気づいていたとしても、バーナーム軍本陣を正面から突撃によって深くえぐりはじめたエリンデール近衛騎兵団に立ち止まることは許されなかった。彼らは今、敵の群れのまっただなかにいるのである。立ち止まればまたたく間に敵に包囲されてしまうだろう。ゆえに立ちはだかる敵をり伏せ、薙ぎ払い、馬蹄で踏みつぶして、ひたすら敵中を突き進むしかない。それだけが彼らに残された唯一の活路であった。

 そのことをじゅうぶんに自覚しているのか、エリンデール近衛騎兵団の突撃は中断されることなくバーナーム軍本陣を圧倒し、蹂躙じゅうりんし、大打撃をあたえていた。その勢いを止められる者はおらず、このままエリンデールの近衛騎兵団がバーナーム伯の本陣を粉砕するかに思われた。

 ところが──。

「速い・・・・・・」

 レイタスがうなるように称賛した。

 称賛の対象はバーナーム軍の騎兵部隊である。彼らがおどろくべき速さで左右から襲来したのだった。

 速さの秘訣ひけつはバーナーム軍騎兵の装備にあった。重装備のエリンデール軍騎兵とは異なり、かぶとの他は鉄の胸甲きょうこうしか防具を身につけていない軽装けいそう騎兵のみで構成されていたのだ。彼らの乗馬もくらあぶみだけの軽装である。

 軽騎兵は重騎兵とくらべて防備に劣るぶん、機動速度に優れている。

 その卓越たくえつした機動力で疾風しっぷうのごとく主戦場にかけつけたバーナーム軍の軽騎兵団が、本陣に深々と突き刺さって動きがにぶくなっているエリンデール近衛騎兵団にためらわず襲いかかった。左右から突撃し、あるいは後方にもまわりこんで退路たいろを断ち、次々と突撃を敢行する。

 思わぬ敵の急襲にエリンデール近衛騎兵団は防御をいられ、そのため、突撃がついに止まった。のみならず、反攻はんこうに転じたバーナーム軍本陣が前方から、かけつけたバーナーム軍軽騎兵団が左右と後方からおしよせ、たちまち包囲殲滅せんめつされる危機におちいった。

 主君しゅくんの窮地を救おうと、今度はエリンデール軍の左右両翼が動きだす。が、その意図はバーナーム軍に察知され、バーナーム軍が投入した予備兵力によって進路を阻まれて立ち往生おうじょうし、本懐ほんかいをとげられない。

 形勢けいせいは瞬く間に逆転した。

 戦場を見おろすレイタスの口から感嘆にも似た吐息といきがもれる。

「バーナーム軍は、これあるをして、あえて騎兵を後方に配置していたのか・・・・・・」

 このつぶやきをきいてセルネアもようやく理解した。開戦前は狂気じみているように思えたあの布陣が、実は高度に計算されたものだったのだ、と。

 エリンデールの大鎌によって中央の前衛部隊が無様ぶざまに壊滅することも、そのせいで本陣の正面が無防備になることも、そして無防備となった本陣にエリンデールがみずから決定打をくだしにくることも、バーナーム軍は開戦前から想定していたのである。

 とはいえ、まかりまちがえば本陣を一気に突破され、総大将をうしなって全軍潰走かいそうとなりかねない、きわどい戦術である。そんな博打ばくちじみた作戦を、自分の未来がかかった一大決戦で実行できるほどの度胸どきょうがバーナーム伯にあるとは思えない。

 この奇策きさく立案りつあんし、指揮している人物は他にいる。

「何者なんだ。バーナーム伯を補佐している軍師は・・・・・・」

 レイタスのつぶやきは、開戦前にセルネアがいだいた疑問と同じであったが、その深刻さはまったくちがっていた。

 今や戦いの形勢は完全に逆転しており、エリンデールと彼の近衛騎兵団はバーナーム軍の包囲もうのなかでもだえ苦しんでいた。総大将をち取られる危機にひんしているのはエリンデール軍のほうである。

「うそ・・・・・・うそだよね、レイタス・・・・・・」

 セルネアは目から遠見の筒を離せなかった。信じられない光景が眼前で展開されている。それでも目をそらすことができず、ただただ声を弱々しくふるわせた。

「現実だ。これが戦いのおそろしさだ。よく覚えておけ」

 そうさとすレイタスの声も、現実を完全には受け止めきれていない様子で苦々にがにがしくかすれていた。

「逃げて、エリンデール・・・・・・お願いだから逃げて・・・・・・」

 セルネアは願わずにはいられなかった。

 エリンデールがここで死ぬようなことになれば、統一による平和を目前もくぜんにしていたローデランはふたたび分裂と混乱に支配された乱世に逆もどりしてしまう。それだけは絶対にけなくてはならなかった。この戦いに負けても、エリンデールさえ無事に逃げのびてくれれば彼の声望せいぼうがふたたび兵を集め、統一事業を再開させられる。

「あなただけは死んじゃダメなの、絶対に・・・・・・だから、お願い、逃げて・・・・・・生きのびて・・・・・・」

 祈るようにつぶやきながら、セルネアは遠見の筒で赤竜が描かれたエリンデールの本隊旗ほんたいきをさがした。そのはたがたおれていなければ彼は健在だという証拠である。

 だが、人馬が右往左往うおうさおうし、煙のごとく舞いあがる砂塵さじん捜索そうさくを困難にしていた。

 そして無情むじょうにも、旗を見つけだす前に、エリンデールの死を予感させる出来事が戦場に現れはじめた。

 エリンデール軍の各部隊が味方と連携れんけいすることなく、各自で勝手に判断して戦いはじめたのである。そのせいでエリンデール軍は組織的な戦いができなくなり、戦場のいたる所で各個に撃破されつつあった。

 エリンデール軍の各処かくしょ音調おんちょうの異なる角笛のがひっきりなしに鳴りつづける。各部隊の指揮官がエリンデールに指示をあおいでいるのだ。が、それらにこたえるエリンデールからの角笛の音は一向にかえってこない。そのさまは、まるで迷子が泣きながら母親の名を叫んでいるようでもあり、あるいは、死にゆく者の最期さいご断末魔だんまつまにもきこえて悲愴感ひそうかんに満ちていた。

「エリンデール軍の指揮系統けいとうが乱れている! 部隊の指揮官たちがエリンデールを見うしなっているんだ・・・・・・」

「それって・・・・・・どういうこと?」

 セルネアはたずねながらも答えを知っていた。その答えを受け入れるのがこわくてレイタスに否定してほしかったのである。

 レイタスが遠見の筒をおろし、セルネアをいたわるように見つめてきた。

「エリンデール軍のあの混乱ぶりからして、おそらく・・・・・・彼は乱戦のなかで命を──」

「うそだ!」

 ききたくもない言葉をセルネアは叫んで打ち消した。

「そんなのうそに決まってる! あのエリンデールが・・・・・・ローデランに平和をもたらしてくれるあたしたちの英雄が死ぬわけない!」

 セルネアは戦場に遠見の筒をむけてさがしつづけた。エリンデールの姿か、もしくは彼の所在しょざいを示す大きな本隊旗を。

 だが、彼の姿を求めて戦場を注意深く見つめたせいで、エリンデール軍の敗色はいしょく濃厚のうこうであることがいやでもわかってしまった。

 それでいて肝心かんじんのエリンデールは一向に見つからず、さらに、あふれる涙が捜索を邪魔しはじめてセルネアをますます苛立いらだたせた。

「どうして・・・・・・どうしてエリンデールが負けるの? あとちょっとで、あたしたちの国に平和をもたらしてくれるはずだったのに、どうしてッ・・・・・・」

 言葉の最後は嗚咽おえつにかき消された。セルネアは遠見の筒をおろし、現実に背を向けたい一心いっしんで戦場から顔をそらした。

 すると、となりからきびしい声が飛んできた。

「涙を払って戦場を見るんだ。〈天覧てんらん〉を最後までやりとげろ、セルネア」

「・・・・・・もう・・・・・・やだよ・・・・・・」

 平和への希望が、願いが、自分の胸のなかで小さくしぼんでいく。その喪失感そうしつかんがセルネアからすべての意欲をうばっていった。

 だがレイタスは容赦ようしゃしてくれない。

う、弟子よ。エリンデールの敗因はなにか」

 〈天覧の儀〉では、観戦したあとに勝者と敗者をわけた原因を師弟で問答もんどうしながら明確にするのがならわしとなっている。

 レイタスはいつものようにその問答をしかけてきたのだが、セルネアは考える頭をもてず、駄々だだをこねた子供のようにはげしく頭を横にふって飴色あめいろの髪を散らした。

「そんなのわかんないよッ」

 ついには立っている気力もなくし、セルネアの体はヘナヘナとその場にくずおれた。

「心で答えるな。頭で答えよ」

 座りこんだ地べたで両手に顔をうずめて泣いているセルネアの頭上に、どこまでも冷静なレイタスの声が落ちてくる。

「もう一度、問う、弟子よ。エリンデールは死んだ。その原因はなにか」

 レイタスの直接的な表現が、泣いているセルネアをおどろかせて体をビクリとふるわせた。だが、はっきりとそう言われたことで、セルネアの心のなかにようやく現実が浸透しんとうしてきた。

(エリンデールは・・・・・・死んだ・・・・・・)

 ヒック、ヒックと肩をゆらしながらセルネアは両手で涙を払い、赤くした鼻をすすりあげると、頭をめまぐるしく働かせた。

(どうして・・・・・・彼は勝ってたのに、どうして負けたの・・・・・・)

 英雄をうしなってなげき悲しむひとりの少女とは別の、〈アズエルの使徒〉の弟子としての探究心たんきゅうしんが、今しがた見た戦いの流れひとつひとつの意味をさぐりはじめている。

「・・・・・・お答えします、師よ」

 やがてセルネアは、問答の際の独特な言いまわしで語りはじめ、地面を見つめながらぽつりぽつりと言葉をつむいだ。

「エリンデール軍の、左右の両翼による騎兵の突撃はこうそうしていました。でも・・・・・・でも、そのあとの中央からの突撃は性急せいきゅうで、バーナーム軍の特異な陣形に注意をおこたり、不用意にうたれた悪手あくしゅのように見えました。それが自軍を窮地へ追いやるはめとなり、さらに、司令官が乱戦のなかで所在を不明にし、指揮系統を堅持けんじできなかったことが全軍の立てなおしを不可能にしたものと、思われます・・・・・・」

「そのとおりだ」

 泣いたあとに特有の鼻声で懸命けんめいに答えたセルネアをねぎらうかのように、レイタスの声音こわねはやわらかい。

「いかなる英雄も、自軍が優勢となった最後の一大決戦では気も大きくなろう。エリンデールほどの大人物だいじんぶつでさえそんな慢心まんしんと無縁ではいられなかったのだ。バーナーム軍はその心理につけこんでみごとな戦いを展開した。エリンデールの敗北は、彼の落ち度だったと言うよりも、バーナーム軍の優れた術策じゅっさくがもたらしたものと言えよう」

 不意に、丘のふもとでドッと喊声がわきあがった。

 遠見の筒を用いなくても、エリンデールの全軍が遁走とんそうしはじめているのが見てとれる。その背中を、殺戮さつりくの血にいしれたバーナーム軍が嬉々ききと追いかけまわしていた。

「立て、セルネア」

 顔をあげたセルネアの眼前に、レイタスの右手が差しのべられてきた。

「立って、最後までこの戦いを見とどけよ。負けてはならぬ者が負けた戦いをその胸に刻み、のちの世に語りげ。それも我ら〈アズエルの使徒〉のつとめだ」

「・・・・・・・・・」

 セルネアはゆっくりと右手をのばして、それを師の右手に重ねると、自分をはげますように大きく息を吸いこみ、すっくと立ちあがった。それから両手でごしごしと涙をぬぐう。

 泣きはらした赤い目で見おろしたカルカリアの草原は、今やバーナーム軍の制圧するところとなり、威勢いせいほこっていたエリンデール軍の兵士らはりになって逃げまどっていた。

「たったひとつのミスで五万五〇〇〇の精鋭せいえい烏合うごうしゅうに、負けた・・・・・・」

 戦いというもののおそろしさに身ぶるいする一方で、勝算しょうさんをわずかでも高めるために古代から研究されつづけている用兵学ようへいがくの重要性を、セルネアはまざまざと見せつけられた思いであった。

 英雄エリンデールが敗死はいしするという衝撃的な結果を残して、カルカリアの戦いが幕をおろそうとしている。

「世が、また乱れるか・・・・・・」

 レイタスが嘆くようにつぶやいたこの言葉がセルネアには印象的だった。

 統一と平和の象徴でもあった英雄の敗北と死は、ローデランをふたたび混迷こんめいへと立ちかえらせるだろう。それは同時に、軍師たる〈アズエルの使徒〉が重用ちょうようされる乱世の再来をも意味した。

(だったら、あたしがをもって招来しょうらいしてみせる!)

 セルネアが胸のうちで強く念じたのは、戦神アズエルの教えのひとつであった。

 智をもって治を招来す──。

 優れた知略で動乱をしずめて世をたいらかにせよ、という使徒の使命をいた一節である。

 血煙ちけむりと土煙が支配する戦場を見おろして、遠見の筒をグッとにぎりしめながら、セルネアはその教えの実践じっせんを固く心にちかっていた。

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