戦神のガントレット
おちむ
第一章 戦雲のゆくえ
1
丘の
その瞬間、ふもとから吹きあげてきた野風がセルネアの髪をやさしくなでた。肩にかかった
身にまとっていた
そんな髪や衣服の乱れを気にもとめず、セルネアの青い瞳は丘のふもとにくぎづけだった。
「う~ん・・・・・・」
だが思っていたほどには目的のものがよく見えず、背後をふりかえって叫んだ。
「早く、レイタス! おわっちゃうよ!」
そこかしこに緑を
それに応じた声は、あきれたようなひびきをともなう若い男のものだった。
「そうあわてるな。まだはじまってもいないさ」
男は、セルネアと同じく全身をゆったりとした白亜色のローブでおおっていた。ただしその両手には、セルネアとちがって、
今はフードを背中にたらし、黒く短い頭髪を野風にさらしていた。腰にひとふりの剣を
歳はちょうど
「まだはじまってないなんて、どうしてレイタスにわかるのさ!」
セルネアのなじるような
「よく見ろ。
「・・・・・・・・・」
セルネアは雲ひとつない青空を見あげ、もう一度、丘のふもとの静かな草原を見おろして、レイタスの言葉の正しさを認めた。冷静になって耳を
完全にセルネアの早とちりである。が、それを素直にあやまるのがくやしかったセルネアはムッとした
「早くかしてよ」
「かしてください、だろ? ったく、いつになったら師に礼をつくす」
レイタスは真面目くさった顔で不平を鳴らしつつ、腰のベルトに差していた細長い
(ほんとだ。まだはじまってない・・・・・・)
レイタスの言ったとおり、遠くの景色が拡大されて見える筒のなかで、ふたつの異なる集団は距離をおいて静かに
どちらの集団も、
軍隊という名の、同族を守るために、あるいは同族を殺すために人類が生みだした究極の組織であった。
やさしく吹きわたる野風に色とりどりの
そのきらめきのなかから、セルネアはひとつの
黒地に、伝説上の怪物である赤い竜を
それをかかげて戦場に現れる人物も、ただひとりしかいない。
(みつけた!)
セルネアの胸がキュンとしめつけられる。人混みのなかで愛しい人をさがしだすことができた乙女のように。
その騎士は、白銀色の
〈
彼こそが、ローデランの天空に長年わだかまって地上に
多くの人にそう
「では、開戦する前に、この戦いの
レイタスが
突如としてはじまった講義に、セルネアは不満を隠さず青空をあおいで
「ええ~。それ、やんなきゃダメ~?」
「ダメだ」
「ぶ~」
頬をふくらませてブーたれるセルネアを無視して、レイタスは眼下の平野をながめながら淡々とした口調で講義をはじめた。
「ローデラン全土を統治していた
「え~っと──」
答えはわかっていたので、頭のなかで言葉をしっかり整理してからセルネアは口をひらいた。
「やっぱり、貴族たちが民衆の暮らしを
「そうだ。
「でもでも! そんな暗い時代に救世主のごとく
「ああ。
「それも時間の問題だね」
「そう簡単な話ではない」
レイタスの表情と
「だれもがエリンデールを慕っているわけじゃない。彼にも敵はいる。いや、英雄と称えられているがゆえに、彼に
「やだねェ、嫉妬深いやつって」
「反エリンデール陣営の
「まるで旧王家の亡霊だね」
「なかなかいい
「へへ、でしょ」
笑顔で自画自賛するセルネアに、レイタスはあきれぎみの苦笑を浮かべたあと
「この戦いの意義は、ようするに、その亡霊をエリンデールが退治できるかどうか、という一点にある。おそらく、この戦いがエリンデールの統一事業における最後の決戦となるだろう。バーナーム伯が敗れたあとは、エリンデールに
「もし、バーナーム伯が勝っちゃったら?」
そんな事態になることなど
レイタスが投げやりな調子で肩をすくめる。
「そうなれば、エリンデール打倒という目的を達成した貴族たちがふたたび互いに反目しあって、民を顧みることなく覇権争いをくりかえすだけさ」
「乱世のまんまってわけね・・・・・・」
仮定の話とはいえ、共通の敵をうしなった貴族たちの
「でも、そんなことにはならないよ。だって──」
セルネアは声に力をこめて、不快な未来像を
「エリンデールは勝つもん! 勝たなきゃダメだもん!」
ローデランを混迷のどん底へと追いやった
歴史的にも
レイタスの教師
「よし。この戦いの意義はわかっているようだな。では次に、エリンデール軍の陣容を観察するぞ」
「エリンデールの
「
「わかってるって」
これからじっくり
仏頂面のまま遠見の筒で眼下をながめていると、となりのレイタスもようやく遠見の筒で戦場を観察しはじめたのが気配で伝わってきた。
「ふむ。さすがだな」
レイタスがひかえめに
「あいかわらず隙のないみごとな布陣だ。エリンデールと正面からやりあうのは
「
セルネアは、まるで自分のことのようにエリンデール軍の完璧な布陣を
レイタスもその評価に異議はないらしく、彼は遠見の筒で両軍を観察しながら別のことを口にした。
「では、いつものように両軍の戦力分析をはじめるぞ。まずはエリンデール軍からだ」
「ん~っと──」
セルネアは素直に言われたとおりのことをはじめた。遠見の筒でエリンデール軍をつぶさに観察しながら、レイタスに教わった手法を用いてエリンデール軍の戦力をさぐりはじめる。
軍隊とは
これは、軍隊の規模を割りだす際の理屈をのべたもので、蜂の巣が、小さな六角形の部屋を数えることで巣の大きさを数字として表せるように、軍隊も、六角形の小部屋に
この教えにしたがってセルネアはエリンデール軍の戦力をはじきだした。
「旗の数から計算すると、エリンデール軍は
「いいぞ。では次、バーナーム軍はどうだ」
「えっと──」
セルネアは遠見の筒を反対側にふりむけて、その奥で風にはためいている
「バーナーム軍の戦力は歩騎あわせて、およそ四万とォ・・・二〇〇〇・・・かな?」
自分がはじきだした解答に自信がもてず、それが語尾に影響して弱々しくなった。が、レイタスの反応がセルネアをホッとさせる。
「そんなところだろう。よし。
レイタスが顔から遠見の筒をおろし、セルネアに
セルネアは得意になって胸をやや
「だが、目算による分析はあくまでも推計にすぎない。正確に
「・・・は~い・・・」
まのびした不真面目なセルネアの返事は、ほめてもらえるかと思いきや説教されてしまったことへの不満のあらわれである。
「それにしても──」
ふたたび遠見の筒を右目にあてたレイタスが、眼下を観察しながら
「バーナーム軍の
「でも、しょせんは
セルネアのバーナーム軍への評価はにべもない。
「兵力に一万以上ものひらきがあったら勝ち目なんてないし、そもそも、エリンデールが相手じゃ、どんな
「バーナーム伯は反エリンデール勢をまとめあげるのがおそすぎたな。そのツケを、この戦いで払わされることになるかもしれん」
内乱が
家名や財力という点においてバーナーム伯は他の軍閥よりも頭ひとつ抜きんでていて、内乱が勃発した当初は中小の諸侯をまとめあげて急速にその勢力を拡大させたものである。
だが皮肉にも、大きくふくれあがった組織を統率できるだけの資質が歴代の
そして現在も当主の資質に改善は見られず、エリンデールが統一事業を着々と前進させている時に、バーナーム伯ベルランは後継者問題で一族との間に
「バーナーム伯は負けるべくして負けるようなもんだね」
セルネアは遠見の筒の先をエリンデール軍からバーナーム軍へとうつし、適当にその陣容を見わたした。
統一と平和──。
この
「とはいえ、バーナーム伯の陣容もなかなかに興味深いぞ。よく見てみろ」
となりのレイタスにそう
(興味深い? どこが・・・・・・)
遠見の筒を覗きこみながら当初は内心で首をひねっていたセルネアだが、徐々にバーナーム軍へそそぐ視線が真剣なものへとあらたまっていった。
そして重要なことに気づく。
「騎兵の配置が深すぎる・・・・・・」
思わずこぼしたセルネアの感想に、レイタスがうれしそうな声で同調した。
「そのとおりだ」
弟子の鋭い
「騎兵は機動性を確保してこその
「なに考えてんだろ、バーナーム伯は・・・・・・」
バーナーム伯を心配したわけではなく、純粋な疑問からセルネアは小首を傾げた。
「後衛にさげてでも騎兵を温存しておきたいなにかを
レイタスが冗談めかして肩をすくめる。
「突撃の際は味方を
レイタスのこの発言を、セルネアは頭のなかで真剣に考えてみた。
「誰なんだろ・・・・バーナーム軍の指揮官は・・・・」
総大将はむろんバーナーム伯ベルランであろう。が、彼はどちらかといえば正攻法を好む猛将であり、
そんなバーナーム伯に奇をてらったようにも見える異常な布陣を進言し、実行させた誰かが必ずいるはずで、その者への関心がセルネアの胸中で急速に
レイタスなら知っているのではないかと思い、セルネアは遠見の筒をおろして、かたわらの若き師に青い瞳をふりむけた。
レイタスが
「俺にきくなよ。この戦いにおける情報収集の一切は、おまえに
「え? そ、そうだっけ・・・・・・」
そう言われてみると、そんなようなことを一週間ほど前にレイタスから命じられたような気がしてくるセルネアだった。情報の収集も弟子の立派なつとめである、と。
(あちゃ~・・・・・・)
気まずい沈黙が濃度を増していくにしたがって、レイタスの目が疑わしげに細くなっていく。
「まさか、おまえ・・・・・・師からあたえられた課題をやりわすれました、なんて言わないよな?」
「え~っとォ・・・・・・」
青空を見あげてごまかすセルネアを見て、レイタスは心底からあきれたような深いため息を吐きだし、小さく
「やれやれ・・・・・・俺は熱心な弟子をもてて幸せだよ。言われたことを
「そんな
ひとつのミスに、
「はいはい、そうですとも! 情報収集するのわすれてましたとも! だからなんなのさ! だいたい、あたしひとりですべての情報を集めろってほうがおかしいんだよ! そんなに大事な情報ならレイタスが自分で集めればよかったじゃんか!」
すると、レイタスも師匠の仮面をかなぐりすてて感情をむきだしにしてきた。
「なんだッ、その口のきき方は! 師の言いつけも守れない上に礼儀もわきまえん弟子は
「あ~ら、お師匠さま、ずいぶんとおもしろい冗談が言えるようになったんだね」
嫌味たっぷりの意地悪な笑みを浮かべたあと、セルネアは真顔にもどして鋭く言い放った。
「できるもんならやってみな! 長老会の許可もなく弟子を破門にできるのならね!」
「くッ・・・・・・」
弟子の破門は師の独断では行えない特異なしきたりをセルネアが思いださせると、レイタスはくやしそうに唇を
「フンだ!」
セルネアは勝ち誇って鼻を鳴らし、プイと顔をそらしてさらに強がった。
「どのみち、この戦いがおわればローデランはエリンデールの名のもとに再統一されて、そのあとにくるのは平和と再建だから、戦いなんてなくなる。そうなれば、レイタスと組んで旅をすることもなくなって、
「本気でそんなことを言っているのか?」
「もちろん本気だよ」
破門だ、なんて言われたものだから、売り言葉に買い言葉で強がってみせたセルネアだが、レイタスの反応は思いのほか深刻なものだった。
「おまえには失望したぞ、セルネア」
「え?」
セルネアが思わず若き師をふりかえったのは、めずらしく名前を呼ばれたからではなく、レイタスの声に軽蔑と落胆がこめられていたように感じたからである。
「この一年、俺のもとでなにを学んできた」
「なにって・・・・・・」
口ごもって視線をそらしたセルネアは、頬のあたりに突きささるレイタスの鋭い視線に動揺した。そんなセルネアの耳に、若き師の怒りをおさえたような低い声が流れこんでくる。
「さきほどからエリンデールがすでに勝ったかのような口ぶりだが、戦いのゆくえが思いもかけない小さなきっかけで大きく様がわりするのを、おまえはその目で何度も見てきたはずだ。なのに、エリンデールだけにはそれがおこらないと、どうして断言できる」
どうやらレイタスは
「だって──」
口喧嘩では威勢がよかったものの、レイタスに軽蔑されたり失望されたりするのは本意でなかったセルネアはしょぼくれて、手のなかの遠見の筒を無意味にいじりながら弁解した。
「だって、あのエリンデールだよ? 誰もがローデランの戦乱と分裂をおわらせてくれるって信じてる英雄が、誰かに負けるなんて・・・・・・」
エリンデールを神のように
「わすれるな、セルネア。何者が指揮しようとも戦いの勝敗に絶対はない。だからこそ我らが必要とされるんだ。数々の敗因を取りのぞき、勝利の可能性をわずかでも高めるための軍師がな」
「じゃあ、レイタスはエリンデールが負けるって言うの?」
負けるはずがない、という確信をこめたセルネアの
「じゅうぶんにありえることだ。バーナーム軍の整然とした布陣を
「そんな・・・・・・」
口では
レイタスが、
「おまえはもともとローデランの出身ゆえ、エリンデールにいれこんで祖国の再統一に並々ならぬ情熱をいだくのは当然だ。だが、その感情が一線をこえるようなことがあってはならない。
「あたし、まだ弟子だもん・・・・・・」
不服をこめてセルネアが言いかえすと、レイタスは
「ああ、そのとおりだ。その自覚があるのはおおいに結構。なまいきな口ばかりきくもんだから、てっきり自分の立場をわすれているのかと思っていたよ」
「またそうやって嫌味をッ──」
口喧嘩が再発しかけたその時、レイタスの口から思いがけない言葉が飛びだしてきて、それがセルネアの
「この戦いを最後に、おまえの〈
「え?」
それは、セルネアにとって
この言葉をもう何ヶ月もまちこがれていて、その日が遠ざかったような気がすることはあっても、近づいた気がしたことなど一度もなかったため、いざその日をむかえると喜びよりも先に疑いが
「・・・・・・ほんとに?」
ささやくような小さい声で確認するセルネアに、レイタスは微笑みながらうなずいた。
「今朝、長老会からお許しの書状がとどいた。〈天覧の儀〉をおえて〈
〈アズエルの使徒〉の弟子に
レイタスのもとで様々な戦いを見学してきたセルネアは、ようやく〈天覧の儀〉を修了し、次の段階である〈修羅場の儀〉にうつることを許されたのであった。
〈修羅場の儀〉とは、師とともに戦場に立って
セルネアにとってはまちにまった念願の進級だった。
「高みから戦場を見学するのはこの戦いで最後だ。次はいよいよ、俺とともに軍師として戦場に立つ身となる。心せよ、我が弟子よ」
どうやらレイタスは、前々からセルネアの進級を頭の固い長老たちに
そうとも知らず、あの口喧嘩。今までの無礼の数々・・・・・・。
そう思うと現金なもので、セルネアは
「ありがとうございますッ、お師匠さま!」
「わかりやすいやつだな・・・・・・」
あきれたように苦笑するレイタスは、だが、すぐに表情を引きしめて再び教師の顔になった。
「まずはこの戦いに意をそそぐことだ。よく観察し、よく学べ」
「はい!」
「風なき湖面のごとく穏やかな心で戦場の
「はいッ、先先!」
「ほんと、わかりやすいな、おまえ・・・・・・」
レイタスがふたたび苦笑したその時、丘のふもとから野風に乗って角笛の
地図にカルカリアと記されている草原で、エリンデールとバーナーム伯が互いの未来をかけて
それは同時に、ローデラン全土の
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