オッドアイ(狼夫婦の物語)

宮川凛太郎

狼の夫婦

 おれは生まれながらの狼人間だ。昼はごく普通の高校生にすぎないが、夜になると狼人間になる。狼人間は満月の夜だけ変身するのが定番だが、おれは、半月だろうと、三日月だろうと、曇り空だろうと、夜になれば、きちんと狼人間になることができる。しかも、自分の意思で簡単に人間に戻ることもできる。つまり、自由自在だ。もっとも、映画のように顔や体が毛むくじゃらになるわけじゃない。ただ瞳の色が変わるだけだ。右が青、左が緑。「オッドアイ」ってやつだ。猫の場合オッドアイは幸運を呼ぶと言われているらしいけど、狼人間はどうかな。


 狼人間になったおれは、誰かをかみ殺すなんて野蛮なことはしない。たいていは、森の中を疾走したり、河を飛び越えたりして、自分の人間離れした身体能力を楽しむ。また、嗅覚や聴覚も狼と同様になるので、じっとしていても、多様なにおいと音で満たされた新鮮な世界を感じることができる。残念なのは視覚で、視野は広がるが、色が失われる。狼人間には、モノクロの世界しか観えないらしい。

 とはいえ、「人間の天敵」という役割を完全に放棄したわけではない。気にくわない人間の記憶を少しばかり破壊することがある。やり方は、実に簡単。オッドアイで、相手の瞳をしばらく見つめるだけでいい。やがて相手は、うつろな目になり、おもに自分に関係する記憶を失ってしまう。原理はわからない。催眠のようなものかなと思っている。


 おれのこうした能力や行動は誰も知らない。けれども人間には、太古からの本能のようなものが残っているのだろう。そのせいか、おれは誰からも、うとまれてきた。だから、友人も恋人もおれとは無縁だった。実の両親でさえ、おれを煙たがった。おれは文字通り「一匹狼」だった。


 この国の狼は、明治時代に滅びたという。そして、人間は、この百年で三倍に増えた。天敵がいない上に、衣食住の全てが改善されたからだ。平均寿命は、倍になった。最近は、「少子高齢化」なんて言って騒いでいるが、他の生物にしてみれば嫌みでしかない。世界人口は、百億に達する勢いだ。

 人間を見ていると、生物には天敵が必要だってことがよくわかる。そう考えれば、おれの存在は逆説的だ。狼を大神として祀った古代の人間は、ことの本質を理解していたのかもしれない。


 どんなに人口が増えようと、人間の世界というのは、わりと画一的だ。おれのクラスでも、テレビドラマで観るような「イジメ」が蔓延している。

 特に生徒会長の黒田のイジメは、教材にしたいくらい典型的だ。

 標的にされたているのは、おとなしくて真面目だが、気が弱く鈍くさい生徒だ。浦島留吉という。

 黒田は、自分では手を下さず、命令もしない。取り巻き連中に忖度させるのだ。

 たとえば、黒田が数学のテストでトップになれなかったとしよう。そんなときには、横川という黒田の腰巾着が、椅子に「つまずいて」浦島を床に転がし、黒田の心をなぐさめる。

 また、黒田が、退屈そうな顔で周りを見回したとしよう。こんどは、原田という子分が活躍する。原田は、浦島の頭に「まちがえて」牛乳をこぼす。黒田は、この「ほほえましい事故」で退屈を遠ざけることができる(ようだ)。

 さらに、浦島の靴は毎日のように行方不明となり、彼の教科書は「愉快な」落書き帳に使われていた。

 いったい、何がおもしろいのか、おれにはわからない。けれども、黒田は、浦島イジメにあきることはないようだった。


 おれは、浦島みたいな意気地なしは嫌いだ。だが、黒田の浦島イジメは不愉快だった。ひどく苛立たしかった。これは、精神衛生上よろしくない。

 心の平安を取り戻すために、おれは動いた。黒田を夜の公園に呼び出すことにしたのだ。

 といっても、おれの名前で「黒田君、ちょっと用があるから、十九時ごろ公園にきてくれないかな。(^_^)」と手紙を出しても、警戒されるかシカトされるかだろうから、黒田が好意を抱いているという長谷川凛子の名前を使ったのだ。自分で言うのも何だが、狼人間はけっこう狡猾だったりする。


 凛子は、高貴な風情の凛とした美人だ。成績も学年トップ。おまけに、やさしくて、人当たりも良いので、男女を問わず人気が高かった。他人にあまり関心のないおれでさえ、心の中で口笛を吹きたくなるような存在だ。


 凛子に好意を抱いたとしても、普通の男子高校生なら、高嶺の花どころか、「チョモランマのエーデルワイス」だとあきらめるに違いない。(エヴェレストにエーデルワイスが咲いているかどうかは知らないが)

 けれども、自信家の黒田だけは、チョモランマを目指した。その心意気や良し、と言うことなかれ。こういうのは蛮勇にすぎない。遭難することを予見できない愚かな素人登山者だ。黒田は、見当外れな自尊心のかたまりだ。

 そんな黒田だから、凛子の偽手紙による誘いに疑いを持たないだろう、とおれは踏んだ。手紙は、やつの下駄箱に忍ばせた。念のため、手紙の最後には、赤いハートマークも奮発した。


 はたして、長谷川凛子効果は抜群だった。黒田は、普段見せないような、照れ笑いと緊張と興奮と喜びが入り交じった落ち着かない顔で、ノコノコ公園にやってきた。

そして、待ち合わせのベンチのまわりをウロウロしながら、凛子の姿を探していたが、おれが近づいていくと、いつのも陰険な目つきに戻り、警戒の色を浮かべた。


「黒田君じゃないか。こんなところで何してるんだい?」

 おれは、親しげに黒田に声をかけたが、実のところ、やつと面と向かって話をするのは初めてだった。他の連中と同じように、やつもおれを避けていたのだ。

 黒田は、顔をしかめ、追い払うように手をふりながら、

「何でもない。ちょっと散歩してただけだ」と答えた。

 チョモランマを目指すやつにしては、平凡だ。

「勉強疲れの頭を冷やしてるというところかな?」おれも平凡に応じた。

「まあな」黒田は、横を向いて答えた。失礼なやつだ。

「さすがは、生徒会長。おれも見習わないといけないな」お世辞を言ってみたが、おれらしくないので、少し自己嫌悪を感じてしまった。

 黒田は、邪魔者の登場ですっかり不機嫌になったようで、

「いいから、放っておいてくれよ」と声を荒らげた。

「そうはいかないよ、黒田君。君を呼び出したのは、おれなんだから」

「……」

 黒田は、はじめて、おれをまっすぐに見つめて、驚きと怒りと恐れの混じったようなまなざしを、投げかけてきた。

 おれは、やつの複雑な気持ちをしっかりと受け止めると、ゆっくりとオッドアイになり、黒田を見つめた……。口元には、自然と笑みが浮かんできた。

 黒田の瞳から、驚きと怒りが失われ、恐怖だけが残ったが、やがてそれも消えていった。

 黒田は、自分に関する記憶を失った。もう、名前さえ憶えていないだろう。

 公園では、にぎやかに虫が鳴き、オーケストラのようだった。木々の葉のむせかえるような芳香とあいまって、おれは恍惚となった。

 ふと誰かに観られてる気がした。思わずふりかえると、黒猫が金色の瞳で、こちらを見つめていた。


 記憶を失った黒田は、どこかの病院の精神科にしばらく入院してから学校に戻ってきたが、自分の名前さえ思い出せず、途方にくれていた。そのためか、いつもおどおどとおびえていて、あの浦島にさえ挨拶した。

 おかげで教室は心安らぐ場所に……。

 というのは、あまい考えだということが、すぐにわかった。

 今度は、横川と原田の二人がクラスを支配し始めたのだ。浦島イジメは、この二人が、しっかりと相続した。「イジメ」というのは、自己再生能力に優れたシステムらしい。

 しかたがない。おれは、再び動いた。


 ところが、夜の公園にやってきたのは、あの長谷川凛子だった。

 どうやら、横川と原田は、チョモランマの高さを知っていたようだ。

 間近で観る凛子は、美しく、可愛く、まぶしかった。

「こんばんは」と凛子がほほえんだ。

「横川君と原田君は来ないよ」

「……」

「また、わたしの名前を使ったでしょ?ワン・パターンなんだから」

「また?」

「黒田君のときと同じってこと」

「……」

 おれは、はじめて凛子に警戒心を抱いた。

「とぼけたって無駄よ。わたし、観てたんだから」

 誰かに観られているような感覚を思い出した。それにしても凛子は不思議なやつだ。現場を観たのに、おれを恐れないのだから。

「長谷川凛子。おまえ、何者だ?どうして、おれに関わろうとするんだ?」

「あなたが、わたしに関わってきたんじゃないの?」

「……」確かにそうではある。

「でも、それは運命なの」

「運命?」

「とにかく、この件は、わたしにまかせといて。悪いようにはしないから」と魅力的な笑顔で言い残すと、長谷川凛子は、スタスタと歩き去ってしまった。


 翌日、クラスは、横川と原田のイジメ画像のことで、持ちきりだった。誰かが、浦島イジメをネットで公開したらしい。横川と原田は、校長室に連行されたという。

 おれには、誰がやったのかピンときた。

 凛子だ。彼女が、動画をSNSで拡散したのだ。

 動画は、プロのカメラマンが撮ったように鮮明で簡潔だった。イジメ教材そのものだ。


 その日、凛子に呼び出されたおれは、再び夜の公園に出かけた。

 凛子は、少し寂しいような楽しいような不可思議な微笑みを浮かべて、独りベンチに腰掛けていた。

 おれは、黙って彼女の隣に座り、前方の木立に目を向けていたが、全身で凛子の言動を受け止めようと緊張していた。

 凛子は、突然おれの顔をじっと見つめて、万感胸に迫るような表情をみせた。

 すると、おれ自身も何だかひどく切ないようなうれしいような恥ずかしいような複雑な激情に襲われて、涙が出てきた。

 これには、おれ自身が驚いた。なぜなら、物心ついて以来、おれは泣いたことがなかったのだから。

 けれども、凛子の言葉は、おれを人生最大の驚きに導いた。

「……あなたの妻だから」

 会話というものは、ある程度、相手の答えが予想できるから成り立つものだ。

 おれは、すっかり混乱してしまった。俗な言葉で言えば、「ぶっ飛んだ」。

 目のまえの才色兼備の女子高生がおれの妻だと言っているんですけど、神様、どうしたらいいですか?

 両親にうとまれ、一人の友達もいないおれに、いったいこいつは何を言っているんだ。頭がおかしいのか?けれども、おれの本能は、凛子の言葉に真実を感じていた。そもそも、凛子はおれに嘘をつく必要なんかないはずだ。

 しばらくの沈黙の後、凛子が静かに言葉をつないだ。

「良かった……」

「何が?」

「あなたが、いきなり怒鳴り出したり、あざ笑ったりするんじゃないかと心配だったの」

「そんなことはしない。というか、男なら長谷川凛子にそんなことはできない。でも、正直、訳がわからない。わかるように説明してくれないか」

 凛子は、少しいたずらっぽい微笑みを浮かべると、楽しい過去を思い浮かべるような、うっとりとした表情を浮かべた。そのかわいらしさに、おれは思わず見とれてしまった。

「正確にはね……。わたしと大島君は夫婦だったの」

 凛子は、「だった」にアクセントを置いて、澄んだ鈴のような声で説明を始めた。

「なぜだか知らないけれど、わたしには前世の記憶みたいなものがあるの」

「全盛の記憶?」

「前の世のほう。あなたは、記憶がないのね」

「前世! 悪いけど、信じられない……」

 凛子にとって、おれの反応は想定内だったようで、不快な表情は見せなかった。

「じゃあ訊くけど、大島君はなんで狼人間なの?」

「えっ?」

 凛子はなぜ、おれの正体を知っているんだろう?

「大島君は、今、なぜ長谷川凛子は、おれの正体を知ってるんだろう、と思ったでしょ?」

「……」

「でも、わたしの質問の意味はそうじゃないの。なぜ、あなたは自分のことを狼人間だと思っているかってこと」

「?」

 凛子の顔は、できの悪い子供に苦労して勉強を教える教師みたいになっていた。

「大島君には確かに特殊能力がある。でも、外見で変化するのは、目の色だけでしょ?どうして、自分を狼だと思うの?」

「……」

 言われてみれば確かにそうだ。おれは、自分が生まれながらの狼人間だと誰に教わることなく知っていた。しかし、なぜ、凛子は、おれが狼人間だと自分のことを思っていることを知っているんだろう? 二重の疑問が頭を占領して動かない。

 おれの混乱を楽しんでいるように凛子がほほえんでいる。少し、はずかしく、くやしいが、なぜだか嬉しい。

「わたしを見て」

 おれは、言われたとおり、凛子の美しい顔を見つめた。その目は、……。

 オッドアイだった。

「わたしも生まれたときから狼人間だと知ってた。そして、あなたが狼人間だということは、匂いでわかった」

「ごめんなさい。わたしは嗅覚も狼並みなの。匂いというより香りかな」

 おれは、間抜けにもクンクンと自分の匂いをかいでみたが、特に変わった匂いは感じられない。それでも、凛子がオッドアイを持っているのなら、彼女の話は聞くに値するはずだ。


「前世の、あのとき、わたしは、おなかがぺこぺこだった」

「あのとき?」

凛子は、美しい眉根を寄せて、悲しそうな顔になった。

「わたしたちの最期の日よ」

 凛子は、淡々と明治のある日のできごとを語り始めた。


 凛子によれば、おれは、エゾオオカミの群れのリーダーだったという。知ってのおとり、エゾオオカミは、明治時代まで北海道に生息していた大型の狼だ。

 少し照れるが、おれは抜群に賢く勇敢だったらしい。危険な人間との接触を避け、他の狼の群れのように牧場を襲ったりせずに、エゾシカだけを獲物にしていた。

 けれども、それは苦しい選択でもあった。当時、エゾシカは激減していたからだ。


 明治になって北海道に移り住んだ和人は、先住のアイヌの人々とは違い、毛皮のために鹿を殺しまくった。毎年、何万頭ものエゾシカが、毛皮となって売られていった。主食を失った狼たちが、牛や馬や羊の牧場を襲うようになっていったのは、当然の帰結だ。

 けれども、人間達が自分たちの行動を改めることはなかった。それどころか、狼に憎しみの目を向けるようになった。「赤ずきんちゃん」じゃないけれども、もともと西洋では狼は悪魔だった。家畜を襲うからだ。けれども、日本では、イノシシや鹿の獣害を防ぐということもあり、「大神」として祀られることさえあった。それが、明治の北海道では、狼=悪魔になってしまったわけだ。本当に人間なんて勝手なものだ。

 凛子の話によれば、人間達は、狼に懸賞金までつけて撃ちまくったそうだ。また、アメリカ人が狼を殺すときに使うというストリキニーネという毒を肉にしこんでばらまいたらしい。狼たちは、のたうち回りながら死んでいったという。

 こうして、狼は激減していったが、おれの群れだけは無事だった。賢いおれが、牧場を襲うことを禁じてたからだ。

 ある年、大雪が降って、エゾシカはほとんど絶滅に近い状態になった。おれの群れは、それでも、ウサギやらリスやらを捕らえてどうにか飢えをしのいでいたらしい。

 ところが、リーダーの妻、つまり前世の長谷川凛子は、子供を宿していた。このまま飢えて母子ともに死ぬよりはましだと思い、たった一匹で牧場を襲ったという。異変に気づいたおれは、彼女の後を追い、連れ戻そうとしたが、結局、二匹とも数十匹の犬どもに囲まれて吠え立てられ、追い詰められたところを、人間に撃ち殺されてしまったという。

 その後、ほどなくして、北海道の狼は絶滅した。


「ごめんなさい……。わたしのせいで、あなたまで……」

 凛子の涙は止まらないが、おれには記憶がないから、ちょっとついていけない。

「そんなこと言われてもなあ……」

 けれども、不思議なことに、涙を流す凛子のオッドアイを見つめるうちに、おぼろげな映像が浮かんできた。人間の目によるものではない。狼の目が観た光景だ。モノクロームに近い。オッドアイは、狼人間に対しては、逆の作用があるのかもしれない。前世の記憶が、徐々によみがえってきた。


 記憶の映像の中で、おれは、吹雪の中を牧場に向かって必死になって走っていた。遠くに妻の姿と彼女を取り囲む猟犬たちが見える。


 疾く!疾く!疾く!。


 心と体が苦しくて、破裂しそうだ。妻のもとにかけよったとき、彼女はすでに体中に傷を負っていた。おれは、怒りに我を忘れ、猟犬どもを片はしから、かみ殺していった。そして、猟犬たちがひるんだ一瞬をとらえ、おれたちが逃げだそうとしたとき、銃をかまえた人間達が五人、笑いながらやって来た。驚いたことに、そのなかの一人は、黒田にそっくりだった。

 おれたちは、やつらに飛びかかり、撃ち込まれて撃ち込まれて、重なるようにして倒れた。そして、たがいのオッドアイを見つめながら、息絶えた。

 おれの記憶はここまでだ。いや、息絶える前に、川のせせらぎを聞いた。あれは……。


 おれのことを不思議そうに見つめている凛子の視線に気づいた。

「凛子」

 うん?という凛子の表情が、なんだか懐かしい。

「おれたちの最期の場所に、川があったかな?」

 凛子の表情が、パッと明るく笑顔になった。

「思い出したの? 嬉しい!」

「川が、そばを流れていたような……」

「札幌の豊平川」凛子がうなずく。

「あなたもわたしも、あそこで殺されたのよ」

 うーん。どうやら凛子の話はまるっきりでたらめでもなさそうだ。

 それにしても、自分たちが殺された話を嬉しそうに語る人間、いや狼人間は歴史上極めて珍しいのではないか?

「それでね、大島君」

 凛子の呼び方が改まった。緊張とともに、少しばかりの寂しさを感じる。

「わたしたち、人間にならない?」

「?」


 あれから、三年。

 おれと凛子は、同じ大学に通学している。といっても、彼女は医学部。おれは、工学部だ。勉強は忙しい。

 昼休み。おれと凛子は、交えて交えて学食で語り合う。至福の時間だ。おれは、今、孤独と完全におさらばしている。


 あの日、凛子は、おれにこう言った。

「もう、わたしたち狼人間をやめようよ」

 おれは、面食らったが、

「ややめられると思うの」と、凛子は断言した。

「どうやって?」

「いい? わたしたちが、狼人間でいる理由は、人間達への復讐なのよ。わたしたちは、理不尽に殺され、絶滅に追い込まれた追い込まれた」

「そうらしいな」

「つまり、わたしたちは、今、狼として生きているわけ。でも、考えてみれば、わたしたちは人間でもあるわけでしょ?」

「うん。まあ、そうだな」

「だとしたら、人間として生きることもできるんじゃないかな?」

 おれは、凛子の意味するところが、まだわからなかった。

「つまり、考え方の問題よ。わたしたちは、今まで自分たちのことを人間の姿をした狼だと考えてきた」

「ちがうのか?」

「それは、本当のことかも知れない。でも、特殊能力を持つ人間だと考えてみることもできるはずでしょ?」

「確かに」おれは認めた。特に記憶を操作する能力は、狼のものではない。人間のものだとも言い切れないが。

「わたしは、思うんだけど、このまま孤独な狼人間として、ささやかな復讐を人間たちにし続けるよりも、人間として良いことをしながら生きていくほうが幸せなんじゃないかな?」

「何だか都合の良い話だな」

 おれは、幸せになるために、自分のアイデンティティを変えようと提案する凛子の考えをすんなり受け入れることはできなかった。

 凛子は、自分の考えにおれが異を唱えることを見越していたように、平然としていた。


「わたしが、そう考えるようになったきっかけは、あなたの存在なの」

「おれの存在?」

「うん。あなたと再会できたことで、何もかも考えがかわってきた。いわば、コペルニクス的転回ね」

「コッペルニック的なんとかって何だ?」

「コペルニクス的転回よ。考え方が180度変わってしまうこと。天動説から地動説に変わったみたいにね」

 おれは、自分に常識がないことを恥じたことはないが、凛子の前だと、恥ずかしい。

「あなたの存在を知ってから、わたしは孤独じゃなくなった」

 凛子の笑顔におれは悩殺された。

「あなたとまた一緒に生きることができるってわかってから、わたしの生きる道がはっきり見えてきたの」

 凛子の言葉を聞いて、いままでおれから離れたことのない孤独ってやつが、どこか遠くに飛び去った気がした。

 凛子は、続けた。

「わたしたちは、前世に狼だった。でも、その前は?記憶がないからわからないけれど、別の何かだったかもしれないでしょ?」

「エゾシカだったりして」

「それも、ありうるわよね。だとしたら、狼にこだわる必要もないでしょ?」

「確かに、そうかもしれないな」

「だったら、ふたりで孤独な狼人間として生きるよりも、特殊な能力を持った人間として、人間のために良いことをしながら生きていくほうが幸せになれると思うの」

 なるほど。

 おれは、感心した。

 凛子の話は、ストンと胸に落ちた。

 おれにも、うっすらと自分が歩んでいくべき、いや歩んでいきたい道がボンヤリと見えてきた。

「これには、V・フランクルや福澤諭吉の思想が影響していてね……」

 このあとの凛子の難しい話は理解不能だったから、記憶に残っていない。

 でも、ポイントは押さえたはずだ。


 しばらくして凛子は医学を学ぶことに決めた。理屈は簡単だ。善良で、優秀な医師は、文句なく人のためになる。

 おれは、科学を学ぶことにした。どんどん進化する科学技術の使い方は、人間全体の運命を左右すると考えたからだ。

 凛子とおれの学力差は歴然としていたから、同じ大学に進むことなどできないはずだったが、それは許されなかった。凛子は、自分の学習をきちんとこなしながら、おれの教育にも力を注いだ。

 凛子は、おれの受験すべき大学の工学部の入試問題を分析して、必要な学力を調べると、参考書や問題集をそろえて、日々の学習スケジュールを決めた。深夜のファミレスで、おれの学習進捗状況は日々確認され、できないときにはしかられた。

 凛子にしかられることは快感だった。自分のことを思ってくれているのがよくわかるからだ。怒られることとは違うのだ。

 けれども、凛子を失望させないために、おれが課題を消化できないということは、滅多になかった。

 まず、学校の定期テストが、ぐんぐん良くなった。あまりにも急激だったので、教師や同級生は、はじめカンニングを疑ったが、休み時間も勉強をし続けるおれの姿を見て、すぐに認識を改めた。のみならず、話しかけてくる者さえ現れた。あれほど、他人からうとまれていたおれが、へたをするとクラスの人気者になりそうだった。それは、悪い気分じゃなかった。

 凛子に命じられるまま、予備校の模擬試験も受けた。こちらの方もどんどん成績が上がり、高3の秋の模擬試験では、志望する国立大学の合格圏内に入った。考えてみれば、おれは、非常に賢い狼の群れのリーダーだったのだ。


「凛子」あるときおれはたずねた。

「?」

「狼だったとき、おれと凛子のどっちが賢かった?」

 凛子は、少し考えるような目をしていたが、

「わたしよ」と、少し嘘っぽく答えた。

「本当に?」

 凛子は、笑って答えなかった。


 春、猛勉強の甲斐あって、狼夫婦はそろって志望大学の志望学部に合格した。

 とはいえ、この狼夫婦の生活は学問だけにとどまらなかった。

 探偵さながらに、さまざまな事件に首をつっこみ、例の特殊能力も駆使して、解決に貢献してきた。

 もっとも、力を入れてきたのが、子供の問題だ。

 大きく、貧困と虐待がある。


 おれたちの耳は、ふつうは聞こえない声をききとる。注意しているのは、大人の罵声と、子供のうめき声だ。

 怪しい家庭を発見したら、凛子が訪問する。

「お客様は、○○○に選ばれました」とかなんとか、適当な理由をつけて、ドアを開けさせ、すばやく中を観察する。入り込んでしまうこともしばしばだ。誰も彼女を警戒しない。おれは、近くに隠れて様子をうかがう。

 子供を虐待している大人は、実の親の場合もあれば、再婚相手のこともある。けれども、同じ目をしている。一種の障害者なのかもしれない。

 おれたちは、暴力をふるわれ、ろくに食事も与えられず、学校にも行かせてもらっていない子供を見つけると、児童相談所や警察に通報した。そして、子供の命が危ないのに、公的機関が動かないときには、やむを得ず、オッドアイで大人の記憶を破壊した。


 こうした生き方を、おれたちは選び、悔やまなかった。


 ところが、ある雪の日、昼休みの学食で、凛子は天使の微笑みを投げかけながら、おれに衝撃の事実を告げた。

「娘も転生してきたみたい」

「?」

「わたしたちが殺されたときに、わたしのおなかにいたあの子よ」

「……」


 おれは、思考が止まり、痴呆のほうに口を開けたままだった。

  

 そして、このあと、おれたちの娘が活躍するのだが、それはまた、別の話だ。



 


 











 





 

 


 



 


 


 




 

 







 

 




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オッドアイ(狼夫婦の物語) 宮川凛太郎 @shumariken

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る