第11話
夢の中で、また自転車の後ろに乗っていた。
自転車を漕ぐたび母の息が上がる。いつもは私は未就学の子供なのに、今日はそれを客観的に見ている自分がいた。夢らしい夢だ、と思った。
姥捨て山の伝説が頭の中に巡る。親を捨てる、その子供は涙を流しているのだろうか。あるいはセノーテに生贄を投げ入れる人はどうだろう。背後の私は母の表情は見えない。神に対する生贄には涙を流さないのだろうか。栄誉なことだと笑顔で送り出すのだろうか。私には想像が出来ない。でも、神に見放されることを恐れている人々の心は少し、想像できる。
私が連れて行かれる坂の先に神はいない。私だけが取り残される。
結果を知っているのに、夢の中の私は夢の中の母に対し無力だ。懐かしい母の自転車がギコギコとさび付いた音を上げる。
置いていかないで。私を愛してよ。
私はまた、坂の上に置き去りにされて一人泣く。
「お母さん」
私は泣いている。目覚めて第一声が母を呼ぶ声だということに驚いた。確かに自分の声なのに、母乳を求めて泣く赤ちゃんみたい。
となりで礼資は寝息を立てて寝ている。静かにベッドから起き上がる。ベッドサイドの時計に目をこらしてみると朝四時をやっと回った頃だった。だるい体を引きずる。礼資を起こさないように最低限の動きをすることは私の得意分野だ。
今日はアルバイトがある日。でも一七時からだ。それまではいつも通り、やるべきことをやらなくてはいけない。二度寝をするには頭が冴えすぎていた。寝室を出て、キッチンに行く。せっかく早く起きたのならやるべきことを早々に終わらせてしまった方が賢い。礼資のお弁当を手早く作り、その後はリビングでソファに座り好きな本を読むことにした。本棚の文庫本の背表紙を眺め、無造作に一冊を手に取る。表紙を見ると『地獄の季節』だった。かつて読んだとき、これは私には難解すぎるように思えた。だが言葉の響きがかっこよく、おしゃれで、ランボーの言葉に触れたいとページをめくる手は止まらなくなった。
私は本を読んでいるときは孤独を感じない。多くの人は私の孤独は自業自得だと想うかもしれない。私の心身を心配してくれていた母に暴言を吐き、家から飛び出しその後の連絡もしていないのだから。でも母が私のことを本当に理解していたのなら化け物でも見るような目で私を見るはずがなかった。私は、正義の顔をした母から逃げた。一緒にいたら、きっと私は死んでしまう。心が死ねば生きているとはいえない。そうならないためには肉体が死ぬしかない。生きるためにした行動をどうしてみんな責める権利があるのだろう。
礼資だけが私を生かしてくれている。礼資は私を責めない。それだけでいいはずなんだ。
それなのに、私は昨日見つけた鍵が頭から離れないでいた。
あれは彼が私を裏切っているということなのだろうか。そんなはずはない。いつもキスしてとせがむのは礼資だ。ちょうどそんなことを考えていると礼資が起きてきたようで、寝室の方からバタバタと音がした。
寝起きの機嫌の悪い礼資の声がした。
「はぁ? 起きてたんなら起こせよ」
ぷちん。
私の中の、なにかが切れる。張りつめていた糸。感情を堰き止めていた細い細い糸はもうすでに限界を迎えていた。
本が床に落ちる。
私が冷静な時なら、起きたとき私がいなくて寂しかったんだねと彼のことを愛おしく思えた。でも今の私はその口調や言葉の響きに耐えうる心を持っていなかった。私は、声を上げて泣いていた。礼資の前でこんな声を出したことはなかった。
すごいな、私。礼資の前でもちゃんと泣けるんだ。
顔を上げると、礼資は困惑していた。その反応は仕方ない。私自身自分に驚いている。いつだって周りによく見られようと生きてきた。恥も醜聞もなく自分を見せるのは、母に自分のことを話して以来だ。あのときも、こうやって泣いた。子供のときでもそんな風に泣いたことはなかった。あのときは、泣きながら、生きていたくない母に向かってと叫んだ。今の私は、彼に対してぶつける言葉を持たなかった。生きていたくない、といえば母が傷つくことはよくわかっていた。だからこそその言葉を選んだ。でも、礼資に対してその言葉は一番いいたいことではない。
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