第8話

 ため息をすると幸せが逃げていくなんていう人がいるけれど、肺にたまったこの苦しさを排出する方法が他にあるなら教えてほしい。やらなくてはいけないことをきちんと覚えているのにできなくなる自分が嫌だった。でもどうしていいのかわからない。それほど広くないこの家で私はすぐ迷子になる。よし、と思い至って立ち上がったのに一歩踏み出した瞬間に目的地を忘れる。

 ベッドに行くのは一番迷子にならない。確実に行ける。

 私はベッド脇のかごを手に取る。ベッドの上に脱ぎっぱなしの部屋着が視界に入ったため着替えた。このワンピースはかわいいけれど、肌にあたる感覚が少し硬い。あとでまた出かけたくなったらすぐに着られるようにたたんでベッドの上に置いた。

 ポケットに硬いものを感じる。ああ、そうか。礼資のポケットから出てきたやつだ。私はその鍵をまじまじと見つめた。この家の鍵ではない。礼資の持っている家の鍵には、なくさないようにと私が無理やりハローキティのキーホルダーをつけていた。初めは嫌がっていたが、なんか愛着わいちゃって、といっていた礼資が今になって外すとは考えにくい。

 一つ嫌なことを思いついてしまった。

 洗濯かごを持ったまま、私は外に出ていた。ゆっくり、家の鍵穴にささるか試してみた。

 やっぱりささらなかった。

 嫌な気分になる。

 思いついてしまった嫌なことはひとまず置いておいて、それでもなんだかまた胃のあたりがぞわぞわした。

 家の周りに誰もいないことを確認する。部屋着なのに外に出てしまった。誰にも見られていなさそうだ。思いついたことを衝動的にしてしまうのはよくない。できるときとできないときの差が激しくてジェットコースターだ。またため息が出てしまう。

 洗濯かごは脱衣所に置いた。あるべきところにあるべきものがある。秩序が保たれているのは居心地がいい。

 この鍵はここにあるべきものではない。手の中でぬるくなった鍵が重く感じる。

 ポケットの中に鍵をしまう。頭の中がやけにクリアだ。

 さっきまではできなかった食器拭きを颯爽と終わらせ、晩御飯の支度のためにお米を研いだ。

 料理は好きだ。

 野菜やお肉が別の姿に変わっていくという過程が楽しい。味付けはいつも目分量だ。はじめて作る料理でもほとんど計量スプーンを使わないでもおいしく作れるというのは私のささやかな自慢だ。グラムではなく秒を数え、体感で計ることができる。醤油とかみりんとかがわかりやすい。

 角切りジャガイモ、みじん切りの玉ねぎ。フライパンにはバターを溶かし、そこにひき肉を炒めていく。火が通ったら細かくなった野菜たちも炒める。

 礼資がリクエストした「オムレツ」が卵だけのふわふわの本格的なものじゃないといいな。だとしたら私が涙と鼻水を垂らしながら玉ねぎをみじん切りした意味がなくなる。

「えー、あ、具の入ってるオムレツねー。そっちね。まあいいけど」

 憎たらしいセリフやそれをいうときの表情まで想像できてしまう。わざと想像上の礼資の口調をまねして声をなぞった。最悪なことを考えていれば、ほんとうにいわれたとしても傷つかない。やっぱりねって思えるから。

 卵をしっかりと溶いていく。白身なんてなかったくらいに滑らかに溶くのが好き。菜箸がボウルにあたるカッカという音もいい。卵を薄く焼き、具をのせてふんわりと巻いた。破れずにきれいにできた。

 冷蔵庫には赤ワインが入っている。私の秘蔵っこ。サンタ・リタの120カベルネ・ソーヴィニヨン。もちろん飲むように買ったのだけれど、私はそれを少しだけ使って、なくなるくらいまでしっかりと煮詰めた。ケチャップを入れてさらに煮詰める。特製ソースの出来上がりだ。ワインが味に深みを出してくれる。

 きれいにできたよ。

 うれしくなって写真を撮る。実物がどんなにきれいでも写真の技術がないのでおいしそうに撮れないのが嘆かわしい。加工をした後にインスタグラムに投稿した。あまりいいねはつかなかった。

 ご飯を作る時間が早すぎた。仕方ない。

 時間が余ってしまうとぼぅっとしてしまう。インスタグラムをその後見るともなしに見続けてしまった。

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