第7話

 どのくらいそうしていたかわからない。ふぅうという自分が息を吐いたのが聞こえた。

 イヤホンを外すことはまだできない。でも音楽があればまだ動ける。

 なにか行動をする前には、息を深く吐き出す。肩の筋肉がほぐれるような感覚がじんわり広がっていく。私はキッチンに行き、食器を洗った。水がさらさらと手にあたる。湯沸かし器は壊れているからいつも水だけで洗う。お湯だったらフライパンの油もすぐ落ちるのに。

 息が、できる。

 音楽があれば私はまだ大丈夫。

 魔法の言葉。私は私の正当性を主張する。まだ壊れていない。

 ふと、母の表情を思い出す。私が母の前でたった一度だけ泣いたあの時、母は理解できないという表情をしていた。困惑が浮かぶ瞳を忘れられない。

「苦しいの、気づいてあげられなくてごめんね」

 偽善者はその言葉をいうにも時間がかかった。その後は言葉が思い浮かばなかったのか私を抱きしめることで誤魔化した。

 私は正常だ。それなのに腫物のように扱った母。家族に無関心の父。おかしいのは私ではない。姉は味方になってくれることが多かったけれど、その時にはもう結婚して家を出ていた。

 涙はいつだってたやすく私の目の中にはびこる。

 蛇口から流れ続ける水は渦を巻いて排水溝に消えていく。なぜ今私は泣いているのかわからない。気がついたら泣いているということが多すぎる。

 礼資と出会ったのは、誰かと一緒にいれば泣かないでいられるかもしれないという安易な考えから始めたマッチングアプリだった。やり始めてから三日でマッチングし、数回のやりとりを重ねて、マッチングから二か月後に初めて会った。

「泣き虫な君も好きだよ」そういって告白をしてくれたのは三回目のデートのことだった。

 食器を洗うことはできたが拭くのが嫌になってしまい、水切りラックの上に並べた。礼資が帰ってくるまでにできていればいいのだ。手をペーパータオルで拭った。動けるようになったときにまとめてやってしまった方がいい。私は朝洗濯かごをベッドの脇に置きっぱなしにしていたことを思い出した。

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