ハイエナ
増田朋美
ハイエナ
寒い日だった。信じられないほど寒い日だった。まあ、冬であれば、このくらいの寒さは当たり前かなと思うのだが、それでも寒い日だった。
望月まみは、岳南タクシーの運転手だった。最近というか、二三年前に、看護師をしていたのだが、それが大変すぎて、タクシー運転手に転生した。まみは、年若く、二種免許の取得も比較的かんたんであった。男ばかりのタクシー業界で、唯一の若い女性ドライバーとして、まみは上司からの期待も大きいようであったが、まみ自身はこの仕事があまり好きにはなれなかった。だって、タクシーを利用する人なんで、みんな年寄りばかりだし、若い人はみんな車を持っているから、何よりも出会いがないのだ。まみだって、多かれ少なかれ結婚願望があった。いつかは、素敵な男性と結婚して、素敵な家庭を築きたい。まみは、そう思っていた。でも、年寄ばかりの客に、同僚も、中年のおじさんたちばかり。最近は、駅でタクシー利用者を待っているときは、眠くて仕方なくなってきている。それほど、富士市内では、タクシーを利用する人はあまりいないということか。みんな、自分の車を持っていて、出かけるときは、皆それで行ってしまうのだろう。本当につまらない仕事に就いたものだ。看護師をしていたときも、年寄相手で、テレビドラマで見るような、危険なシーンに遭遇することもなく、この仕事に転職しても、やりがいは出てこない。なんでこんなことにと思うけど、まみは、つまらない仕事をしていた。
その日、コールセンターが設置してある岳南タクシー本部からの司令で、富士グランドホテルへ向かった。そこで、佐藤さんという男女二人を乗せて行ってくれということである。まみは、言われたとおり、ホテルの正面玄関の前で、タクシーを止めた。しばらく待っていると、一組の男女がやってきた。中年の男女で、なんだか、夫婦という感じでも無さそうだった。なんだろうと思っていると、女性の方が、こういっているのが聞こえてくる。
「この時間が、ほんとに一番キライだわ。それでは、もう二度と会えなくなるのかっていう気持ちになって、本当に寂しいわ。」
今度は男性が、こう答えるのだった。
「いやあ、今の所、妻にはバレてないし、まだ、会えると思うよ。大丈夫だよ。」
はあ、つまり不倫関係ですか。と、まみは思った。きっとホテルの中で、逢引でもして、それで別れ際なんだなと思った。
「じゃあ、また来週の土曜に会いましょうね。それでは、よろしくおねがいします。」
と、女性のほうが、そう言って、まみのタクシーが、そこへやってきたのに気がついた。
「私、もう行くわ。もうタクシーが来ちゃったから。また、来週、ここでね。」
と女性は、まみの車に近づいてきた。まみは、はいどうぞといって、タクシーのドアを開けた。
「どちらまで行かれますか?」
「ええ、ああ、えーと、富士駅までお願いします。」
「わかりました。」
とまみはしたり顔で、女性が乗ったのを確認して、タクシーのエンジンを掛けた。後部座席でシートベルトをつけてくれた女性は、まだスマートフォンでメールを打っている。あの男と、話しているのかな、とまみは思った。なんだか気持ち悪いと思ったけど、なんとなくその女性の気持ちがわからないわけでもなかった。きっと、自宅では、誰も彼女のことを見てくれる人などいないのだろう。その対策として、カルチャーセンターに通うとか、どこかのサークルに入ってみるとか、そういうことも打ち出されているが、彼女には、そういう事はできなかったのだと思う。ご主人が反対したとか、まあ、最も、不倫をしているのだから、ご主人は結構彼女を自由にさせているんだと思うが、いずれにしても、何もなかったことが幸せであるということに、彼女は気がついていないのだと思った。
「それでは、富士駅につきましたよ。」
と、まみは富士駅のタクシー乗り場でタクシーを止めた。
「あ、ありがとうございました。」
と女性は、にこやかに言った。
「はい。1500円です。」
まみがメーターに出された金額を言うと、
「ええ。わかりました。どうぞ。」
彼女は、1500円を支払うためにスマートフォンを出した。まあ最近は、現金の代わりに、スマートフォンで支払いをする人が結構多くいる。それは別に、タクシー外車にとって、儲からない方法では無いけれど、でも、なんだか、ちょっと物足りないと思う。
スマートフォンの支払いボタンを押して、客は支払いを完了した。それではありがとう、と客はいって、急いでタクシーの外へ出た。それと同時に、先程のスマートフォンが音を立ててなる。女性は、すぐに電話に出て、もしもしはいと話し始めた。なんだろうと思ってまみが聞いていると、
「ごめん!いっぱい買い物しちゃった、ねえ迎えに来てくれない?」
なんて言っている。家族がいるんだったら、不倫なんかしなくてもいいじゃないかと思うのであるが、まみが客に言う言葉でも無いことは知っていた。その客は、何時何分の身延線甲府行に乗っていくからとか、そういう事を言って、駅に向かっていく。甲府行というと、もしかしたら、すごい田舎町から来たのかもしれない。そういう人にとって、田舎生活は、何も楽しくないし、不倫という行為に走らせるのかもしれない。
まみは嫌だなあと思いながら、彼女が、駅に行くのを見送った。
と、その時だった、
タクシー乗り場近くのエレベーターから、なんとも言えない美しくてきれいな男性が出てきたのだ。日本人離れしたその顔は、まるでどこか外国の、俳優さんみたいにきれいだった。多少白髪交じりではあったが、それでも、どこかすごくきれいであった。彼は、紺色の、着流しを着ていたが、それは、大きな葵の葉を入れた着物で、今風で派手だなと思った。またエレベーターが開いて、もうひとり、黒大島の着流しを着た、車椅子の男性が現れた。多分、彼の連れだろう。言っては行けないが、彼の引き立て役だ。ああ、こんな人が、タクシーに乗ってきてくれたら、とまみは思った。すると、案の定二人は、タクシー乗り場に近づいてきた。もしかしたら乗ってしまうのかと思った。前にいる中年おじさんが運転しているタクシーに乗っていくのはちょっと嫌な気持ちがしたので、まみはタクシーを急発進させ、二人の前にタクシーを止めた。
「どうぞ、乗ってください。」
とりあえず平静を装って、タクシーをそこへ止めたが、まみの心のなかでは、その人が乗ってくれることを喜んでいた。
「はあ、随分強引なタクシーだなあ。じゃあ、お言葉に甘えて乗ってみるか。」
と、車椅子の男性が言った。まみは自分の運転しているタクシーが、ユニバーサルデザインを採用してくれて良かったと思った。
「まあ、親切でここに来てくれたんだろうし、杉ちゃん先に乗りなよ。」
美しい男性がそういったため、まみは急いで杉ちゃんと呼ばれた男性を、後部座席に車いすごと乗せた。ジャパンタクシーに車椅子を乗せるのはちょっとむずかしいところがあるが、まみは研修で言われた事を思い出して杉ちゃんを乗せた。そのきれいな男性の前で、乗せられなくて苦戦している様子は見せたくなかった。
「じゃあ、よろしくおねがいします。水穂さんを助手席に乗せてやってください。」
杉ちゃんにそう言われて、まみは、水穂さんを急いで助手席に乗せた。
「えーと、どちらまで行きますか?」
と、まみが聞くと、
「えーと、山鹿っていう蕎麦屋はあるか?」
と、杉ちゃんが聞いた。
「ええ、ありますが、でも、ちょっと遠いですよ。」
まみは、そう言ってみたが、
「金はちゃんと払うから、蕎麦屋さんまで連れて行ってください。」
と、杉ちゃんが言った。
「なにか、用事が、あるんでしょうか?お昼どきですから、本町通りの洋食店とかそういうところに行けばいいのに。どうしてそんなところへ?」
まみは、タクシーのエンジンを掛けながら、そういってみたが、
「いやあね。ちょっとわけがあって、そばやさんでないと行けないんだ。」
と、杉ちゃんが答える。
「すみません、僕がアレルギーで、普通の食事ができないので。」
水穂さんが、細い声で言った。そんな事、と思うような、響きだった。そうなのか、そういう事情があったのか。それでは、その顔の割に随分痩せているのも理解できる。
「そうなんですか?それは大変ですね。」
と、まみは言ってみた。
「まあ、そんな事は言わなくて結構だよ。水穂さんが普通の食事ができないのは、誰のせいでも無いぜ。だから、気にしないでいいってことだ。とりあえず、山鹿っていう蕎麦屋さんに連れて行ってよ。」
「わかりました。」
まみは、そう言って、そばの山鹿さんがある方向へ車を走らせ始めた。そばの山鹿さんは、先程のグランドホテルよりも遠かった。かと言って、鉄道駅に近いわけでもない。富士市は、大都市では無いので、至るところに鉄道駅があるわけでも無いのだ。山鹿というそば屋は、20分近くかかった。店は、蕎麦屋と言っても、きれいな作りになっていて、誰でも入ることができるようになっている。個人のそば屋としてはバリアーフリーがちゃんとしており、車椅子でも入れるように、工夫がされていた。まみは、その店の駐車場の前で車を止めた。運賃は、2500円だった。それは、水穂さんと言われていた、美しい男性がしはらった。
「どうもありがとうございます。帰りは、もしかしたら、介護車両を必要とするかもしれないんだけど、お宅の会社には、介護車両はあるかな?」
と、杉ちゃんが言った。まみはすみませんうちには、そういうものは無いと言えたら、どんなに楽だろうと思った。でも、まみの会社には、介護車両もちゃんとあるし、担当のケアドライバーもいた。それは、誰にも変えることができない事実だった。
「おい、運転手さん。介護車両は、あるかと聞いているんだが?」
と、杉ちゃんに言われて、まみは、ええそうですね、と言った。
「ありますよ。お電話を差し上げるときに、介護車両を希望すると仰ってくれれば、すぐに参ります。」
と、答えを言う自分が、何故か憎らしくて、嫌だった。本当は、帰りも、同じ会社を呼び出して、迎えに行きたかったのであるが、自分は介護車両担当ではないし、それはできなそうだ。もともと看護師であった事を、会社に黙っていたのがまずかった。それを生かしていれば、ケアドライバーの資格も取れたかもしれないのに。
「それでは、お前さんの会社の電話番号を教えてくれるか?」
と、杉ちゃんがそう言うと、まみは、はいわかりましたと言って、
「その領収書に電話番号がありますので、そこにかけて頂いて、介護車両を希望と仰ってください。」
と、領収書を差し出した。
「どうもありがとうございます。」
水穂さんが領収書を受け取る。まみは、この領収書が、なんだか愛の告白に変わるもののような気がしてしまった。
「じゃあ悪いけど、僕を下ろしてくれるかな?」
と、杉ちゃんがいうので、まみは仕方なく後部座席のドアを開けて、車椅子の杉ちゃんを出した。なんだか、杉ちゃんよりも水穂さんの世話を焼けたらいいのになと思うのであるが、それは、無理な話だった。もし可能であれば、一緒にそば屋に入って行きたかったけど、それも無理である。
「じゃあ、運転手さん、ありがとうございました。また、機会がありましたら、よろしくおねがいします。」
と、水穂さんが、まみに言った。まみは、
「ああ、ありがとうございます。」
だけしか言えなかった。
「じゃあ、僕達は、店に入りますが、終わったら、また電話すると思いますよ。その時は、介護車両をよろしくおねがいします。」
杉ちゃんに言われて、まみは、一瞬だけ嫌ですと言おうと思ったが、それをぐっとこらえて、
「はい。わかりました。お電話お待ちいたしております。」
と、にこやかに笑って、タクシーに乗り込んだ。
営業所に帰ってみると、早速上司から叱られた。駅で客待ちをしないで、客を乗せるタクシーのことを、ハイエナという。まみが、杉ちゃんたちを乗せた事は、間違いなくハイエナ行為だと、他の客から、岳南タクシーに苦情が出たようなのだ。確かに、ハイエナは、汚いとかずるいとか、そういう行為の象徴とされる動物だ。それは、いけないことだと思うけど、まみは、紛れなく、ハイエナ行為をして、良かったと思った。ハイエナになって、あれほど美しい男性を乗せることができたんだから。ハイエナはたまに、いいものに預かることもあるのである。
ハイエナ 増田朋美 @masubuchi4996
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