第3話『ライラ・セルトナ』
暗澹としたものに目を奪われながら、身体が流れていくような感覚。されるがままになる。
冷たいのか熱いのか分からないなにか。自分の身体を取り巻くなにか。翻弄され、意識が朦朧とする。
だがその時、突如温かい何かが身体の中に流れ込んでくるような気がした。
それは優しく俺を包み込む。死んだことで天国にでも行けたのだろうか。あそこには極上な感触の雲があるだとか友達に聞いたことがある。ガセだろうが、俺にとってはどうでもいい。
ただこの慈愛だけは離したくなかった。手を伸ばし、追い求め、縋り付いて―――
「…………」
―――重い何かが俺の目を開けさせてくれない。
それは瞼だと分かった。
景色が拓ける。
目が見えるのだと分かった。
感覚が押し寄せてくる。
体重があるのだと分かった。
意識が戻る。
生きているのが、分かった。
「〜〜〜〜〜〜!?、〜〜〜〜〜〜!!!」
何かは分からないが声が聞こえる。
耳は健在だ。だが左側からはなにも聞こえない。
「〜〜〜〜!〜〜〜〜〜!!」
呼びかけている……?
よく見えない。誰だ……?
待って、目がよく見えない……瞬きを……
もっと、もっと意識を。耳をもっと―――
「―――大丈夫ですかー!?聞こえますかー!?」
「………」
「聞こえるなら右手の人差し指を少しだけでいいので動かしてくださーい!!」
(ゆび…?)
(うご、かすのか……)
「……意識ある!」
「「よしっ!!!」」
「一先ず安心だな!看護呼んできてくれ!」
「はいっ!」
(だれだ。どこだ。)
「すみません失礼しますね。これから治癒魔法使いますからね。楽にしててくださーい!」
(なんだ。なんなんだ。)
「〈シウリ・ヒリス・サンセ〉」
(……!)
誰かに呼ばれてきた誰かが胸に手を当てて何かを唱えたとき、先程体感した記憶のある温かさが流れ込んできた。手ぼんやりと光が覆い、それが触れられている胸を中心に、血液のように張り巡らされていく。それと同時に、身体が僅かに軽くなるのが分かる。
先程までは全身をまるで動かせない状態だった。だが、今なら少しだけ動かせそうだ。
もう目もまともに開く。耳は相変わらず遠いが何を話しているのかは分かる。劇的な変化だった。
「………な、にが…」
ようやく俺の口から言葉と言えるものが発された。
◇◆◇
「おぉう、よく食べるねぇ」
お婆さんにそう言われながら、俺は右手に持ったスプーンで少しずつ昼食分の食事を消化していた。噛まれたせいか左腕が上がらず、少々不格好だ。
初めてまともに人と会えて、それで高揚したのもあるかもしれないが、初めて見た料理は味がどこか母が作ってくれるものに似通っていて泣きそうになる。
助かった。助けられた。
その事実が嬉しかった。死にかけて、意識がなくなるまで孤独でいた俺にはそれだけが救いだった。
どうやらここは教会の中らしい。転移した時に見えた城。その町、王都の近くに位置する村に運ばれ治療を受けた後、術後と負傷の疲れで再度昏睡してしまっていた時に再度ここまで移動させたんだとか。
この教会は託児所のような役割をこなしているから、身元も分からず本人の意識もないため一時的にここに預けたのだろう。
といっても、俺が目覚めた後でもここにない地元の名前は通用しなかったために、孤児と断定された。多分、暫くはここで生活を余儀なくされる。
だがありがたい。やっと安心して呼吸をすることができる。こんな温かい食事まで用意してくれたのだから至れり尽くせりだ。
「……ありがとう、ございます」
「お礼なんていいよぉ…私はご飯作っただけだから」
微笑むお婆さんにそれだけぼそりと呟やくと、からから笑いだして返される。気恥ずかしかった。
死んだはずだった。獣、ここでは魔獣というらしい。とにかくその脅威にさらされ転移早々に絶命したはずだった。なのに今、見知らぬ食事を喉に通している。不思議な感覚だ。
ほわほわ気分で硬めのパンを咀嚼していると、コンコンとドアが叩かれた。黙っているとお婆さんに「あなたに用があるお人ではないでしょうか?」と助言してもらったので、恐る恐る「ど、どうぞ」と招き入れる。
「失礼する」
「あ、はい……ぇ?」
透き通るように響く声に続いて部屋に入ってきたのは、えらい美人だった。
淡い黄色に染まった長い髪。綺麗な碧眼。凛とした表情。肉付きのよい腕、胴、脚。それらを堅く保護するような鎧。腰に下げてある騎士剣。どうみても女性だが、騎士だと分かる。
雰囲気から言ってもかなり強者の部類に入りそうな女性がこちらを向いて立っていた。
知らない。この人のことを綾斗は何一つ知らない。
一体何の用があって訪ねてきたのだろうか。
「……無事に生きているようでなによりだ、少年」
誰だ。
「え、えっと……」
はい、あざーす!と言いたいが面識がないためどう接していいかが分からない。ここら辺は地元でも散々苦労した。
あっちが俺のことを知っているけれどこっちはあっちのことなんか全然知らない。あっちは「あらまぁ〜!」なんてテンション高めに絡んでくるのにこちらは苦笑いしかできないという。
幸い、あちらもこっちの事情を察してくれたようで微笑みながら説明してくれた。
「おっと、これは失礼。君は私のことを知らないか」
彼女はライラ・セルトナと名乗った。日本ではあまり使わない部類の名前だった。やはりここは日本ではないのだ。分かりきっていたことかもしれないが。
ライラから説明がなされた。まず、ライラが俺を救ってくれたこと。魔獣にガブガブされているのを発見し討伐、治癒施設まで運んでくれたらしい。
なるほど、だから様子を見に来たと。
優しい人なんだな。
「覚えているか?あの時のこと」
「……正直、思い出したくないですけど」
吐き気がする。口に入れたスープが全部出そうだ。硬く鋭いものが自分の身体に喰い込んで暴れまわる感覚。あれを覚えてしまったらもう外には出られない。
話にも、出して欲しくない。
「では、自分の名前は分かるかい?」
「えっと、アヤト・ヒロセです」
広瀬綾斗だが、合わせておくに越したことはない。
「随分変わった名前だ。どこの出なんだ?」
「えっと……」
お婆さんに地元の名前が通用しなかったように、他の人間でも理解できた者はいなかった。今更騎士さんに架空の地名を出すのもどこかモヤモヤする。解決しようのない問題を解決しようとしているような感覚。
なので、ここはこちらに乗っ取ったやり方で返答することにした。
「すみません…名前は分かるんですけど、ここが何処で自分が何処から来たのかは分からないんです。本当に、名前だけしか……」
「……なるほど。ムラトの隠し子か」
………?
ムラトの隠し子?
知らない単語が出てきた。
「……?あぁ、すまない。ムラトの隠し子と言うのはだな。ズバリそのまま未来に征く宛ての無い子供の事を言うんだ」
ムラトの隠し子。
それはつまりあっちで言う迷子と相違なかった。
この世界には六大神というものが存在するらしい。生命やその他を創造せんとした者達だと。火の神イグナ、水の神ハイド、風の神ゲイル、土の神アレナ、陽の神サンセ、陰の神ムラト。
それぞれの神はこの世界の魔法を使う際の起句にもなっているらしく、魔法はその神への敬意を評して使用するものとされているんだとか。
魔法という概念が出てきたことに驚いたが、そこは一先ず置いといて説明を続ける。
その中でもムラト。陰の神は相当なイタズラ好きで、たまに幼い子供を攫って自分の子として記憶を奪い、飽きればそこかしこに捨てるという伝承があるのだそうだ。
頻繁ではないが確かにある現象であり、そのためか、それと似通った状況の子供のことまで「ムラトの隠し子」と呼ぶようになったのだという。
いきなりムラトという名前を出されて話を進められたのでついていけない気がしたが、こんな理解で間違っていないと思う。
「本当に覚えていないのか?出自や幼い時のことを」
「はい、申し訳ないですが」
「サナ婆様がある程度の地名を聞いてもダメ、ということだな」
「はい、左様でございます」
お婆さんはサナ婆と言うらしい。覚えておく。
サナ婆様にはこちらも地元の名前を出したが、どうやらそれを会話に引き出すつもりはないようだ。少しホッとした。
「身体の具合はどうかな」
「か、身体はもう大丈夫です、よ?……多分。傷がある左腕はまだ絶対安静で、動かそうとしても痛みでろくに動かせてませんが」
「……それは大丈夫と言うのかな」
「ぁ、大丈夫、じゃない、かもですね」
「ここの治療師は腕の良い方たちが多いからそれもなんとかなるかもしれないが、一応王都でも診てもらおうか」
「っ!!……ぁ、いやっ、大丈夫です」
「……そうか。その気になればいつでも王都に行くといい。少し金銭上の余裕は必要だがな」
「あはは……それはますます今は駄目ですね」
「それはそうだが。出そうか?」
「い、いえいえ……滅相もない」
揺れる白いカラーの花のように口元を緩ませる彼女は俺の目を否応なく惹きつける。美貌というか、漂う雰囲気が俺を取り込んで離さない。
「……さて、君がムラトの隠し子だとして、いくつか聞きたい。いいかな?」
「え、えぇ……」
「君、ご両親のことは覚えていないかな?」
少し、考える時間が欲しい。
ムラトの隠し子が記憶喪失の迷子だとするならここで父さんと母さんの記憶があるとするのはどうなのか。ムラトが自分の子として記憶を奪うなら親のことは真っ先に消すだろう。
たとえ俗称だとしても、安易に話していいのか?
「ぁ、ぇとっ、……そうですね」
目が泳いだが、そこまで考えてなんとか逸らした。
「そうか……なら、戦闘経験に関してはどうだ」
「ぇ、戦闘、ですか……?」
「あぁ、何か覚えていないかな」
「ぇ、っと…」
いや、どうすればいいんだこれは。
「はい、な、ないです!」
「……そうか。なら、少し手を見てもいいかな?」
「は、はぁ、手ですか」
「あぁそうだ。手、だよ」
俺は止まっていた右手を動かす。スプーンを皿の上に落として、ぱっと開いてぐっと女騎士の前に伸ばしてみせた。
「ふむ……」
「ぇ、えっと、何が分かるんですか?」
「随分と綺麗な手だな」
「あ、ありがとうございます…」
「こちらこそ。見せてくれてありがとう。戻しておくれ」
「は、はい……」
一体なんのつもりなんだ。
この人、やたら俺のことを知りたがっている。というか何故ここまで来てそんなことを。お婆さんとも仲が良いようだし、この場所に深い関係があるのだろうか。
特別な感情があるなんてのは有り得ないのでそう考えるしかない。
「え、えっと、ライラ、さんはどうしてここに……」
「セルトナでいいぞ。ライラは慣れない」
「あ、じゃあ……セルトナさんはどうしてここに?」
「理由はそうだな……どうなったのか単純に気になったのもあるが、一番は君に少し興味が湧いたからだ」
興味とはなんだ。意味が分からない。
だがとりあえずそういうのではないはずだ。
勘違いはしない。人生の鉄則。
「と、そんな感じなのだが……うん。やはり私の考え過ぎのようだ。済まないな、気苦労をかけてしまって」
「考え過ぎ、ですか……。気苦労とかは心配ご無用です」
はっきり言うと、美人と会話できたのは幸運だった。
「それに、本当に感謝してもしきれません。命を救ってくださり、ありがとうございました」
「褒められることはしていない。それが仕事なのだから当然だ。……まあ、あの時は非番だったが」
少し話してみて分かった。この人は謎もあるけど、悪い人ではないのだ。弱い者に優しく、驕りもない。あっちの世界にこんな人間がどれだけいただろうか。
この人のお陰で俺は生きていられるのだ。見習わなければならない。
「あはは、非番でしたか」
「あぁ、よかったよかった」
ライラ・セルトナ。覚えておこう。
「おっと、そうだ」
「……?」
「折角だし、これを渡しておこうか」
「なにを……、…!?」
セルトナが手持ちの袋から出して近くの燭台にごとりと置いたのはあの魔獣の口についていた大きな牙だった。
「こ、これは……?」
「魔獣、サーベルアッドの遺骸。牙だよ。状態もいい。少しだがいい値で売ることもできる。金銭をあまり持っていないんだろう?」
「ですが、これは…」
「それに、もし戦闘を生業とするなら武具にもできる」
「は、はぁ……」
見つけられたくない黒歴史を掘り起こされたときの気分。あれが身体を引き裂こうとしていた―――
「ぅ、ぅえぇ……」
嘔吐寸前。もうダメだ。
「おっと済まない。しまっておくよ。置いておくから好きにしてくれ」
「それは……、どうも……」
なんとか堪らえて礼をする。少しだけ胃液が床に垂れたのは見逃して欲しい。
「どうかお大事にね、アヤトくん」
「は、はぃ……」
「ではこれで。失礼した」
整然とした態度と規律ある所作でセルトナが退室する。俺は未だ残る嘔吐感を引きずって、サナ婆にお願いして背中をさすって貰うことしかできなかった。
◇◆◇
コツコツと音を鳴らしながら教会の廊下を進む。十年前と全く変わらない景色につい追懐の情に引きずられそうになるが、セルトナはぐっと堪らえた。
「セルトナさん」
そんな彼女に前から同じような鎧を身に纏った青年が近づく。アヤトよりぐっと背丈が伸びているその男はセルトナの少し後ろを歩き始めた。
「ジャン。君には入口を担当させたろう」
「あはは、気になっちゃって。どうでした?」
温和な笑みを見せながら気になる物に躊躇なく手を伸ばすジャンに、セルトナは息をつきながら返答した。
「やはり、戦闘経験はないようだ。手にしても武器の扱いに慣れているつくりじゃなかった」
「やっぱり……じゃあどうやったんですかね」
「……さあな」
「えぇそれだけですかセルトナさん。なんの指導も経験もなしにサーベルアッドを木の棒で殺すなんて出来ませんよ普通。しかも急所に直撃だ」
アヤトとの会話。セルトナは一つだけ嘘をついていた。セルトナが瀕死状態だったアヤトを救出したのは間違いない。
だが、セルトナが駆けつけた時、サーベルアッドは既に死亡していたのだ。というか、死亡していなければアヤトはこうして生き延びていないだろう。
アヤトの意識はなかった。殺したのなら殺したと覚えているものだがそれもない。噛まれるところまで鮮明に記憶があるなら尚更だ。
彼にあったのは「殺される側の記憶」。つまり彼がサーベルアッドを殺したのは無意識だったと勝手に推測した。
無意識で、戦闘経験ゼロの男があるレベルの魔獣を倒せるのか。
結論から言えば難しい。
噛まれ具合からして常人ならもう身体のどこも動かないような激痛を宿している状態。意識だって一瞬で飛んだだろう。それにも関わらず殺していた。
「攻撃される際に一番厄介なのは怨念や恨み、二番目が雑念が存在しないことだって、セルトナさんの持論ですよね」
「偶然だとは思うが、気になってな」
無意識下の行動、攻撃は熟練させれば武器になる。
「だが肝心の本人があれじゃあな…」
「ま、そこは無理もないですよ。あんな体験したら」
「まあこればっかりはな」
だがもし、彼が身体を鍛え上げ、その長所を磨き上げたとしたら―――
「―――貴重な戦力になるのかもな」
「まあ、それこそ数十年の鍛錬が必要ですけどね、彼には」
「ふふ、違いない」
『少しだがいい値で売ることもできる』
『もし戦闘を生業とするなら武具にもできる』
(もし君にその気があるのなら、頑張って、努力してこちらにおいで。実力が伴えば、歓迎するから―――)
空虚な廊下。それを二人分の靴の音で満たしながらライラ・セルトナは薄く微笑んだ。
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