年明けこそ鬼笑う

けんこや

年明けこそ鬼笑う

 俺は告白してふられた。相手は同じクラスの女子だった。「平凡な男でつまらない」というのがその理由だった。悔しかった。自分が“平凡”であることが悔しかった。平凡ではない男になりたかった。俺は泣きながら夕日に向かって叫んだ。


「鬼になる!」


 何が何だか分からない。ただ漠然と、常識的な能力を超えた何者かになりたかった。


「俺は鬼になってやる!」


 もう一度叫んだ。その瞬間、俺の体の中からごろりと鬼が転がり落ちた。



 鬼は俺の顔をみると歯をむき出しにしてニッと笑った。その醜悪極まる笑顔に、突然俺の臓腑が煮えかえった。おもわず手が出た。その頭をつかみ上げ、コンクリートに叩きつけ、粉々にすりつぶしてやりたいという欲望をおさえることができなかった。鬼は突き出した俺の手をひらりとかわすと、再び二ッと歯茎をむき出しにして笑った。俺の全生存本能が怒りに打ち震えた。


 「うぉおおおおお!」


 俺は雄叫びをあげながら鬼に襲いかかった。しかし鬼は捕まらない。ひらひら上手に逃げまどう。それから俺と鬼との壮絶な追走劇が始まった。



 鬼は何処までも逃げてゆく。野を越え山を越え、住宅地を突っ切り、駅前の人ごみをするすると駆け抜けてゆく。俺はどこまでも鬼を追いかけた。息の続く限り鬼を追いかけた。そして息が続かなくなるとその場にぶっ倒れた。俺が倒れると鬼はその場で俺を見下ろしてニタニタと笑い続ける。そして俺の息が回復すると、ふたたび走り出す。そんなことを繰り返した。



 鬼との鬼ごっこは毎日続いた。鬼の姿は他の人の目には映らない。だから傍から見れば俺一人が目を血走らせて縦横無尽に全力疾走を繰り返しているように見える。

 突然狂ったように走り出した俺の姿に、親も友人も首をひねった。何度も真意を聞かれたが、理由は一切語らなかった。『鬼が俺をあざ笑っているから捕まえようとしている』と言ったところで、まともに理解されるとは思えない。しかし変に疑われて病院などに収監されるのも困る。仕方なく日常生活は平静を保ちつつやり過ごし、日常生活以外の時間を、トレーニングという体にして全力で鬼を追いかけた。



 俺は走った。鬼をひたすら追い続けた。ある日、俺のこの、何かにとりつかれたように走り続ける姿を見た陸上部の顧問が声をかけてきた。部活に入るつもりはさらさらなかったが、何度も頼まれたので断り切れず籍だけ置くことにし、大会に出場した。

 県の陸上競技大会のトラックにも当然鬼はいた。ペース配分も何も全く考えない滅茶苦茶な走り方だったので大した記録にならなかったが、俺の走っているときの凄まじい気迫に何かを感じ取ったらしく、ある大学が俺をスカウトした。陸上で名を馳せる大学だった。



 俺は大学で適切な指導を受け、そして記録はみるみると伸びていった。しかし鬼はいつでも俺の一歩先でニヤニヤと笑い続けていた。まだまだ、もっと早く。俺は部活の練習を終えても、自主練と称して毎日毎日鬼のような形相で走りづつけた。鬼は自由自在に逃げまどう。坂道だろうが悪路だろうがお構いなしに走りづつける。結果として俺はあまり人が得意としない、坂道において超人的な走力を発揮するようになった。そして年始早々の箱根路の5区を任されるようになったその年、先頭ぶっちぎりで駆け抜けた芦ノ湖畔で、俺はついに鬼の頭に手が届いた。



 長年の宿願。夢の中でも追い求めてきたこの感触に俺の全身が歓喜に湧き立った。鬼の首がぐるりっと俺をふりむいた。そして一瞬驚いたように目を見開いた後、その表情が溶け崩れるかのように、みるみる柔らかな微笑みへと変貌した。その微笑みはただの微笑みではなかった。まるで全世界の慈しみを集めて結晶化したかのような神々しい光を放ち、そしてその光の中に鬼自身が溶け込んでゆくかのように見えなくなり、そのまま俺の体の中に吸い込まれていった。同時に俺の心の中に暖かい、新しい感情が芽生え、それから俺は今までいったい何に対して怒り、何を追いかけていたのかも分からなくなった。



 気が付くと周囲がどよめいていた。どうやら俺が駆け抜けた記録は前人未到のとてつもないものであったらしい。その時にたたき出した箱根5区の区間記録は、その時名づけられた『山の鬼』という俺の異名とともに、箱根駅伝の歴史の中に長く刻み込まれることとなった。



 ちなみに俺に関していうと、その後どういう訳だかさっぱり走る気力を失い、陸上競技者としてごく平凡な選手になりさがったが、なぜだかその平凡さが自分にとって実にフィットしているようで、日々満ち足りた人生を過ごしている。



『年明けこそ鬼笑う』おわり

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