12 堕落の底で

 暗い黒い泥の底で、ルコアは瞼を持ち上げる。

 全身に圧し掛かる重苦しさ、胸を締め付けるような息苦しさに彼女は顔を顰めた。


「……」


 何でまだ生きているのか。

 あのまま死ぬつもりで居たのに。


 若干の残念な気持ちと何処かホッとした気持ちを同時に覚えながら、ルコアは周囲を見渡す。

 薄暗い光が散りばめられた暗黒の空間に体が浮いている。

 夢の中のようなその状況に、再び自身は死んだのでは?と疑い始めたが、こんなにも落ち着いていて、綺麗な場所が地獄のはずが無いと考え直し、この後どうするかを考える事にしたようだ。


「とにかく上を目指してみる?でも海面がまるで見えない……というかそもそも私の頭の上が本当に『上』なの?息苦しいだけで呼吸が出来ない訳でもないし、そもそもここが水中なのかも――」

『ここが何処だか知りたいか?』

「なっ……誰?」


 独り言に返事をするかのように聞こえてくる、何者かの声。

 妙に耳に残るその意地悪な声色に、性格の歪んだヤツに違いないとルコアは思いつつ、声の出所を探そうとする。


「私にこの状況を説明してくれるの?それなら姿を隠してないで見せなさいよ」

『別に隠してるつもりはないんだがねェ。ほら、君の後ろ』


 そう言われ身動きが取り辛いこの状況でルコアが何とか振り返ってみるとそこには、教会に座していたあの女神像が逆さまの状態で暗黒に沈み、顔のない顔でこちらを見ていた。


「あら、あんたも一緒に沈んでいたのね」

『ここは俺の故郷なんでね。それで?この状況の説明が欲しいか?』

「タダじゃないなら別にいいわよ」

『仕方ねぇな、初回サービスしてやるよ』


 確かに少女のような声のはずなのに、その口調は何処か乱暴で、ひねくれている。

 ルコアはそんなちぐはぐさに、嫌悪感をふつふつと感じ始めた。


『ここは世界と世界の隙間、「混界」と呼ばれる場所だ。本来人が生身では立ち入れない、そんな場所にお前は堕ちたんだ』

「アンタに引き摺り込まれたのよ」

『それは誤解だぜ?お前が自分から近付いてきて、落っこちたんだ』

「はぁ……まぁそんなことはいいわ。それで?このままだとどうなるの?」

『おやぁ?まだ気付いていないのか?その指、よく見て見ろよ』


 女神像に言われ自身の手に目線を下ろし、初めてその爪先からじわじわと体が闇に溶け始めているのにルコアは気付いた。


「これは……長く居るとまずいわね」

『そういう事だ。そこで、だ。取引してみないか?なぁに助かる為の簡単な取引だ』

「何よそれ、結局それが目的だったのね。聞いてあげない事はないけど胡散臭いったらありゃしない」

『悪い話じゃないぜ?何よりお前の「生きる理由」を果たす為にはよ』

「……は?」


 こちらの事情を分かっているような口振りをする目前の女神像に、今度は本気で顔を顰めた。


『さっきも言ったように俺達はここで湧いて出て来た存在、「イデア」だ……まぁこの姿のままじゃまだ「イドラ」っていう蛹なんだがな。ただ俺が蛹の状態から出て真のイデアと成れれば、お前を助けてやる事も出来る。この暗黒の混界から抜け出して、お前が恨む全ての人間を皆殺しにしてしまう事だって出来る』

「それで?皆殺しにした後は?」

『別に?お前の好きにすればいい。俺の力を使ってどこぞの世界を征服したって、ただのんびりと紅茶を啜るだけの余生だって構わねぇ。イデアにさえ成れれば俺の目的は果たされる。勘違いしてるかも知れねぇが、魂を執ったりはしねぇよ』

「ふ~ん……」


 やはり胡散臭い。

 こういう事を持ちかけてくるのは、自身の教えでは大抵ろくでもないヤツだというのは相場が決まっていたのだ。


『なぁお前、俺はよぉお前の心理状況を反映してこんな喋り方になってるんだ。俺とお前は一心同体になれる、そんな気がするんだよ』

「へぇ?私のせいでそんな胡散臭くて意地悪そうな言葉遣いになってるわけ?そりゃ納得だわ」

『そういう事だよ。ほんの、ちょっとした「契約」を交わすだけでいい……お前の体の何処かに、俺を住まわせてくれりゃあな。俺は実体を手に入れたイデアになり、お前と一心同体になって恐ろしい力を貸してやれる』


 ルコアはほんの少しだけ迷っていた。

 この女神の力を借りればこのまま生き延びれるだけでなく、自身の生きて来たたったひとつの意味を叶える事も出来る。

 そうすれば後は生きるも死ぬも自由なのだ。


「……それも悪くないかも」

『そうさ。さぁ、契約を結ぶんだ……体の一部を貸してくれるだけでいいんだ。たったそれだけでなぁ……アコール!』

「……決めたわ」

『よし、いいだろう!いつでも来いよ、アコール!』


 決心したように目の色を変え、女神像へと手を伸ばすルコア。

 それを受け入れようとただ佇む女神像。

 そして――


『――がっ!?』

「あんたを壊す事にしたわ、女神のフリした悪魔さん」


 爪を立てたルコアは女神像の顔の穴に指を入れ、頭を握り締めた。

 石膏のように固そうな女神像の頭がミシミシと窮屈そうな悲鳴をあげる。


『な、なんのつもりだっていうんだ!何考えてんだ!そんな事したらおめぇもこのまま溶けちまうんだぞ!?アコール!』

「ここから出る方法ぐらい自分で見つけるわよ、別にこのまま溶けたって構わないしね。でもそれ以上に気に食わないのはあんたの『私を全部分かったようなその態度』なんだよ!」

『ぐ、お前ェ……ついさっきだって俺の同族がここに落ちて来た人間と契約結んで、ここから出ていくの見たんだぞ!?俺は嘘なんか吐いてねェし別にお前にだって損はねェだろ!』

「ふぅん、私と一緒にここに堕ちたヤツが居たんだ。それを見て自分も出来るかもしれないと、ね。ソイツとなら契約結べたかも知れなかったのに、運が悪かったわね」


 より力んだルコアの手を中心に、女神像の頭に亀裂が走る。

 石や鉱物のように見えて存外脆く、耳に聞こえて声が慌てだす。


『ほ、本気かよ!?分かってんだろこのままじゃまずいって!アコール!』

「それにムカつくのよ、私をその名前で気安く呼ぶヤツは全員大嫌いになったのに。そうやって昔みたいに、知った口で何度も何度も……」

『やめ……割れちまう……俺を割ったら……ヤバいことに……』

「ま、別にアンタが私の気に入るヤツだったとしても、ここで力を借りるようなマネはしなかったけど、ね!」

『がぁっ!?俺の顔が!?』


 バキっという骨が折れたかのような音と共に、女神像の顔の一部が欠ける。

 手頃な大きさのその破片をルコアは握り締め、拳を固める。


『な、なぁおいもうこの辺りにしてくれないか?い、いいじゃねぇかよ見逃してくれよぉ?』

「アンタが天使だろうが悪魔だろうが関係ない。私は私自身の力でムカついたヤツらを全部ぶっ壊すつもりなの。それにここはあらゆる世界と繋がってるんでしょ?こんな面白いこと、死に際に見つけられて私は幸運ね」

『お、お前……イカれてやがるよ……』

「イカれてるのは私以外の全部よ。祈り縋る事しか出来ず自分から行動を起こす事もせず『いつか誰かが助けてくれる』って信じ続けて手をこまねく事が正しいと言われてるのがずっと不思議だったけど、アンタのおかげでやっと分かったわ。アンタのおかげで、私はやっと人間に戻れた」


 破片を握り固めた拳を、ルコアがゆっくりと引く。


『ダメだ……アコール、俺を壊したら……』

「人間っていうのは、自分で考えて、自分の力で行動する者の事だって。だからこそ、私は悪魔の手なんて借りずに『人間』のまま、『人間』として生きてやる――!』


 闇を斬り、泥を掻き分け、放たれるルコアの拳。


『やめろォッ!!』

「私は、人間だぁ!」


 女神像の胸を撃つ、ルコアの拳。

 直後、女神像の全身に走った亀裂から、赤黒い閃光が漏れ出す。


「なっ、これは――」

『お、おれたち、イデアは、せかいをうみだすためのコア、エネルギーのかたまり、なんだ、よ!その、うつわを、おま、えは……こわし――』


 微かに聞こえる女神像の声。

 しかしその言葉を最後まで聞かせまいと遮るかのようにルコアの耳を貫いた爆発音。


「きゃあ!」


 目前の女神像が爆裂し、弾け飛び、赤黒い輝きが、爆発が巻き起こる。

 その衝撃にルコアの体は簡単に吹き飛ばされ、飛び散った女神像の破片が彼女の体に食い込み、皮膚を裂く。

 赤黒いエネルギーの塊は周囲の闇を飲み込むほどの強烈な渦となるが、既にその力の範囲外までルコアの体は吹き飛んでいた。

 それと共に彼女の体はまた別の力に引き寄せられ始める。

 それはこの空間の底に沈む、暗く深い、暗黒の渦の力だった。


「久々に『生きてみようかな』って気になったのに……でもどうせ行く充ても無かったしこのまま身を任せて何処かに流れ着くのも……いっか……」


 全身がバラバラになるのではと不安になるほどの異常な力の中、ルコアは再び目を閉じる。

 ここまで途切れる事の無かった自身の運命を信じて、彼女は渦の底へと沈んでいった。

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