十字架
11 ルコア
吹き荒ぶ北風と降り注ぐ雪に紛れて寂れた街を歩く、一人の女。
塗りつぶされたような黒に白い十字模様をあしらったワンピースを身に纏うその女は、白い髪から垂らした黒い横髪を風に揺らしている。
長いまつ毛を尖らせた目に映る街は、人の気配が限りなく少なく、コンクリートの抜け殻を並べた標本箱のようだった。
「無様ね。人に忘れられて、見捨てられて……」
落書きと放棄された車の残骸やゴミなどに塗れた故郷の情景を眺め、女は憐れむような、それでいて自嘲するような笑みを浮かべた。
彼女の名はルコア。
かつて「アコール」という名でこの街に暮らしていた一人の放浪者だ。
とある宗教に信心深い家庭で生まれた彼女はその教えを正しいと心から信じ込み、善行を繰り返し他人の為に生きる事こそが自分の使命であり、それこそが自分自身を救う事になると信じて幼少期を生きて来た。
しかし地域貢献活動やボランティアなどに積極的に参加していた学生時代のある時、身寄りのない者を地域のシェルターに案内する活動中に悪意ある男に襲われ、共に活動していた友人を目の前で絞殺され、自身も暴力と強引な辱めを受けた。
善意を破壊され何も分からないまま殺された友人やこの状況に絶望しつつも必死に抵抗しようとした末に、首から下げていたロザリオで男の蟀谷を突き刺し、殺害してしまう。
如何なる理由があれど純潔な肉体を若くして穢されただけでなく殺人にまで手を染めた彼女を両親は見捨て、身寄りを無くして教会に保護されるも支配人に乱暴を受けた挙句、飽きられた彼女は刑務所に捨てられ、学生時代の殆どを檻の中で過ごす事となった。
「……私の故郷にはピッタリね」
他の囚人や看守に酷い扱いを受けながらも、事件当時の状況からある程度早く刑務所から出られた彼女だったが、壮絶なトラウマとして彼女の精神には深い爪痕が残った。
同時に自身にこの傷を残した者達への凄まじい復讐心とそれを果たせない己への無気力感、人生の軸となっていた信じて来た存在への失望から『生きること』そのものへの関心を著しく失い、ただ漠然とした憎悪と虚無に歩かされる放浪者として、かつての名前を捨て、ルコアとしてここに存在していた。
そんな彼女がこの街に訪れたのも、ただ意味があっての事でもなく、時代の流れに取り残されかつて栄華を極めていたモノの残骸を自身と重ね、嘲笑う事しか出来なかった。
首から下ろす捻じれて欠けたロザリオも、もはや彼女の胸の上に存在する意味など無い。
しかし、確かにそれらが引き合う場所が、そこにあった。
「あら……ここは」
カラフルなステンドグラスが飛び散り、落書きのキャンパスとしてズタボロにされた廃墟の教会。
かつて彼女が幾度となく訪れては祈りを捧げ、身を寄せていた時期もあり、そしてトラウマを刻んだ場所だ。
暫く崩れかけた扉を見つめたルコアは、ゆっくりと入口へと続く石段に腰を下ろした。
「結局、信じてくれる人間が居なくなったらこんなモノよね、この場所も、人も……」
人と排気ガスが溢れかえっていたこの場所も、今や偏屈な老人か、身寄りの無い者、そして野良犬しか居ない。
静かに風が流れ道に雪が積もるだけのこの街を、ルコアは昔よりは何処か好きになれそうだ、と心の片隅で感じた。
「だって似ているんだもの。嫌いなはずなのに……ね」
何時だったろうか、この石段の前で募金活動をしていた子供達は今頃学生になって、何処で何をしているのだろうか。
少なくとも、あの事件からまるで時が止まったかのように前にも後ろにも進めず歳を取った実感すらない自分よりは、マシな人生を歩んでいて欲しい。
自身を憎悪と虚無に苛まれ、ただそれだけに生かされてるだけの廃人だと思い込んでいる彼女だったが、それでも一握の優しさ、甘さを捨て切れていないような、中途半端な感情に気付いて頭を左右に振った。
「私はこの街と一緒。ただ存在するだけの忘れ去られた亡霊……」
湿った感情を言葉にしながらも涙を流す事すらない彼女はぼうっと空を見上げた。
その時。
「……え?やだ、気持ち悪っ」
手に伝わるベッタリとした感覚に気付いて目線を下ろすと、黒い液体のようなモノが彼女の手のひらを染めていた。
咄嗟に立ち上がって見るとその液体は教会の扉の下から浸み出して石段を伝って流れている。
「……誰かが落書き用のペンキを中でひっくり返した?どうせだったら仲間に入れて貰おうかしら」
そんな事を考えながら教会の古びた扉を引き摺るようにして開くルコア。
しかし彼女の瞳に映ったのは落書きに勤しむ若者では無く、もはや見る影もなく崩れ落ちた礼拝堂と、床を沈める漆黒の液体だけだった。
「……何なの、これ。いたずらにしては随分と悪趣味で大がかりね」
膝が浸かるほど水浸しな礼拝堂の中をルコアは進んでいく。
瓦礫と液体が混ざり合う異常な光景に、彼女は何故か安心感と悔しさを同時に覚えていた。
「こんなにするんだったら、私にも協力させて欲しかったわね……ん?」
本来聖壇が位置していた場所に感じる違和感。
何度この目にしたか分からないその場所にあったのは聖なる十字架でも、聖母の像でもなく、異様につるりとした鉱石のような、女神のような白い像だった。
顔の場所には顔がなく、その代わりに黒い液体を流すぽっかりとした穴だけが空いている。
「涙を流す聖母はよく聞くけど……ゲロ吐く女神像は知らないわね」
もっと近くで見てみようと歩みを進めるルコア。
黒く染まった足元には思っていたよりも瓦礫が散らばり、何度か足を取られそうになりながらも久々に感じた怖いもの見たさや好奇心に動かされる。
何とか女神像の目前までにじり寄ったルコアだったが、その時、何かが足首に引っ掛かりバランスを大きく崩す。
「なっ!?十字架がっ!?」
本来女神像が位置する場所に安置されていた十字架が液体の中に沈んでおり、不意を突かれたルコアは前のめりに泥の中へと倒れた。
「このっ……こんな時すら我が主ってヤツは……っ!?」
体を起こそうと両手を床に突こうとした彼女の体に加わる妙な感覚。
それはまるで排水口に水が流れるように、液体の奥へと引き込まれるような力だった。
「なんで!?吸い込まれるっ!」
ズルズルと渦を巻き、力を増していく黒い海流。
本来床があるはずの場所よりもその力の根源は深い場所にあり、暗黒の底へと引きずり込まれるようにして彼女の全身が闇に飲み込まれる。
「私はここで……っぐがっ!?」
そのまま闇の中へと引き込まれつつあったルコアだったが、突然首に鋭い痛みと苦しさが襲い掛かる。
首から下げていたロザリオが先ほどの十字架に引っ掛かり、ギリギリと音を鳴らして彼女の首を締め上げてたのだ。
「こ、の……ぉ……っ!」
闇の底へと吸い込む力に肉体を引かれ、陸に残っている十字架はビクともしないせいでロザリオの細い鎖が彼女の首へ食い込み、皮膚を裂く。
滲み出た血液が液体の中をゆらゆらと舞う中、彼女の精神は再び憎悪の炎が吹き上げようとしていた。
散々自分を縛り付け、深い傷跡を残した存在。
もはやこのまま沈んで死を迎えるのも悪くは無いか、と諦めかけていたルコアだったが、自身を殺そうとするこの運命が、無性に気に入らなかった。
「お前にぃ……お前にだけは私の命まで執らせるかぁっ!」
全身の力を振り絞り、首に食い込んだ鎖を掴み、狂気にも近い執念で鉄製の鎖に爪を立てる。
凄まじい海流に身を引かれながらも尚、ここで殺される事に尋常でない悔しさを覚えた彼女は、あのような事件があっても決して外す事のなかったロザリオを、遂に引き千切った。
「……最期くらい、自分の意志で……地獄に堕ちて、や……る……」
闇の中、海流に舞う千切れた鎖と、歪んだロザリオ。
水面に取り残されたそれらへ手を伸ばすようにして、霞んでいく意識の中、彼女は自身の人生を、運命を思い出していた。
あのちっぽけな十字架に縛られ続けた、罪深き人生を。
「まぁ……悪くない、か――」
音も無い闇の中で、ルコアは不思議と覚えた懐かしい安心感に身をゆだねながら、冷たく苦しい世界の底で、笑みを浮かべながら眠りに堕ちた。
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